殺し屋と何でも屋と娘の話 1


何でも屋と娘より前の話



  春の柔らかい光を受け、生命力溢れる瑞々しい草たちが天へと背を伸ばす。心地よい風が地面一杯に敷き詰められた緑の絨毯を駆け巡り、葉がそよそよとあちらこちらで囁き合っていた。
 そんな原っぱをランチボックス片手に走り回る少女が一人。ピンク色の帽子が特徴的なその子は、どうやらお弁当を食べるのに適当な場所を探しているらしい。やがて気に入った所が見つかったのか、天真爛漫な笑顔で友達を呼び、手を大きく振った。
 大きな木の陰に同じ年ぐらいの女の子数人が集まってくると、さっそく帽子を被った少女がシートを敷く。友達同士楽しそうにはしゃぎながらシートに腰を落とすと、和気あいあいとお揃いのランチボックスを開いた。
 中身はハムとチーズのサンドイッチとデザートのリンゴ。皆、同じメニューだ。一人がランチボックスの中に手を入れようとした時、「待った」という声がした。
 女の子達が一斉に顔を上に向ける。視線の先にいたのは、二十歳前後の若い女性。顔の右半分を長い前髪で隠した特徴的な髪型をしているが、それでも一目見て美人だとわかる容姿をしている。腰をかがめ、子供たちに優しく微笑む彼女の持つ温かい雰囲気は、お姉さんというよりもお母さんに近いものだった。
 女性は自分の頭を指差し、先ほどサンドイッチを食べようとしていた女の子の髪の毛に葉っぱが付いていることを教えてやった。
 指摘された子は慌てて頭に手をやり、葉っぱを取り除く。途端に周りから明るい笑い声が漏れた。
 和やかな雰囲気の中、ピンク帽子の子が女性に一緒に食べようと誘う。女性は快く承諾すると、女の子たちの輪に入り、腰掛けた。そして、ようやくランチの時間が始まった。
 青空の下、爽やかな空気の中で食べるサンドイッチは、普段より格段に美味しく感じる。
外でこんな風に過ごす機会を、少女達はあまり持たないので尚更だ。
 楽しいひと時を過ごす中、帽子を被った女の子がふと女性に訪ねた。
「どうして、あまり外に遊びに行かないの? もっといろんな所に行ってみたいのに」
 素朴な疑問に、女性の表情が瞬時に曇った。子供たちを外へ出すことを、彼女は意図的に避けていた。とある事情のせいなのだが、それを話すわけにはいかなかったのだ。
 特にこの帽子を被った少女には。
「お外はね、危険が一杯なの。本当はもっと遊びに連れてってあげたいけど、私や園長先生はあなたたちを守るのが仕事だから」
 いつも、この手の話題になる度にしてきた言い訳じみた説明をまた繰り返す。不自由をさせているという自覚はあるし、それが心苦しくもあった。けれど口にした言葉通り、彼女には子供たちの身の安全を守るという責務があった。それは子供たちのためでもあり、自分のためでもある。
 そんな女性の葛藤を、聡い帽子の少女は敏感に悟る。これ以上、我が儘を言ったら困らせてしまう。
「そっか、それじゃあしょうがないよね。分かった」
 少女は頷き、女性の説明に対し納得した様子を見せた。その気遣いがまた女性の心に影を落とす。
「ごめんね。その代わり、その代わり今日は一杯遊んじゃおう。私も仲間に入るから!」
 薄暗い思いを覆い隠すようなにこやかな顔で、張り切った声を出す。途端に少女は嬉しそうに破顔した。
「じゃあ、お昼ご飯が終わったら、鬼ごっこしようね!」
 あまりに無邪気で健気な子供の姿。それを見て、女性は改めて心に誓った。けして、この子や他の子供たちに、黒い魔の手が伸びることがないようにしなければと。
 まさか、今まさに自分たちに不穏な影が忍び寄っているとも気づかずに。


 昼食を終えた後、少女達と女性は鬼ごっこに興じていた。明るい無垢なはしゃぎ声が草原に響き渡る。
 逃げる友達の背中に腕を伸ばし、鬼役のピンク帽子の女の子が捕まえようと追いかける。
それを阻止しようと、追われている子は服を掴もうとしている手をうまく避け、右に方向転換し、鬼を振り切ろうと試みた。帽子の子もそこで諦めずに跡を追う。はしゃぎながら、くるくると草むらを駆け回る少女たち。やがて軍配は鬼の方に上がった。
 帽子の女の子が追いかけていた子の背をタッチする。これで鬼が交代だ。捕まった子が十を数える間に、他の子達は遠くへと逃げていく。帽子の子も鬼から逃げようとした――その時だった。
突風が吹き荒れ、葉が大きく揺れ蠢く。「あっ」と声を上げた瞬間にはもう、少女の帽子は風に攫われ、上空へと舞った。
 運悪く落ちた先が斜面になっていたため、帽子はコロコロと下へ転がっていく。少女は慌てて帽子を追いかけた。
「遠くへ行っちゃダメよ!」
 少女が一人、集団から離れていくのに気づいた女性が焦ったように呼び止める。しかし、少女は「すぐ戻るから」と制止を振り切り、そのまま走り去っていってしまった。

 帽子は一旦動きを止めたかと思えば、風の悪戯により少女の手が届く前にまた何処かへと行ってしまう。
「もう待ってよ!」
 まるでからかわれているような帽子の動きに、頬を膨らませながら走る。しばしの間逃げる帽子と格闘した後、ようやく捕まえることが出来た。
 汚れを払った後、今度は吹き飛ばされないよう深く被る。この帽子は大のお気入りで、少女の宝物の一つだ。彼女が大好きな人から貰った物で、非常に大切にしていた代物だった。なくさなくて良かったと心からほっとする。
 ふと、気づけば周りに友達や女性の姿が見えず、声すら聞こえない。帽子との追いかけっこに夢中になり過ぎて、随分と遠くへ来てしまったらしい。
 早く戻らないとみんなが心配してしまう。来た道を引き返そうとしたが、ガサガサっという物音に足が止まった。緑色の地面に漆黒の影が映る。
 ゆっくりと後ろを振り向けば、そこにいたのは三人の男たちだった。
 少女を見下ろす瞳はどれも薄暗く、ぎらぎらとした光を伴っている。幼い少女にとってその姿は、実物より巨大に末恐ろしく映った。
 その顔に貼り付けられた下卑た笑みを見て、少女は本能的に危険な雰囲気を肌で感じ取る。
 この人たちと関わり合ってはならない。とっさにそう判断し、少女は急いでその場から離れようとした。
 だが、それを阻むように。男の一人の手が強い力で少女の腕を掴んだ。甲高い悲鳴が上がる前に男は少女を抱き抱え、その口を手で塞ぐ。
 脚をばたつかせ、懸命に抵抗する少女。その反動で帽子が地面に落ちる。しかし、その魔の手から逃れるには、少女はあまりにもか弱かった。


 それから十数分後、一向に戻ってこない少女を心配した女性が探しに現れた。何度も大声で名を呼ぶが、返事は一切ない。
 女性の胸を黒い不安のもやが覆っていく。こんなことなら、あの子が自分から離れようとした時、何としてでも引き止めるべきだった。誰よりも気をつけてあげなければならない子だったのにどうして。深い後悔が女性を苛ませた。
 大丈夫、きっとちょっと道に迷ってしまっただけと、根拠のない希望的観測にすがりつく。だが、あるものを目に留めた瞬間、女性は凍りついた。
 地面に落ちたピンク色の帽子。あの子がとても大事にしていたもの。しかし、持ち主の姿はどこにもない。
 女性が震える手で帽子を拾い上げる。そして、力なくその場にへたり込んだ。
 最悪の事態になってしまったことを女性は悟る。草原を吹き抜ける風によって、草木がざわざわと不穏な音色を立てていた。





 とある小さなビル。薄汚れた窓には『ロベルト・キストラー印刷会社』という消えかかった文字。あまり空気の良くない室内では、印刷用の機械が所狭しと並んでいる。だが不思議なことに、昼間にも関わらず、機械はまったくの無音で動いている気配が微塵もない。まあ、それもそうだろう。印刷会社と名乗っているものの、ここでは一枚足りとも印刷物を作っていなかった。
 本当の稼業をカムフラージュするために作られた、いわゆるダミー会社なのだから。
 どう考えても、良からぬ匂いを感じさせる薄暗い一室の奥に安物のデスクが一つ。そこに不遜な表情で、煙草を咥えた一人の男が座っていた。表の世界での身分はこの会社社長ロベルト・キストラー。しかし、実際は……。
 男の視線はデスクに置かれた固定電話に向けられている。やがて、電話は彼が待っていたであろう呼び出し音を鳴らした。
「はい、こちらロベルト・キストラー印刷会社。何か御用でしょうか?」
 受話器を取った男は煙草を唇から離し、白い煙を吐き出す。そして、芝居がかった軽快な口調で話しかけた。すると、受話器の向こうからくつくつと喉を鳴らしたような音が鼓膜を不愉快に震わせた。
「相変わらずだな、リア。懐かしいぜ、そのぶっ殺したくなるぐらいのふざけた態度」
 呼ばれた名に煙草を灰皿に押し付け、唇の端に歪んだ微笑を浮かべる。その瞬間、男の顔はロベルト・キストラーから何でも屋リア・キリングスへと変わった。
「ああ、おれも懐かしいぜ。そのいかにも頭悪そうで、低俗さがこれでもかとも滲み出ている声。なあ、グレッグ・ハウザー」
 最後の名をことさら強調して言えば、相手から堪えきれないといった感じの下品な高笑いが上がる。
「へえ、覚えてくれてたのか。てっきり忘れ去られてるもんかと思ってた。」
「まあ、今の今まで綺麗さっぱり忘れてたんだがな。記憶に残しておく価値も必要性もなかったもんで」
 軽口を叩き合うようで、その実お互いの出方を伺うかのように腹を探り合う会話。辺りの空気が徐々に刃のように研がれ、鋭くなっていく。
 グレッグ・ハウザーは、何でも屋を始めた初期の頃に付き合いがあった男だ。取り立てて高い能力を持った人物でもなかったが、まだろくに人脈がなかった中では使いやすかったのでよく利用していた。だが、何でも屋として裏社会での確固たる地位を築き始めると、他に扱える有能な人材が増えていき、次第にグレッグの価値は薄れ、段々と疎遠になっていった。
 最後に接触を持ったのは、五年前につまらないヘマをやらかしたグレッグがリアに助けを求めてきた時だ。だが、利点がないと判断したため、手を貸さなかった。結果、グレッグは刑務所送りになったわけだが、この電話から見るにどうやら出所してきたようである。
 そんな経緯を持つ男からの接触。まさか、昔を懐かしみつつ、世間話でもしようというわけではないだろう。
「で、お前は今何してるんだ?」
「レブナントって組織の世話になってる。知ってるか?」
「ああ、名前だけはな」
 この辺を根城にしている子規模な犯罪組織で、主に扱う商品は麻薬。こちら側の業界では、特記することもないありふれた存在だ。その程度の組織にしか相手にされなかったのだろうなという事は容易に想像がついた。
「そうか、なら話は早い。実は今うちでな……」
 もったいぶったように、グレッグは一旦言葉を切る。
「お前の娘をご招待してる」
 告げられた事実に、リアは顔色を変えるどころか眉一つ動かさなかった。当然だ。最初から知っていたのだから。その上で相手の茶番に付き合っていただけだった。
「ああ、どうもそのようで。数時間前に園長センセ達から電話があってな。シンディが攫われたって泣かれたよ」
 今思い返しても、娘を預けている孤児院の母娘の取り乱しっぷりは愉快だった。彼女らはリアに弱みを握られており、シンディを警護することで自分たちの平穏な生活が保証されている面も確かにあるのだが。けれども、それ以上にあの親子は純粋にシンディの身を案じていたのだ。娘を誘拐されたという事実を前に、涼しい顔でゆったりと二本目の煙草に火を付けた男よりは、よっぽど一般的な反応だったかもしれなかった。
「こいつ、あん時のガキだろ。ひょっとしてと思ったが、まさか本当にお前の娘だったとはなぁ。こいつも可哀想なやつだ。お前の娘じゃなかったらこんな目に合わなかったろうに」
 シンディという強力なカードを手に入れ、優位に立ったつもりであろうグレッグは明らかにふんぞり返った口調で話す。相手のにやけ面が目に浮かぶようだ。
 映画とかではこの手のやつはすぐ死ぬよなと、リアの顔がシニカルな笑みを形作った。
「おれもそう思うが、残念ながら子は親を選べねぇもんだしな。一応、お前みたいな連中の手が及ばないようには策を講じてたが、世の中そう上手くは行かねえってことだ」
 誘拐の事実の知った時点で、犯人の目星は即刻ついていた。シンディがリアの娘だと知っている人物は数える程しかいない。リアに何らかのプレッシャーをかけるため、娘に手を出そうなんて愚かな考えをする輩はそこからさらに絞られる。候補は二人、その内一人はとうの昔にあの世の住人になっていたので、残ったのはグレッグ・ハウザーただ一人というわけだった。
「で、回りくどいのはそろそろ止めにして、いい加減本題に入ろうじゃねえか。レブナントの連中は何がお望みだ?」
「ははっ、随分と物分りがいいな。手間が省けて助かる」
「おれに対する復讐なら、シンディはとっくの昔に死体として見つかってるだろうからな。基本誘拐ってのは何か要求があるからやるもんだ」
 それにこの誘拐をグレッグ一人でやったとは考えにくい。十中八九、レブナントの力を借りているはずだ。一個人の復讐に組織が手を貸すことはまずない。利益があるとみなしたからこそ、シンディの拉致に踏み切ったのだ。ただ、おそらくグレッグの方が計画をレブナントに持ちかけたのだろうし、そこには自分を助けなかったリアへの恨みが幾分か含まれていたのも間違いないだろうが。
「まあ、そうもそうだな。……最近、うちの地域の馬鹿な政治家が「クリーンな街づくりの推進」とか頭の悪い取り組みを初めてな。手始めにドラッグの排除を目標に掲げたやがったのよ」
 話の流れから、リアは瞬時に相手が自分に何を求めているのかを察した。
「それで、警察が麻薬組織の一斉捜査を始めてな。至るところに鼠を仕込ませて、別の連中の組織も大打撃受けた。おれらのとこも非常に困ってんだよ」
「そりゃ大変だ。囮捜査ってのはリスクが高いが、その分効果も高いもんだからな。お前らにとっては脅威だろうよ」
 レブナントのような小さな組織は一つ隙を見せれば、一気に潰される危険が大きくなる。
組織がグレッグの案に乗ったのも、そのような事情を抱えていたからだった。
「そこでだ。お前なら警察の犬がどこのどいつなのか、捜査はどこまで進んでるのか分かるんじゃねぇかと思ってな」
 ようやく口に出された要求に、リアはやれやれと椅子の背に身体を預ける。その重荷に椅子が若干軋み、悲鳴を上げた。
「警察の極秘情報を手に入れ、漏洩させろってか。随分と無茶言ってくれるもんだ」
「そこは天下の何でも屋として、警察とも繋がっているお前の腕を見込んでお願いしてるんだぜ」
 あくまでも主導権はこちらにあると言いたさげに、クククッと耳障りな哂い声をグレッグの喉が発する。
「それにお前が頑張らないと、可愛いシンディの身がどうなっても知らねえぞ」
 使い古された陳腐な脅し文句。ここぞとばかりに人質の存在を出す相手に、リアから呆れたようなため息が漏れた。どの道、返す答えは一つしかない。
「ま、ご期待に添えるかは分からねぇが、出来るだけやってやるよ」
「さすがだな。零時までに今からいう場所に来い。そこで娘と情報を交換だ」
 グレッグの告げた場所は港にある倉庫だった。おそらくはレブナントが所有している建物なのだろう。
「ああ、分かった……ところでシンディはどうしてる?」
 何気なく問いかけた言葉だが、そこからはじわりと銃口を眉間に突きつけたような重圧がにじみ出ていたる
「お前が知ってるかどうかは分からねぇが、人質は無事だからこそ価値があるんだぜ。無傷であればあるほどな」
 一見、ゆっくりとした穏やかな口調。しかし、そこには相手を底冷えさせるような迫力も内包していた。脅されている側の脅し。それを敏感に感じ取ったのか、グレッグの微かに息を呑むような音が聞こえた。
「心配するな。ちと怯えちゃいるが丁重に扱ってるよ。少なくともお前が変な真似しない限り、身の安全は保証する」
「一応、信じとくぜ。その言葉」
 嘘は言ってないだろうと、リアは判断した。シンディという存在はグレッグを含めたレブナントの連中にとって、身を守るための防波堤でもある。情報を手に入れ、自分に危険がないと分かるまではシンディに手出しはしないはずだ。特に短期間とはいえ、リアと付き合いがあるグレッグは彼の恐ろしさをある程度分かっているからこそ、より慎重に行動するに違いない。
 しかし、その中途半端なリアへの警戒が、逆に己の首を締める結果に繋がるのだが。
 電話を切ると、リアはおもむろに椅子から立ち上がり、部屋から出た。


 シンディの身柄をレブナントに抑えられている以上、状況はあちらに有利なのは揺るがない。しかし、運はリアに味方していた。その訳は足を運んだ先のドアの向こうにある。
 ドアノブに手を掛け、扉を開く。中は小さい応接間のような部屋だった。窓にはブラインドが下ろされていて、やはりここも薄暗い。中央には簡素なテーブル、その両端には黒いカウチが鎮座していた。
 壁側のカウチには、それと同じ色の髪とロングコートの年若い端正な顔をした青年が腰を降ろしており、今しがた入ってきた人物に一瞬だけ鋭い視線を向ける。物静かな佇まいだったが、常人とは明らかに違う。見る者に畏怖を抱かせながらも目を離すことが出来ない、そんな不思議な雰囲気を青年は持っていた。
「悪い、待たせたな。ちょっと話が長くなっちまって」
 リアが話しかけたものの、青年はまったく反応しない。それどころか目を合わそうともしなかった。分かりやすく示された自分への拒絶の態度に、リアはやれやれと両肩を上げる仕草をとる。
この無愛想な男の存在こそが、リアが自身を幸運だと評した理由だった。名はシエル・ボーネット、職業は殺し屋。劣勢に立たされている局勢を一気にひっくり返せるだけの力を持つ、最強の切り札である。偶然、そう遠くない場所に滞在していたので呼び寄せていたのだ。
 まったくつれない男を横目に、リアは窓の傍にあった小型の冷蔵庫を開ける。そこから缶を二本取り出すとテーブルの方に向かい、シエルの前に細長い缶コーヒーを置いた。
 リアの方は窓側のカウチの背に寄りかかり、缶ビールのプルタブに指をかける。炭酸の破裂音が静かな部屋に響いた。
「飲まねえの?」
 半分ほどを一気に飲み干したリアとは対照的に、シエルの方の缶は蓋すら開けられていなかった。
「安心しろ。別に毒なんて入れてねぇから」
 依然としてコーヒーに手をつける様子のない相手に、リアがおちょくるように冗談を飛ばす。しかし、相変わらず何のリアクションも返ってこない。微塵も変化のない険のある表情は、リアに対する嫌悪感を存分に表していた。
 手持ちの中では一番と言えるほどの強力なカードには違いないが、些か使いにくい。シエルに対し、そんな印象をリアが抱くのは、己に対するこの態度にあった。
 仕事でもなければ、いや仕事ですら関わり合いになりたくない。言葉よりも雄弁に、シエルの放つ空気がリアに告げていた。ここまで嫌われていると、むしろ清々しい気分だ。
 口元に薄笑いを浮かべる男に、シエルは片眉を顰める。蛇のようにねっとりした相手の視線を感じ、不快な気分を紛らわせようとシエルは缶を手に取った。
 しかし、特にコーヒー豆の風味も香りもない安物のインスタントのそれは、ただの苦い水にしか感じられなかった。
 リアを一切視界にいれようとはせず、無言でコーヒーを飲むシエル。暫く奇妙な静寂が辺りを支配していたが、それを打ち破ったのはやはりリアの方だった。
「そういや、さっきまで娘のことで電話してたんだが……」
 ほとんど飲み終わった缶ビールの上部を掴んでぶらぶらと振りながら、どちらかと言えば独り言のように呟く。
 普段なら聞いていようがいないが、たわいのない話と相手が見なせば徹底的に無視される。だが、今回シエルから返ってきたのはいつもの沈黙ではなく、少しばかり咳こみ、乱暴に缶をテーブルに置くような音だった。
「娘……?」
 まるでまったく意味の分からない異国の言語を聞いたかのように、シエルがその単語をゆっくりと反芻する。
 きょとんとしたまま固まった顔は、いつもに比べて随分と幼く見えた。
「娘がいたのか……?」
 にわかには信じがたい、そんな思いがシエルの口調からありありと感じられた。まあ、無理もない。数年の付き合いで今の今までその存在が匂わされたことは一切なかったのだから。
「年齢的に考えりゃ、別に娘の一人や二人いたっておかしくはねぇだろ」
「それはそうなんだが……」
 言いたいのはそういうことではないと、その表情が訴えていた。珍しくリアを凝視するその瞳は大きな困惑で揺れている。シエルにもたらされた事実は、彼を誰もが恐れる殺し屋からその辺にいる好青年に見せるぐらいには衝撃的だったようだ。
 ここまで動揺しているシエルはなかなか見られるものじゃないと、物珍しそうにリアが彼を見やる。
 そういえばディアスも初めてシンディの存在を知った時、同じような反応をしていたことを思い出す。実年齢と娘は、どうも相手にとって相当な爆弾となる話題のようだった。
「名前はシンディって言って、歳はもうすぐ十歳になる。ま、でも向こうはおれを父親とは知らねぇし、孤児院で暮らしてるんだがな」
 娘について淡々と説明するリアだったが、突如目を怪しく細めた。
「で、さっきシンディを連れ去った、どこかの悪党から脅迫の電話が掛かってきたってわけだ」
「なっ……」
 先ほどの会話の流れで、リアがさらりと言う。あまりにもあっさり過ぎて、風邪を引いてしまって心配だぐらいのニュアンスすら、その発言には含まれていなかった。
 だが、シエルの目は先ほどとは違う驚愕で大きく見開かれた。
「何だって!!」
 勢いよく立ち上がり、リアの元へと向かう。その際、テーブルに接触し、飲みかけの缶が倒れた。溢れたコーヒーがテーブルを伝って床に滴り落ち、絨毯を汚す。
「あーあ、シミになっちまうぞそれ。その絨毯けっこう高かったのに」
 わざと煽るような物言いをする男にシエルの頭にかっと血が昇り、リアの襟元に掴みかかった。
「そんな事はどうでもいい! 一体どういうことなんだ!!」
「だから、さっき言った通りだろ。誘拐されたって」
 激高するシエルをリアは飄々と受け流す。言っている内容の深刻さと口調や態度の軽さの不一致さはむしろ不気味ですらあった。
 娘の危機を自分への挑発に使う男に、胸がムカムカとした不快さと憤りを感じ、黒スーツを掴む手に篭められた力がさらに増す。
「何でお前は……どうしてそう平然としていられるんだっ」
「慌てた所で状況が変わるか? 攫われたもんは最早しょうがねぇだろう。幸い、まだシンディは生きてる。無事に取り戻すためにも、平常心を失わないことが何よりも大事なんじゃねぇのか?」
 リアの言うことは間違いなく正論だ。だが、その冷静過ぎる振る舞いが、実の父親よりも赤の他人である自分の方が少女の安否を心配し不安になっているという状況が、どうしてもシエルには受け入れられなかった。
 やはり、この男の事を一生理解できない、いやしたくもないと改めて痛感する。人間の皮を被った何か。シエルにはそんな風に見え、得体の知れない気持ち悪さを目の前の男に感じていた。
「だから、お前を呼んだんだぜシエル。シンディのためにもちろん協力してくれるよな?」
 小憎たらしい笑みを浮かべ、リアが言う。答えなど分かりきっているだろうに。シエルに幼い少女を見捨てることなど出来ない。ぐっと歯を噛み締めるよりほかなかった。