Heimat6-2

 アーロンたちがゴルゾア・ファミリーのボスの所へ向かっていた同時刻。街の中央広場では剣と盾の人間が集合していた。多くは隣街にある支部所属の隊員だが、事が事だけに本部の人間もいくらか応援に駆けつけている。その総勢は約300名。
 整然と列をなす彼らは皆真剣な表情だ。張り詰めた緊張感が漂う空気の中、一人が列の前に歩み出た。辺りをざっと見回した後、神妙な顔つきで一つ咳払いをする。神聖な儀式を行う前のような、奇妙な静寂が場を支配した。
「まもなく、ゴルゾア・ファミリーの掃討作戦が開始される。分かっていると思うが、けして簡単な任務ではない。皆、心してかかるように!」
 一言一句はっきりと力強く、仲間に高らかと告げる。その宣言に、剣と盾の者たちは一斉に揃った動きで敬礼した。
 奮い立つ男たち。だが、その中に一人、身体をガチガチに強ばらせている隊員がいた。顔色もどことなく悪い。明らかにこれから起こるであろう大事を前に、及び腰になっているようだった。
 彼の名はアティリオといい、三ヶ月前に剣と盾の一員になったばかりの新人だ。訓練を積み重ね、今回の作戦が彼の初めての任務となる。
 よほど、肝が座った者でもない限り、誰だって初任務ともなれば、多少なりともプレッシャーがのしかかるものだ。
 まして、強盗が銃を持って立てこもっている現場に突入ぐらいならまだしも、国内屈指の力を待つマフィアが相手である。しかも、敵の数はざっと自分たちの二倍以上。
 彼が若干ナーバスな気分に陥るのも、無理からぬことだった。
 果たして、自分が役に立てるだろうか。いや、それ以前に生きて帰って来られるのか。
 最初から弱気になっては負けだ。分かっていても、どうしても良くないビジョンが脳裏に浮かんでしまい、それを打ち消そうと頭を振るう。
 そんな事を繰り返す内、アティリオは精神的重圧で頭が真っ白になってしまっていた。すると、一人あたふたしている彼の背中を誰かがポンっと叩いた。
「よう、新人。そんな固くなるなって」
「そうそう、リラックスしろよ。今からそんな気張ってたら、本番まで持たねぇぞ」
 ゴルゾア・ファミリーとの正面衝突を控え、不安と怯えを見せる新人に対し、周りにいた先輩にあたる隊員たちが叱咤激励する。
「それは分かってます。だけど、やっぱり怖くて……。情けないですけど」
 だが、ネガティブな気分が晴れないアティリオは弱音を吐く。やはり、怖いものは怖いのだ。
「ああ。お前、初めてだもんな。もっと、簡単な任務ならよかったんだが」
「よりによって弱体化してるとはいえ、リベルタスの四大マフィアの一つが相手だもんなぁ。緊張するのも無理ないか。でも、安心しろ」
 新人にはきついだろう。それを承知している周りの先輩隊員の一人が、アティリオの肩を抱き、彼に向かってにっと笑った。
「俺たちだけじゃ厳しい戦いになったかもしれないが、今回は『荒れくれの獅子』がついてる。間違いなく勝てるさ」
 その口から出た人物に、アティリオの纏う雰囲気が少しだけ緩んだ。
「荒くれの獅子……西尾鉄嗣さんですねっ」
 剣と盾に所属して三ヶ月しか経っていない支部の一端の隊員でも、その名は知っていた。『荒れくれの獅子』と称される、剣と盾の最高戦力。それが西尾鉄嗣だ。
 度々、耳にするその男の武勇伝は、彼が誰もが知る程有名になるのに十分値するものだった。
「そう。本来は本部の人だから、支部に来ることはないんだが。流石にゴルゾア相手となるとな。ちょうどリベルタスに帰って来てたから、この作戦の指揮を取ることになったんだ」
「滅茶苦茶強いぜ、あの人。なんせ、ゴルゾアより規模は劣るとはいえ、マフィア一つをたった一人で壊滅に追い込んだこともあるからな」
「帝国との衝突が起こった時にも、先陣切って戦って勝利に導いたこともある。俺たち千人より、鉄嗣さん一人のが強いぐらいだ」
 次々と聞かさせる西尾鉄嗣の持つ強大な力。アティリオは思わず感嘆の声を漏らしていた。
 実際にその姿は見たことないというのに。『荒れくれの獅子』がいるというだけで、この掃討作戦が成功する。そう確信させるだけの存在だということをまざまざと感じた。西尾鉄嗣が共に戦うという事実が、彼にある種の安堵感をもたらす。
「やっぱり、凄い人なんですね。そんな人がいるのなら、きっと大丈夫って気がしてきました! おれも頑張りますっ」
 先輩たちの気遣いによってアティリオは勇気づけられ、ようやく先ほどまでずっしりと肩に伸し掛っていた憂鬱な重しが取れたような気がした。不思議と闘志が沸いてくる。
「おう、その粋だぜ新人。今まで訓練してきたことを実戦で見せてやれ!」
「はいっ!」
 発破をかけられ、アティリオは威勢良く返事した。さっきまでの臆病風に吹かれた彼はどこへやら。どうもわりと単純な性格をしているようだ。
 俄然やる気を出した彼は、ゴルゾア・ファミリーとの抗争を前に行われた事前集会が終わり、各自散らばっていく先輩たちについていった。


「そういえば、先輩」
 いくつかの班に分かれ、それぞれに掃討作戦の説明が行われている最中、アティリオが隊員に話しかけた。
「鉄嗣さんってまだいらっしゃらないんですか? 姿が見えませんけど」
 辺りを見回すが、それらしき人物はいない。作戦指揮を取るのは鉄嗣であるから、本来なら先ほどの宣誓も彼がやるものである。しかし、実際に皆の前に出てきてそれをやったのは、この場にいる中で最も地位の高い支部長だった。とはいえ、ゴルゾアの本拠地に乗り込むのを直前に控え、流石にそろそろ姿を現すだろう。
 そう考え、一目『荒くれの獅子』の顔を見てみたいと尋ねてみたのだが……。
「んー……。どうだろうなぁ」
 やけに歯切れの悪い答えを先輩の一人が返す。ちらっと他を見やるが、彼らの反応は皆「見てない」と答えていた。
 揃いも揃って、どの隊員も微妙な表情を浮かべている。彼らはなぜか若干の呆れと慣れっこになっている雰囲気を発していた。
 不可解な先輩たちの態度に、アティリオは首を捻る。

「あ、支部長」
 そこへ各班の様子を見に来た、支部長が近くを通りかかった。すぐさま隊員の一人が呼び止める。
「何だ?」
「鉄嗣さんはもう来ましたかね?」
 途端に支部長は眉間に皺を刻み、渋い表情を作った。
「いや、まだだ。……おそらく、というか間違いなく酒場で大量の酒を煽っているのだろうな」
 困ったものだと言わんばかりに、彼から深い溜息が漏れた。隊員たちはやっぱりと一斉に苦笑いを浮かべる。だが、その中で一人だけ違う反応をした者がいた。
「酒場!? え、だって掃討作戦直前ですよねっ!?」
 信じられない言葉にアティリオは目を丸くし、思わず大声で聞き返す。任務中に一人飲みになんて、他の隊員なら厳罰ものだ。それを今回の作戦指揮を取る男がやっているのだから、彼が驚くのも無理はなかった。
「あー、お前新人だもんな。なら、知らねえか。鉄嗣さん、滅茶苦茶酒豪で任務中だろうが何だろうが、酒は絶対飲む人だから」
 困惑している後輩に、隣にいた隊員がそっと耳打ちする。
「聞いたことねぇか? あの人、剣と盾最高戦力であると同時に一番の問題児でもあるって」
「え!? ……あ、そういえば」
 思いがけない事実に一瞬びっくりしたが、すぐに頭の片隅にある記憶が呼び起こされた。
 そのような話は以前耳にしたようなことがあった。剣と盾随一の実力者ではあるが、その破天荒さ故に上層部ですら手を焼くこともある。『荒れくれの獅子』という二つ名もどっちかと言えば彼への賛辞というよりかは、あらゆる意味で暴れまくり、敵も味方も手に負えないという事から付けられたのだと。
「んで、超がつくほどの女好きでモテるから、多分酒場で周りに女侍らしてるんじゃねぇかなぁ」
「えぇぇ……」
 さらに付け加えられた要らない情報に、どうリアクション返せばよいのやら困ってしまう。別方面の武勇伝を聞かされ、『荒くれの獅子』の存在に感じていた安心と信頼が揺らぎ始める。
「でも仕事は間違いなくこなす人だから、心配すんな」
 アティリオの顔に不安の色が浮かんでいる事に気づいた隊員が、すかさずフォローを入れた。
(本当に大丈夫かなぁ)
 だが、先行きに対する懸念は晴れない。しかし、逆に鉄嗣という男に余計興味を惹かれたのも確かだった。素行も実力も常識外れな男、一体どんな人物なのかと。

「しかし、そろそろ合流して貰わなければな。おい、お前たち」
 アティリオたちが鉄嗣について会話していると、支部長が呼びかけた。。
「悪いがそこら辺の酒場を回って、彼を連れてきてくれないか」
 その指示に隊員たちはすぐさま了解の返事をした。西尾鉄嗣捜索の任を受け、素早く動き出す。まさか、自分が『荒くれの獅子』探しにいくとは、タイミングいいのか何なのか。アティリオも彼らと行動を共にする。
 だが、すぐに鉄嗣の顔を知らないことに気づいた。
「あの先輩、鉄嗣さんってどういう感じの人なんですか」
 特徴だけでも聞いておかないと見つけようがないと、前を行く先輩隊員に尋ねる。
「あ〜、一目見りゃ分かると思うよ」
 しかし、彼からは曖昧な答えしか返ってこなかった。
「いろいろと目立つ人だからさ」
「はぁ…」
 そう言われてもと、アティリオは曖昧に相槌を打つ。けれど、そんなに経たない内にその言葉に意味をすぐに知ることとなった。




 アティリオと隊員たちが『荒くれの獅子』を探している中、アーロンとユーキがいたのとは別の酒場では、とある一つのテーブルが注目を浴びていた。
 一際目を引くのはテーブルの上に乱雑に置かれた酒の空き瓶の数。空きスペースがない程テーブルを埋め尽くし、挙句には床にも転がっている。一体どれほどの量を飲んでいるというのか。
 幾人かがどんちゃん騒ぎでもした結果だというならまだ分かるが、驚くべきことにこれらほぼ全てを一人の人間が飲み干してしまっていた。
 既に異常な量のアルコールを摂取しているにも関わらず、まだ足りないらしい。懲りずに横柄な態度で酒を注文する。店にある分を全て飲んでしまおうかという勢いといっても過言ではない。
 並みの酒豪でさえ尻尾を巻いて逃げてしまうような、尋常じゃないハイペースで酒を煽る姿に、いやがおうでも周りから視線が集まる。しかし、周囲の人間などまったく気にも留めない。椅子を傾け、コップに注ぐのすら面倒なのか、直接瓶に口をつけてグビグビと喉仏を動かす。
 真ん中分けの薄い水色の髪、鋭い赤褐色の瞳。カラフルで独特な柄のジャケットもかなり派手だが、目鼻立ちの整った異性受けがいいであろう、形容するなら色男という言葉が相応しい容姿も人の目を引く。
 そんな際立った存在の男に、熱の篭った視線を送る女性たちがいた。
「お兄さん、本当にお酒強いのねぇ。こんな豪快に飲む人、初めてよ」
 隣に座っていた緩くウェーブのかかった金髪で、ぽってりとした唇の下、色気を感じさせる泣き黒子が特徴的な妙齢の女性。短いスカートから惜しげもなく出され、組んだ脚の見事な曲線美は大抵の異性の目を釘付けにすることだろう。
 そんな彼女は両手でコップを持ち、酒だけのせいではない紅潮した頬を緩めて、一気飲みしている男を見つめていた。
「本当惚れ惚れするわぁ〜。あたし、あんたみたいな人大好き!」
 また別の女が男に声をかける。テーブルの淵に腰掛け、こちらもなかなか豪快に酒を流し込む。その威勢の良さが先ほどの泣き黒子の女性とは違って、かなり活発な印象だ。袖部分がやたら長い、裾まである一枚の布を身に纏い、腰の部分には橙色の帯を巻いている。かなり変わった衣装を着た女性だった。はだけた胸元からチラリ見える、豊満なバストが男性を惹きつける。
 タイプの違う美女二人を隣に侍らしているという、何とも羨ましい図の男はニッと不敵な笑みを浮かべた。
「そげん言われると嬉しかぁ。ほれ、姉ちゃん達もどんどん飲みんしゃい! おれが全部奢っちゃーけん」
 かなり特徴的で独特な口調でそう言うと、店で一番高い酒をウェイターに何本か持ってこさせる。
「キャー、お兄さん太っ腹! 愛してる!!」
 変わった衣装の女性の方が目を輝かせながら歓喜の声を上げながら、ちゃっかりとボトルに手を伸ばす。その様子を微笑ましそうに眺めていた、泣き黒子の女性がくすりとした。
「お、よか飲みっ振りったい。おれも負けてられんね! こっちの姉ちゃんも遠慮せんで、ほら」
「あら、ありがとう」
 女性たちの心をしっかり鷲掴みにした男は、ますます上機嫌になった。調子に乗って、泣き黒子の女性のコップに惜しげもなく酒を注いでやる。
 間違いなく店で一番盛り上がっているテーブルだが、実は彼らは全員初対面である。男が偶々酒場に来ていた彼女たちに目を付け、声をかけ誘ったのだ。それで見事女性二人を己に惹きつけることに成功し、酒を交えながら愉しんでいる最中というわけだった。
 どうやらこの男、相当女の扱いにこなれているらしい。酒が大分入ってガードが緩んだ二人をそのまま持ち帰りそうな、それぐらいの事をやらかしそうな手腕と雰囲気を彼は持っていた。
「ねえ、お兄さん。ずっと、気になってたんだけど……」
「ん? どげんしたと?」
 酔いが大分回ったのか、少しばかり呂律が回らなくなってきた泣き黒子の女性が男に言う。
「随分と変わった剣を持ってるのね」
 とろんとした瞳が写していたのは男のすぐ傍、テーブルに立てかけられたかなり長さのある刀剣だった。黒い鞘に収められ、若干湾曲した形の珍しい代物だ。
「あっ、それあたしも気になってた! 島国の刀でしょ? 本物見るの、初めて」
 男が何か言う前に、変わった衣装の女性の方が口を挟む。その台詞に男の口元がニッと釣り上がった。
「姉ちゃん、詳しかね。ひょっとしてと思っとったけど、島国のマニアやな? 浴衣着とうし」
「そうなのよ。あたし、島国のモノ大好きでさー。これもちょっと高かったけど、奮発して買っちゃったっ」
 男に見せつけるように長い袖をひらひらとさせる。よほど気に入っているのだろう、その語り口は実に自慢げだ。
 島国とはかつてこの世界に存在した、四方を海で囲まれた大きな国のことだ。そこに住んでいた人たちは独特の風習や文化を持っており、女性が着ている浴衣と呼ばれる代物は彼らの民族衣装である。島国の物はその唯一無二性から今でもかなり人気があり、彼女のような結構なマニアも存在していた。
「ばり、似合っとうよ。元々の色気が浴衣によってさらに倍増しとる」
 すかさず、そこで口説き文句を入れてくるあたり、男もかなり抜け目ない。あっさりと相手は乗せられ、顔をさらにとろけさせた。
「あ〜ら、お上手。お兄さんもその刀と同じぐらい格好良いわよ」
「そら、そうばい。おれもこいつも男前やけん!」
 刀を見やり、豪快に男は笑い飛ばす。一切謙遜する素振りすらない、自信たっぷりな態度はむしろ清々しいくらいだった。
「ばってん、よう手に入ったな。探してもなかなか見つからんもんばい、それ」
 男はまた話題を浴衣に戻す。一般に流通することは滅多にない、博物館などに展示されてもいいぐらいの希少品だ。その事を彼は知っていた。
「まあ、その辺の店行ったって売ってないのは確かだけどねぇ。ここはガサールト、世界でも有数の貿易の街よ。いろんな所からいろんな物が集まってくるのさ! 買い物には困らないよ」
 浴衣の女性がどことなく熱い語り口で、そう説明する。
「海が近くて景色も綺麗だし、食べ物も美味しいし、首都にもすぐ遊びに行ける。生まれてからずっと住んでるけど、まじでいい街だと思うわぁ」
 聞いてもないのに、突如として始まったガサールトのトーク。どうも、彼女は島国マニアであると共に、この街にとても愛着を持っているらしかった。
「そうね、私もこの街生まれだけど、本当に素敵な街だと思ってる」
 話を聞いていた泣き黒子の女性も同意する。しかし、何故かふっとその顔に影が落ちた。
「……あいつらさえ、居なければ」
 ぽつりと苦々しく吐かれた言葉。即座に浴衣の女性も反応し、さっきまでの無邪気さが消える。
「ゴルゾアの連中か」
 楽しかった宴会に水を差した者の正体に男が触れる。直後、彼女たちの揃って見せた表情が、その者たちに対する静かな憤りを如実に現していた。
「そう。あいつら、二十年前ぐらいに突然やって来てこの街を乗っ取っちまった。おかげで外を安心して歩けない生活がずっと続いてる。警察はまるで役に立ちやしないしさ」
 不快感を隠そうともせず、浴衣の女性はぐいっと酒を煽った。相当、ゴルゾアに対し、腹が立っているようだ。
 無理もないと男は思う。住み慣れた街を有無を言わさず支配され、生活はおろか命すら脅かされている毎日。住人が憎むのも当然だろう。悪党どもに一番泣かされるのは、いつだって何の力を持たない一般市民なのだ。
 けれど、半ば諦めかけていた彼らに、今日希望の光が差した。
 それを知っていた泣き黒子の女性が微笑む。
「でも、もしかしたらあいつらこの街から追い出されるかもしれないわよ。やっと剣と盾が動いてくれたもの」
「剣と盾! あたしも見たっ。あれだけの人数なんだから、きっとゴルゾアの奴らをぶっ潰しに来たのね。間違いないわ」
「ええ、これで街も平和になるといいのだけれども」
 浴衣の女性もぱっと顔を輝かせ、話に乗る。どちらも剣と盾に対する大きな期待が口調に現れていた。
 今現在、ゴルゾアによる悪しき影響は、ガサールトの行政・経済・産業至るところにはびこりってしまっている。そのため、街の警察では何の手を出せない状態だ。
 だから、住人としてはもっと大きな権力を持つ治安組織「剣と盾」に頼るしか道はなかった。しかし、世界有数のマフィアに挙げられるゴルゾアが相手となると、何やら水面下で複雑な事情があるらしく、今までは中々その排除に腰を上げてはくれなかった。
 それが、今回初めて大きな動きを見せたのだ。これで街をマフィアの手から取り戻せればと、彼女たちを始めとした住人たちが望みを抱くのも無理はなかった。
「剣と盾があいつらを壊滅させることに成功して、流れ弾にも気にせず外を歩けるようになったなら。お兄さん、またこの街に遊びに来てね。案内してあげるわ」
「あ、それいいわぁ。そん時は是非あたしもお供させてね」
 泣き黒子の女性の誘いに、浴衣の女性も便乗する。それにこの男が乗らない訳が無い。
「おお、絶対また来ちゃーけん。二人でおれのエスコート頼むばい。もちろん、夜もな」
 ちゃっかりと約束を取り付ける。最後の言葉をしっかりと付け加えて。色男ならではの技だろう。相手が満更でないことを知っているからやれることだ。
 途端に場が明るい笑い声に包まれる。和やかで愉しい雰囲気。しかし、突如それを邪魔する人物が現れた。

 乱暴に開けられたドアの悲鳴がなる。鼻息荒く、元々強面の顔をさらに凶悪にしたその黒スーツの男は、一直線に三人のいるテーブルへと向かう。
「テメェ、人の女に何してんだ!!」
 騒がしい店内にも負けないほどの耳障りながなり声を上げ、泣き黒子の女性の肩に手を乗せると、自分の方へと引き寄せた。黒スーツは並々ならぬ敵愾心と赤く錆び付いた嫉妬の色が入り混じった目で、男をきつく睨みつける。
 突き刺さるような殺意。今にも襲いかかってきそうな相手の剣幕にも動じず、むしろ白けた顔で男は泣き黒子の女性に尋ねた。
「姉ちゃんの男?」
「違うわ。しつこく言い寄られて困ってるの」
 心底鬱陶しそうに答え、男の手を払う。それだけでありありと迷惑がっているのが手に取るように分かった。
「ああ、そう言うこつ……」
 大体の事情を察した男が呆れたように、酒を飲み干す。そして、男を挑発するかのように、鼻で笑った。
「モテん男の僻みはみっともなかねぇ。姉ちゃんらはおれと楽しんどったったい。よそもんは早よ帰らんか。目障りやぞ」
 明らかに馬鹿にした相手の言動に、黒スーツの顔が分かりやすく茹で蛸のように真っ赤に染まった。
「テメェ……。おれが何もんか分かってて、その台詞吐いてんだろうなぁ」
 地を這うような凄みを持っただみ声で威圧する。普段から、何かと睨みをきかせているであろうガサールトの住人なら震え上がるだろうが、男は特に動じない。面倒くさそうな溜息を付いただけだった。
「ああ、よう知っとー。嫌になるくらいにな。こんゴルゾアのクズが」
 街に汚す廃棄ゴミを見るよりも、さらに冷淡で軽蔑に満ちた眼差しが黒スーツにぶつけられる。徐々に空気が刃のように研がれ、鋭くなる。
「なーるほど、痛い目に合いたいんだな。なら、お望み通りにしてやろうか?」
 ロウソクの炎のように、黒スーツの体から怒りがゆらゆらと立ち上る。眉間には今にも切れそうな血管がくっきりと浮かんでいた。
 だが、威嚇するように拳とボキボキと鳴らすがその行動が、まさに格下のチンピラっぽく男には見えた。
「ちょっ……ちょっと、あんたやめなよ。やばいって」
 嫌でも肌に感じる不穏な雰囲気。彼女もゴルゾアに長年苦しめられてきた一人だ。その恐ろしさは身に染みているのだろう。さっきまでのハツラツとした感じが消え失せ、浴衣の女性の声には隠しきれない震えが混じっていた。傍にいた泣く黒子の女性の顔にも明らかな怯えの色が見て取れる。
 だが、彼女たちの心配をよそに、当の男は相変わらずふてぶてしい態度で頬杖を付いて、酒を口に含む。
 彼からはまったく黒スーツに対する関心の欠片も感じられなかった。
「心配せんでもよか。腕のあるやつは今頃ボスの元に集結して、剣と盾に備えとーはずやけん。今、こげな所におるということは、こいつはただの下っ端のザコ……」
 仮にもマフィア相手に要らない挑発台詞を黒スーツに焚きつける。傍から見れば、わざわざ火災現場に油を被って突入するかのような、まさしく自殺行為でしかない。
 男以外の皆の予想通り、黒スーツの中で何かが切れた。
「舐めやがってっ。ぶっ殺してやる!!」
 男の胸ぐらを掴み、強制的に立たせる。途端に女性二人から甲高い悲鳴が上がった。
 その時、衝撃でテーブルに立てかけてあった刀が黒スーツの方へ倒れた。煩わしそうに舌打ちし、黒スーツが足元の刀を蹴っ飛ばす。刀が音を立て、床を滑る。
「……っ!」
 襲いかかられても余裕綽々な態度を崩さなかった男の表情が一変する。ぎりっと歯を強く噛み締め、瞬時に男の顔を手で掴む。その次の行動に黒スーツや女性達はおろか、周りの野次馬も驚愕した。
「がっ……アッ!」
 黒スーツの身体が宙に浮く。男が右腕の力だけでその巨体を持ち上げたのだ。細身の体躯からは想像つかない程の怪力。異様な光景に、さっきまで親しくしていた女性二人も思わず一歩後ろへ下がっていた。
「鷹正になんばすっとかっ! くらすぞ、キサン!!!」
 耳をつんざく程の怒号が空気を揺らす。眼光鋭い赤目には黒スーツの何倍もの怒気が込められていた。
 黒スーツの顔面を掴んでいる手に徐々に力が込められていく。万力で締められているかのごとく、頭蓋骨がみしみしと軋んだ音を立てた。
「ぐっ……アギッ!」
 頭を砕かれそうなあまりの痛みに呻く声が黒スーツから漏れる。足をばたつかせながら、男の腕を外そうとむちゃくちゃに引っ掻くがびくともしない。
 いつの間にやら、あれだけ騒がしかった店内は水を打ったように静まり返っていた。男の迫力に皆が飲み込まれてしまったように。聞こえるのは黒スーツの苦悶の呻きだけ。
 奇妙な緊迫した空気が場を支配する中、再び開いたドアにより事態は更なる展開を見せた。

「鉄嗣さん!」
 ぞろぞろと同じ制服を着た者たちが酒場へと入ってくる。その正体はすぐ全員が気づいた。色々と話題になっている剣と盾の人間だ。
 彼らは他の客を押しのけ、一斉に男の元へと集まった。
「やっぱり飲んでた……。何やってんですか、もう。突入時間まであとちょっとしかありませんよ!」
 隊員の一人が鉄嗣と呼んだ男に嗜めるように言う。彼の眼中に黒スーツはまったく入っていないようだった。
「ああ、もうそげな時間か」
 途端に鉄嗣の表情が和らぎ、黒スーツの顔から手を話した。どすんという音と共に小さな悲鳴が上がったが、それを気に留めるものなど誰もいない。
「かなり探したんですよ。まったく無駄な体力使わせないで下さいよ」
「つか、今更とはいえ突入前に何でそんな大量に酒飲んでるんですか。しかも、こんな騒ぎまで起こして」
 次々と隊員たちから鉄嗣に苦言が飛ぶ。とはいえ、誰も彼もが諦め半分の苦笑交じりなのだが。これで反省する男なら苦労なんてしない。まったく懲りない、堪えない。それが西尾鉄嗣という人間だった。
「これは大事な作戦前の景気づけたい。パァッとやらな、気合入らんやろうが」
 しまいにはヘラヘラと笑いながら、こんなふざけた台詞を口にする有様である。
「パァっとやるのは、作戦が成功してからにして欲しいんですけど……」
 一人が小声で溜息交じりにぼそっと呟く。周りの隊員は無言で頷き、彼の言葉に深く賛同していた。
 一方で完全に無視された形となった黒スーツは、尻餅を付いたまま呆然と鉄嗣を見上げていた。
「鉄嗣……」
 その名には聞き覚えがあった。
「テメェ、あの荒くれの獅子……」
 剣と盾の最高戦力。そして、ゴルゾア内でも最も恐れられている人間の一人。話は聞いていたが、所詮組織の末端でしかない彼はその顔までは知らなかった。まして、鉄嗣は他の剣と盾とは違い、制服を着ていない。気づかないのも無理はないだろう。
 その身を持って鉄嗣の力を思い知った黒スーツに、最早先程までの威勢の良さは欠片もなかった。
「まっ、そう言うことくさ」
 ようやく、黒スーツの存在を思い出した鉄嗣が蹴飛ばされた刀を手に取る。鞘のついた埃を手で払い、そのまま黒スーツの後頭部目掛けて、刀の柄を勢いよく振り下ろした。
「おれば怒らせたんが、キサンの運の尽きたい」
 鈍い打撃音が店内に響く。今度は床に寝そべることになった、哀れな黒スーツの意識は完全にブラックアウトしていた。
「さて、そろそろ行かんといけんね。あ、ついでにそれ運んどって」
 刀を腰に差し、ちらっとだけ横目で黒スーツを見る。だが、すぐに興味を失くし、入口へと歩み始めた。隊員の数名が鉄嗣の指示に従い、未だ意識のない黒スーツを肩で担ぎ、引きずるように連れていく。
「あんた……、剣と盾の人だったんだね」
 浴衣の女性が驚きと畏敬の念が入り混じった顔で、まじまじと鉄嗣を見る。すると、即座に鉄嗣は振り返り、女性二人の方へキザったらしいウインクを見せた。
「おう、姉ちゃんら期待しとってな。おれがゴルゾアの奴らぶっ倒してきちゃーけん。その後、この街案内ば頼むな。約束ばい!」
 正体が分かっても、この男は店で一緒に飲んでいたときと何ら変わりない。その立場にそぐわない気さくさに女性たちはつい顔を綻ばせた。
「ちゃんとあいつら倒してきてよ。約束だからね!」
「頑張ってね、お兄さん」
 声援に、鉄嗣は片手を上げて応えた。
「そげん言われたら、応えんわけにはいかんね。よし、待っとってな。さっさと片付けてくるけん!」
 不敵な笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る。そして、鉄嗣は剣と盾の隊員たちを連れ、酒場を後にした。




「酒強いのは知ってますけど、本当にあれだけ飲んで大丈夫なんですか?」
 外に出て他の仲間たちとの合流予定場所へ向かう最中、隊員の一人が鉄嗣に聞く。
「あ? あれは食前酒みたいなもんたい。そんくらいで酔うわけなかろうもん」
「はぁ……そうですか」
 強がりでも何でもないようで顔も一切赤くなっておらず、歩みもしっかりしている。言葉通りまったく平気なようだ。しかし、あれだけの量を食前酒と言い切るとは。普段、どれだけの酒が彼の体に入るのか考えるだけで恐ろしい。
 『荒くれの獅子』の異名に相応しい桁外れの腕を持つ男は、その酒豪っぷりもやはり桁外れなようだ。その事を隊員たちは痛切に実感していた。
「流石にゴルゾアの奴らも居らんね」
 辺りを見渡せば、先程までうじゃうじゃと外を徘徊していた黒スーツが殆どいない。街は一時的に静けさを取り戻していた。
「まぁ、流石にこっちの動きはもう知れ渡ってるでしょうから、今頃はアジトで戦闘準備という所ですかね」
 当然、向こうもただでやられる気はないということだ。ゴルゾアと剣と盾。長年続いたフィアとの抗争の歴史に新たな一ページを記されるようとしている。全面衝突の時までは刻一刻と迫ってきていた。
 しかし、その前に鉄嗣には一つ疑問に思っていることがあった。
「ばってん、あの連中おれが来る前からやたら騒いどったけど何かあったと?」
「ああ、何かゴルゾアが最近標的にしてた奴らがこの街に来たらしくて、それで奴ら大捕物してたらしいですよ」
「ほら、ボスの息子の所に乗り込んで、支部を壊滅させた二人組です」
 説明を受け、鉄嗣は「ああ」と頷く。
「そういや、そげん事ば言うとったな。ふーん、この街におるとかそいつら」
 長い間リベルタスを離れていたので鉄嗣は国内の情勢にはやや疎い。そのため、今回のゴルゾア討伐作戦の指揮を取るに辺り、その辺の事情は耳にしていた。だが、支部とはいえ、国内有数のマフィアの拠点をたった二人で壊滅させるとは。しかも、その二人組は銃弾の嵐をもろともせず、ボスの息子のところまで無傷でたどり着き、ぶっ飛ばしたらしい。にわかには信じ難い話である。
 けれど、多分に話が盛られている面も当然あるにしろ、先程までのゴルゾアの執拗な捜索っぷりを見るに、ある程度は真実のようだった。
「ほら、あいつらですよ。ゴルゾアが探してるの」
 隊員の一人がすぐ傍の壁を指差す。視線をそちらに向けると、目に入ったのは無造作に貼られていた手配書だった。
 鉄嗣は徐に紙を剥がす。街中に同じ手配書が大量に配置されていたのは知っていた。だが、この街に来てすぐあの酒場へと入り、隊員たちが呼びに来るまでずっと飲んでいたので、しっかりと手配書を目に通すのはこれが初めてだった。
 まず、目に付いたのは懸賞金の額。
「何か値段にばり差が付いとうな」
 一方は一億という破格の金額だったが、もう一方はたった百万。当然、この一億の男のほうがリーダー格なのだろう。
 次に数字の上に書かれた二つの似顔絵に視点を移す。空色の髪の青年と黒混じりの茶髪の男がそこに描かれていた。
(あれ? こいつ……)
 鉄嗣は二人の内の一人に注目する。暫く何か考え込むようにして、その男の顔と睨めっこしていたが、暫くして目を手配書から離した。
 今度は自分の後ろをついてきている剣と盾の隊員たちに見やる。気づいたのだ。先程からやたら自分を凝視している人物がその中にいることに。その人物――アティリオは一番後方にいた。

(この人が鉄嗣さんかぁ。う〜ん、やっぱり噂通りの人だったなぁ)
 会えばすぐ分かるとの事だったが、実際本人を目の前にすると本当その通りだと言わざるを得なかった。
 とにかく、色んな意味で目立ち過ぎる。遠目でもすぐ分かる派手なジャケットと目鼻立ちの整った端正な顔立ち、スタイルのいい細身の体格。これだけでも普通の一般人と一線を画した存在だ。外見だけ見れば、むしろ剣と盾の人間には思えないが、数え切れない程の酒の空き瓶が転がっている中、片手で大の男の頭を掴み持ち上げている場面を目の当たりにすれば、誰もがこの男が『荒くれの獅子』だと納得するだろう。あのインパクトある光景はそれだけの説得力を持っていた。
 アティリオは改めて『荒くれの獅子』こと西尾鉄嗣の姿をじっと見つめる。すると、当の本人が隊員たちをかき分け、なんと自分の方へと来てしまった。
 鉄嗣はアティリオの前に立ち、彼を見下ろす。それだけで物凄い威圧感がアティリオを襲った。
「何ばさっきからじろじろ見とっと?」
「えっ、あっ……あのっ」
 まさか気づかれるとは。気分を悪くしてしまっただろうかとアティリオは焦る。
「す、すいません。自分、アティリオ・アイザーランドと申します。三ヶ月前に剣と盾に入ったばかりで。鉄嗣さんにお会いするのは初めてだったのでつい……」
 ただ、そこにいるだけでも鉄嗣の迫力は相当のものだった。すっかりテンパってしまった彼は、しどろもどろになりながらひとまず自己紹介をする。
「ほー、じゃあ新人やな」
「は、はい。鉄嗣さんのお噂はかねがね聞いていました。今回の掃討作戦が初めての任務でお役に立てるか分かりませんが、全力を出し切りたいと思っています」
 剣と盾の最強戦力の男を前に、早口で一気に捲し立てる。気後れしてガチガチに固まっているのが丸分かりだ。他の隊員は鉄嗣に慣れきってしまっているから、初々しい反応に思わず吹き出した。
「あ〜、よかよか。そげな堅苦しか挨拶いらんけん、もっと気楽に構えりー」
「え? あ、はい……」
 人懐っこい笑みを浮かべながら、鉄嗣は手を振る。上司的立場であるにも関わらず、その態度はあまりに気さくでアティリオは思わず拍子抜けしてしまった。
「初にしちゃきつか戦いになるばってん、おれがおる限り仲間は絶対死なせん。やけん、キサンはキサンの出来ることばして、おれの後ろの着いてくるだけでよか。なっ?」
 胸を張ってそう口にした言葉は、とても心強く安心感を与える。それでアティリオは分かった。『荒くれの獅子』の無茶苦茶ぶりを呆れたように語る先輩隊員たちが、それでも鉄嗣への尊敬の念を滲ませていたのを。
 横暴な振る舞いをしていても、部下への思いやりはけっして忘れない。力だけではない、実際に触れてみて感じるその優しさが、何だかんだ言ってもこの男が慕われる理由なのだと。
「はい、分かりました! よろしくお願いしますっ」
 表情を和らげ、アティリオは深々と頭を下げた。相手の緊張が解けたのを見て、鉄嗣はまた列の先頭へ戻ろうとする。
「あっ、鉄嗣さん!」
 その背中に向かって、アティリオが呼び止める。さっきまでならとてもじゃないが気軽に話しかけられる存在ではなかった。鉄嗣とのやり取りのおかげで少し打ち解けられたから出来たことだ。
「今回の作戦、鉄嗣さんお一人なんですよね? オリオン・リゲルさんは参加しない……もがっ!」
 アティリオが出したとある人物の名に、鉄嗣よりも先に周りの隊員が反応する。辺りの空気が一気に凍りつく。鉄嗣もその場でぴたりと動きを止めた。慌てて、隊員の一人がアティリオの口を手で塞ぐ。
「馬鹿っ。その名は鉄嗣さんの前で出すなって」
 ひそひそと相手に聞こえないように、隊員たちが咎める。
「え? だって鉄嗣さんのパートナーですよね、オリオンさん。剣と盾の最高戦力のもう一人。だいだいの作戦に鉄嗣さんと一緒にいるって聞いたから……」
 剣と盾で伝説となっているのは鉄嗣だけなく、もう一人いる。それがオリオン・リゲルという人物だった。様々な面で派手な『荒くれの獅子』比べると話題になることは少ないのだが、それでもその実力は鉄嗣に引けを取らないとのことだった。
 そして、オリオンは鉄嗣とコンビを組んでおり、だいだい行動を共にしている。だが、今回の作戦は鉄嗣の単独指揮である。そこをちょっと不思議に思って尋ねてみただけのことだったのだが。
 どうもこの反応を見るに、それは禁句だったようだ。何故、周りがこんな慌てふためいているのか分からず、アティリオはただ困惑するしかなかった。
 すると、黙っていた鉄嗣がゆらりと後ろを振り向く。そして、再びアティリオの方へと迫っていった。前に見せた笑顔とは180度違う、不機嫌を煮詰めたような形相。その眉間にはしっかりと深い皺が刻まれていた。思わず、アティリオから小さな悲鳴が漏れる
「おい、キサン……」
 腹を底冷えさせるような低い声に、アティリオは竦み上がり、背中が針金のようにぴんと真っ直ぐになった。
「な、何でしょう?」
 じろりと睨まれ、声が裏返ってしまう。怖い、とにかく怖い。鉄嗣から放たれるえもしれない重圧で押しつぶされそうだった。正直、今なら単身ゴルゾアの本部に突っ込んだ方がマシだと思った。
「大事な作戦前にそいつの話ばすんな。士気が下がるやろうが!」
「は、はい! すいませんでしたっ」
 怒鳴り声が感電したかのようにビリビリと身体に伝わる。すっかり怯えた彼にはともかく謝るしかできない。それだけを言うと、鉄嗣はふんっと鼻を鳴らし、大股歩きで隊員たちを押しのけ、前の方へと戻っていった。
 アティリオはただ呆然と立ち尽くし、その姿を見送っていた。
「ほ〜らみろ。やっぱりこうなっただろ。災難だったな」
「あの人、オリオンさんの事に触れられるの大嫌いなんだよ。めっちゃ、不機嫌になっちまうんだ。今後は気をつけろよ」
 台風のような男が去ったあと、その被害にあった哀れな新人に先輩が肩をぽんと叩く。どこの世界でも触れてはならないものがある。組織の暗黙のルールというものを今日、彼は一つその身に刻んだ。
「は、はい。よく分かりました……」
 あの時の鉄嗣は一瞬殺されるかと錯覚するぐらい恐ろしかった。自分の安全のため、同じ過ちは犯すまいと固く心に誓った。