Heimat6-3

 ガサールト内で様々な思惑が蠢く中、海から少し離れた場所にある決戦の地となるゴルゾアの本部では着々と剣と盾の戦いに向けての準備が行われていた。
 ボスの息子がいた支部より何倍も広い敷地には、敵の侵入を察知するための見張り塔や武器を大量に保管している倉庫、数百名いる部下が居住している建物がずらっと並んでいる。当然、警備する者の数も武器の量も段違いだ。一番奥にそびえ立つ巨大な建物が組織を束ねるボスの住居であるが、それはもう自宅というより要塞と表現した方がしっくりくるぐらいの代物であった。
 これだけでもかなり難攻不落に思えるが、周りの地形もかなりゴルゾアにとって有利に働いていた。
 本部の右側には大きな川が隣接しており、後方には険しい崖。つまり、敵が攻め込んでくる場所は自然と限られてしまうのだ。
 まあ、街一つ完全に牛耳れる程の力を持った組織に対抗出来る輩など、片手で数える程しかいない。
 その敵の筆頭候補はむろん剣と盾であり、ゴルゾアも彼らの襲撃に備えていたはずだった。
 ところが、実際に堂々と真正面から攻めてきたのは、彼らにとってあまりに予想外の人物であった。
 猛スピードで突進してくる青髪の青年。そのおまけに彼の小脇に抱えられた茶黒の髪の男。今現在のゴルゾア最大の標的――アーロンとユーキだ。彼らは外を警護している者たちには目もくれず、一直線にボスのいる屋敷を目指す。
 当然、ゴルゾアたちも応戦し、四方発泡から弾丸を雨あられのように二人に降らせる。だが、蜂の巣の如く穴が空いたのは襲撃者の身体ではなく、彼らの周囲にあった倉庫であった。
 この男たちに銃は効かない。流石にそのことはゴルゾアも学んでいる。それならばと、武器庫から引っ張り出してきたのは、大型の大砲だった。
 鼓膜が破れそうな爆音が空気を震わせ、黒い砲弾が目標に襲いかかる。しかし、その軌道は途中で有り得ない方向に曲がり、見張り塔の方へと飛んでいく。そのまま、上空で壁に激突し、土煙が舞った。地上へ破片が雨のように降り注ぐ。
 塔の中央部分の三分の一が無残に破壊された光景に、ゴルゾアの者たちは唖然として立ち尽くす。
 最早、二人組を止める術はない。とうとう、屋敷へと乗り込まれてしまった。



「おーお。随分派手にやってやがるな、あいつら」
 ゴルゾアの本部が混乱している様子を、少し離れた街の一番高い建物の屋上から双眼鏡越しに見物している男が一人。マゼンタの髪を風で揺らし、その中性的な顔は実に愉しげだった。
 男の正体は彼曰く元相棒のユーキの、ユーキ曰くストーカーであるルーファス。面白そうなことなら祭りだろうが、戦争だろうが何だっていい男である。
 そんな性分の人間が剣と盾とゴルゾアの全面対決と聞いて駆けつけない訳がない。高みの見物を決め込もうかと、この場所で待機していたのだ。
 先に顔なじみの二人が乗り込んでいってしまったが、これはこれで一種の興として堪能出来る。
 そして、さらに観客を満足させるゲストが登場した。剣と盾の者たちがぞろぞろと列をなし、ゴルゾアの本部へと向かっていく。
「ん?」
 その中の一人、唯一制服を着ていない男がルーファスの目に留まった。
「あの趣味の悪いジャケット着てんのは……西尾鉄嗣」
 唇が邪悪めいた笑みの形に歪む。
「あいつ、こっちに帰ってきたんか」
 双眼鏡を目から離し、くつくつと喉がなる。辺りにはその容姿と小柄な身体に似合わぬ凶悪な雰囲気が漂う。
 さて、どういうシナリオが用意されているのか。ショーの幕は今開けられた。

 

 屋敷への侵入を果たしたアーロンは階段を駆け上り、最上階を目指していた。彼は極めて簡素で単純な思考しかしない。取り敢えず、ボスを倒せばカタがつく。前にボスの息子を倒した時、彼は最上階にいたので、今回もそうだろうという考えだった。
 一方のユーキは相変わらず抱えられたままだ。もう文句を言う気力もなくしたのか、ぐったりと手足を宙に投げ出している。
 このスタイルの方が早く動けるし、下僕を守りやすいという事に主人が気づいた結果であった。片手は使えなくなってしまうが、アーロンにとってそんな事は些細な問題にすらならなかった。
 階段を登っていくと、その先にはゴルゾアの幹部がナイフを構えて待ち伏せていた。アーロンは相手の襲撃を交わすと、身体を回転させ相手の頭部にハイキックを食らわす。幹部は吹っ飛び、身体を強く壁に打ち付けた。そのまま、ずるりとへたり込み、うめき声を上げて動かなくなってしまう。
 だが、アーロンは男を気にすることなく、だだっ広い赤絨毯が敷かれた廊下を駆け抜け、さらに上に行くための階段へと向かう。
「ここから先へは行かせねえぞ!」
 その途中、今度は三人の幹部が行く手を遮った。横一列に並び、通路を塞ぐ。邪魔だと言わんばかりにアーロンは飛び上がり、彼らの頭上を通過する。空中で一回転し着地すると、すぐさま真ん中にいた幹部の襟元を掴んだ。そのまま、片手で男の身体を持ち上げ、左右に振り回す。引きつった悲鳴が上がる中、見事両隣の幹部にクリーンヒットし、彼らをなぎ倒した。用が済んだので、武器として使った幹部はぽいっとその場に投げ捨て先へと急ぐ。
 次から次へと際限なく幹部は現れるが、アーロンはものともしない。敵を蹴散らしながら、上へとにかく上へ。ボスのところへと突き進む。
 そして、とうとう最上階へとたどり着く。屋敷内の敵はあらかた倒してしまったため、辺りはやけに静かになっていた。
「さあ、ボスをぶっ飛ばすぞユーキ!」
 意気揚々とボスの姿を探すアーロン。
「……何でもいいで、早く終わらせてください」
 まったく何もしてないのに、疲労の色が濃い声でユーキはそう返した。
 一先ず、目に付いたドアを開けてみる。しかし、残念ながらハズレだったようで、部屋には誰も居なかった。
 けれど、しらみつぶしに探せば見つかるに違いない。そう考え、次の場所に行こうとした時だ。
「うう……」
 廊下で倒れていた幹部の一人が顔を上げる。部屋の中にいるアーロンたちを確認した後、黒スーツの中に手を入れ、何かを取り出す。口でピンを抜くと、それを部屋の中へ投げ入れた。
「ん……?」
 足元に転がってきたそれをいち早く発見したのはユーキの方だった。見覚えのある形状。その正体にざっと顔を青ざめさせる。手榴弾だ。
「アーロンさん、下!」
 ユーキが叫ぶが、もう遅かった。閃光と共に走る強烈な衝撃。アーロンの不思議な力により爆発によるダメージは負わないのだが、身体を襲う衝撃までは無効に出来ない。なすすべもなく、二人は吹き飛ばされる。
 壁に激突する直前、咄嗟にアーロンはユーキの身体に覆いかぶる。そのまま壁を突き抜け、勢いよく一番右端にある隣の部屋の床に叩きつけられた。
「痛ってぇ……」
 アーロンが身を呈して守ってくれたお陰で、ユーキは軽い打ち身だけで済んだ。だが、それでも全身がバラバラになりそうなくらいには痛い。よろよろと身体を庇いながら立ち上がる。巨大な爆発音のせいで一時的に聴覚も麻痺していた。
「あー、びっくりした」
 こちらはぴんぴんとしているアーロンは、ところどころ破れた服の汚れを払う。
「くそ、化け物め……」
 アーロンたちが元いた部屋から壁に空いた穴越しに、標的の無事を確認した幹部が悔しそうに舌打ちをする。
 たった二人にここまで追い詰められるとは。何としてもこいつらを生きて帰すわけにはいかない。世界有数のマフィアの幹部としてのプライド。悪党には悪党なりの貫かればならぬ信念がある。幹部は覚悟を決め、再び手榴弾を手に取る。
「うぉおおおおおお!!」
 吠えるような大声に、アーロンとユーキが同時に振り返る。視界に入ったのはこちらに向かって突進してくる黒スーツ。
「!?」
 アーロンに狙いを定めて渾身の力でタックルする。捨て身の人間ほど恐ろしいものはない。幹部はアーロンを道連れにして窓を突き破った。
「アーロンさん!!」
 突然のことに気が動転しつつも、ユーキは即座に窓の方へ駆け寄る。その刹那、再び鳴り響く轟音。爆風が割れた窓を通して襲い掛かり、咄嗟に両手で顔を隠す。ようやく、風が収まり、恐る恐る目を開けた。慌てて窓から顔を出し、下を覗く。恐らく手榴弾で木っ端微塵になった幹部はともかく、一緒に外に放り出されたアーロンの姿がどこにもない。まさかと、ユーキは視線を右の方へと移した。そこにあったのは大きな川。
「え? あいつ、まさか川に落ち……た?」
 ユーキはここである重要な事実を思い出した。アーロンはカナヅチだ。見たところ、川は水深も深そうで流れもかなり早い。間違いなく流されてしまったのだろう。
 別にユーキは彼の心配なぞ微塵もしていない。かつて、海で遊んでいた時に高波で攫われても、海底を歩いてきて平然と戻ってきたという逸話の持ち主だ。溺れ死ぬということはないだろう。
 それより、身を案じなければいけないのは……。
「つーことは……おれ、ここに一人?」
 そう、自分自身である。アーロンにより大分減らされたとはいえ、まだ中にも外にも幹部はいる。その上、掃討作戦が開始される以上、剣と盾がやってくるのも時間の問題だ。
 戦闘能力皆無の小悪党が、そんな危険地帯に一人取り残されているこの状況。自然と背中に冷や汗が流れる。
「……っ!」
 ユーキの耳に複数の人間の声と足音が耳に入り、反射的に身体をびくつかせる。錆び付いた機械のような動きで、ドアをそっと開けた。
 この屋敷は中央部分が吹き抜けになっていて、そこから階下の様子を伺うことが出来る。
下を見下ろしたユーキは、最悪な事態が起こった事を悟った。
 大量の剣と盾の隊員たちが屋敷に押し寄せ、残った幹部たちを倒していく。ついにゴルゾアと剣と盾の全面戦争が始まったのだった。
 はてさて、この絶望的状況下で彼が無事でいられる可能性はいかほどか。考えたくもない。
ユーキはその場にへなへなと座り込む。
「あ、アーロンの大馬鹿野郎……」
 わなわなと震える唇を震わせ、口から出てきたのは己の主人への恨み言だった。

――おれをこんな地獄に置いていくなぁああ!!――

 下僕の声にならない絶叫を聞き入れるものなど誰もいなかった。


 こうして幕が切って落とされたゴルゾア掃討作戦だが、剣と盾の予想よりかなりあっさりと大勢が決しつつあった。
 まあ、無理もない。元々、ゴルゾアは規模大きいが個々の力は剣と盾と比べてかなり劣る。それを数で圧倒することで均衡を保っていた。ところが、アーロンたちにその戦力の大半を削られてしまっては、もうゴルゾアに対抗できる余力など残っているはずがない。
 結局、崩壊のきっかけも致命傷を与えたのも、アーロンたちだった。
 剣と盾は驚く程の短時間で屋敷内外をほぼ制圧する。ところが……
「おい、居たか?」
「いや、こっちにはいない。おかしいなぁ、これだけの人数の中逃げられるはずはないんだが」
 何故か、困惑する隊員たち。中にいた幹部は全て捕らえて拘束したのだが、実は肝心の人物が見当たらないのだ。ゴルゾアのボスが忽然と姿を消してしまっていた。



 剣と盾がボスの行方を探している最中、屋敷に隣接している小さな小屋の扉が開く。中から出てきた人物こそ、ゴルゾアのボスであった。
 周りに剣と盾の人間がいないことを確認し、外へ出る。そして、屋敷を見上げ、歯が割れそうなぐらい強く噛み締めた。
 万が一の時のため用意していた隠し通路が役に立つとは。彼はアーロン達が最上階にたどり着く直前にそこに逃げ込んでいた。通路はこの小屋へと繋がっており、ほとぼりが冷めるまでここに隠れていたのだ。
 それで一人逃げ出せたわけだが。もう組織が崩壊状態であることは余りにも明らかだった。全てを失った。だが、それでもまだ一死報いることは出来る。ボスの右手に握られていたのは何かのスイッチ。彼に残された最後の手だった。屋敷や倉庫には至るところに爆弾が設置されている。ボスがスイッチを押せば、それらが一斉に爆破される手筈となっていた。
 せめて、憎き剣と盾の連中、それとゴルゾアを破滅に導いた得体の知れないあの二人を地獄へと送ってやる。その後、自分は川に設置されているボートで逃げるのだ。
 卑ひた笑みを浮かべ、今まさにスイッチが押されようとした時、邪魔者が現れた。
「あ、お前!」
 若い男の声。ボスが弾かれたように振り返ると、一人の剣と盾の隊員がそこにいた。邪魔をされ、忌々しそうに舌打ちする。
 一方、ボスを発見した隊員――アティリオは非常に戸惑っていた。新人であるがゆえ、屋敷内の突入には関わらずに外でゴルゾアと戦っており、一段落ついたため屋敷の様子を見に来たのだが。そこでボスと出会してしまったのだ。
 まさかの大物との対面にどうしていいのか迷っていたが、すぐに剣と盾の一員としての使命を思い出す。
「もう逃げ場はないぞ! 大人しく降伏しろっ」
 銃を構え、じりじりと詰め寄る。
「動くな!」
 だが、ボスは怒鳴り返し、右手を突き出す。本能的に嫌な予感を嗅ぎ取ったアティリオはピタッと足を止めた。
「それ以上動いたら、この敷地内に設置してある全ての爆弾を爆発させる!」
「なっ!」
 予想だにしなかった事態に、アティリオの銃を持つ手が震えだす。ハッタリなのか、それとも真実か。応援を呼ぶことも一瞬頭をよぎったが、下手な真似をするとスイッチを押されてしまうかもしれない。動けなくなった彼は、ただ動揺するしかなかった。
 その隙にボスはスイッチを見せつけつつ、慎重にボートへと近づく。
 このままでは逃げられてしまう。アティリオは焦るが、どうしようもできない。だが、助けは思わぬ所から現れた。
 突如、三階の窓ガラスが割れる。アティリオとボスが同時に窓を見上げる中、ガラスと共にその男は降ってきた。
 薄い水色の髪にカラフルなジャケット。アティリオの顔がほころぶ。
「鉄嗣さんっ」
 ボスもその男の名は知っていた。彼が最も恐れている者の一人――『荒くれの獅子』だ。
 地面に降りるやいなや、鉄嗣は電光石火の速さで抜刀する。ボスが身動ぎする隙すら与えず、刀が弧を描く。アティリオが「あっ」と声を上げる暇なく、ボスの右腕がスイッチとともに宙を飛んだ。
「あっ、ぐ……!」
 ボスから絶叫が上がる前に、今度は顔面に肘をめり込ませる。なすすべもなく、地面に倒れるボス。
「キサンも組織を束ねる男なら、こすか真似せんで派手に散らんか」
 動かなくなった彼を鉄嗣は嫌悪感と軽蔑で満ちた目で冷たく見下ろし、そう吐き捨てた。
「鉄嗣さん!」
 アティリオが鉄嗣の方へ駆け寄る。
「お手柄たい、アティリオ。危うく逃げられる所やった」
 鉄嗣もにかっと笑いかける。
「いえ、大したことは全くできなかったです。鉄嗣さんがいなかったらと思うと……」
 そう言いながらも、褒められてアティリオはとても嬉しそうだ。少しは役に立てたと、やっと剣と盾の一員になれた気分だった。
「いや、助かったばい。後はこいつば縛り上げて連行するだけやね」
「はいっ」
 この瞬間、剣と盾の完全勝利が決まった。大きな仕事をやり遂げたアティリオの顔は実に晴れやかだ。一歩成長した新人の姿を、鉄嗣も穏やかな顔で見つめる。
 だが、そのいい雰囲気をぶち壊すお邪魔虫が突然現れた。

「やった、出口! ……あれ?」
 ボスが出てきたのと同じ小屋から、茶黒の髪の男が現れる。ゴルゾアの幹部とは違い、その服装は黒スーツではなかった。
 唐突な展開に、鉄嗣とアティリオはぽかんとした顔で男を見る。相手も鉄嗣たちを確認すると、目をぱちくりさせた。
 一人屋敷に取り残されたユーキだったが、どうもこの男悪運だけはそこそこ強いらしい。
ボスが使ったのと同じ隠し通路の入口を偶然発見し、屋敷からの脱出に成功していたのだった。
だが、普段の行いからして、どう見ても神に愛されるような人種ではない。そう簡単に逃がしてくれるはずがなかった。
 外に出たと思ったら、そこに居たのは赤く染まった刀を肩に担いでいる男と血を流して倒れている男、そして剣と盾の隊員だった。
 どうも地獄の出口はまた新たな地獄の入口だったようだ。突き刺さる相手の視線がとても痛い。
「失礼しまーす……ッ!?」
 自分がお呼びでないことを肌で感じ取ったユーキはそっと扉を閉めようとする。だが、矢のようなスピードで飛んできた刀に阻止された。血に濡れた刀はユーキのすぐ傍に音を立てて突き刺さる。
 驚きと恐怖で石のように身体が硬直する。張り付いたようにその場から動かない男に、鉄嗣は訝しげな顔をして近づいた。
 刀を引き抜くと、不審な男をじろりとみやる。至近距離で睨まれ、ユーキはごくりと喉を鳴らした。
「キサン、ゴルゾアが追っとった……」
 鉄嗣にはこの顔に見覚えがあった。手配書に載っていた内の一人だ。
「なして、こげなとこに居ると?」
 当然の疑問が彼の口から出る。
「……いやぁ、本当何ででしょうね」
 そんな事はこっちが聞きたい。どうしてこうなったと。だが、今はその答えを知るよりも、一刻も早く逃げ出す方が重要だ。しかし、眼前にこの男がいる限りは恐らく無理だろう。かといって、屋敷内に戻るわけにもいかない。頼みのアーロンも戻ってくる気配すらない。限りなく八方塞がりな状況だ
(つか、こいつ誰だよ。剣と盾の制服じゃねぇけど……)
 まじまじとやたら派手なジャケットの男を見上げるユーキ。その答えはすぐもたらされることとなった。
「鉄嗣さん、連行の準備整いました」
 物陰からぞろぞろと隊員たちが現れ、鉄嗣に告げる。
「おう、後始末頼むばい!」
 隊員たちにひらひらと手を振る目の前の男に対し、ユーキは顔を引きつらせた。
「鉄嗣……」
 今日、幾度となく耳にした名だ。
(西尾鉄嗣! 『荒くれの獅子』ってこいつかっ)
 剣と盾の最高戦力の男。まさか、この状況で出くわすとは。不運にも程があるだろうと、ユーキは愕然とする。
「さて……」
 鉄嗣は再びユーキの方を向いた。
「キサンはどげんすっか」
 口角をつり上がらせた顔を近づける。まるで肉食獣を前にした獲物のような感覚を覚えたユーキは咄嗟に後ずさろうとしたが、腕を掴まれてしまい、それは適わなかった。
(なっ、何なんだよ。こいつ!)
 気のせいだろうか。自分に対し、やたら意味深な視線が注がれているような気がする。
じりじりと焼け付くような正体不明の不安が襲う。
 妙な空気に耐え切れなくなったユーキは思わず叫んだ。
「いや、おれ何も関係ないんで。帰らせてくだ……ゴバフッ!」
 何の前触れのなく、鳩尾あたりに感じる強い衝撃。意識が遠のき、ユーキの身体がぐらりと前に傾く。地面に倒れそうになる彼を、当て身を食らわせた鉄嗣が腕で抱きとめた。
「おーい、ついでにこれも運んどって〜」
 気絶したユーキを肩に担ぎ、鉄嗣が隊員たちに指示をする。ゴルゾアの幹部とは明らかに違った風貌の男に、怪訝そうな表情をしたものの、彼らは鉄嗣の言葉に従った。



 それから、かなり時間が経った後、街では全身ずぶ濡れの男が屋根から屋根を飛び移り、猛スピードで移動していた。
 川に落ちてしまったアーロンは、結局海まで流される羽目になってしまった。やっと、陸に上がれたはいいが、あの屋敷にはユーキが一人残されたまま。
 血相を抱え、再びゴルゾアの本部を目指す。無事を祈りつつ、とにかく下僕の元へと急いでいた。ところが、途中でアーロンは速度を緩める。あるビルの屋上に見知った人物がいることに気づいたのだ。
 向こうもとっくの昔にアーロンに気づいており、彼に向かってこう告げる。
「ユーキならもうゴルゾアのとこには居ねぇぞ」
「!?」
 もたらされた情報に、アーロンは驚きを隠せなかった。慌てて、男の傍に降り立つ。黒い棍棒を持った人物の顔は、相手をわざとムカつかせるようかのようにニヤついていた
「お前、確かル……」
 相手の名を言おうとして、一瞬詰まる。
「ルーミス!」
「お前、もうわざとやってんだろ」
 デジャブを感じるやり取りに、またも名前を間違えられたルーミス、いやルーファスは敢えてツッコミを放棄した。
「どういう事だよ。ユーキが居ないって」
 ルーファスの正しい名などどうでもいいアーロンは、先ほどの言葉を問い正す。
「ああ、何か剣と盾の連中に連れてかれたみたいだぜ」
「えっ!?」
 知らされた、さらに衝撃的な事実。アーロンはルーファスに掴みかかった。
「そいつら、どこに行ったんだ!」
「多分、隣街にある支部じゃねぇの?」
 それを聞くやいなや、アーロンは再び動き出す。あっという間に小さくなってしまったその後ろ姿を見ていたルーファスがぽつりと呟いた。
「あいつ、場所分かってんのかね」
 はてさて、さらに面白そうなことになってきた。
「んー、すっげぇ気になるけど用事があるんだよなー」
 わざとらしく残念そうに一人ごちる。
「まぁ、あいつらと遊ぶのはまた今度のお楽しみってことで」
 
 事態は目まぐるしく動いていく。誰も止めることなど出来ない。それは用意されていたシナリオなのか、それとも……。
 全ては神のみぞ知る。