Heimat4-2

 その後、アーロンがしきりに腹が減ったと訴えたため、二人は酒場へと足を踏み入れた。本来なら市場で大量に買い込んだ食料あったのだが、ルイスの襲撃により全部台無しにされてしまったのだ。無駄な出費にユーキはむすっとした顔で、アーロンとカウンター席に座る。その僅かな金と引き換えに命が助かったのではないかという理屈は、根っからの守銭奴である彼には通じないようだった。
ぶつぶつと一人ぼやくユーキの隣では、アーロンが目の前に出されたケチャップたっぷりのオムライスに目を輝かせていた。
 待ってましたとばかりにスプーンを握り、程よい半熟具合の卵をすくい上げる。よほど空腹だったのか、驚異的なスピードでオムライスを次々と口へ運んでいく。割れてしまうのではないかという心配になるくらい、皿ががちゃがちゃと耳障りな悲鳴を上げる中、アーロンはものの3分足らずで完食してしまった。
「おかわり!」
 満面の笑みでアーロンが同じメニューを注文する。腹ペコの野良犬かお前はと突っ込みたくなるような食いっぷりに、ユーキはほとほと呆れた様子でブランデーに口をつけた。
「そんなにがっつくと喉に詰まりますよ」
「んー?」
 口いっぱいにチキンライスを詰め込んだ状態で、アーロンが意味のなさない言葉を発する。その顔を見て、ユーキは思わずぎょっとした。
「うおぉ、ケチャップ塗れ……」
 彼の言った通り、アーロンの口元は血吸った吸血鬼のように真っ赤になっていた。
ユーキはハァと軽くため息をつく。
「何やってるんですか、もー」
 傍にあった紙ナプキンを一枚手に取り、仕方なしに口周りを拭いてやった。まるで手間のかかる子供と母親のような光景だ。まあ、普段の関係もそれに近いところがあるのだが。
 ケチャップを拭き取っている最中、服にまで赤いシミが出来ているのを見つけ、ユーキは思わず眉を寄せた。
(洗っても落ちねぇんだよなぁ、これ……)
 どこぞの主婦のようなことを考えながら、綺麗になったアーロンの口からナプキンを離す。と、そこであることに気づいた。
「アーロンさん」
「ん? 何だ?」
「ビードロはどうしたんです?」
 いつの間にやら、市場で買った(というか無理やり買わされた)ビードロがなくなっている。思い返せば、ルイスからユーキを助けた時点ですでに持っていなかったような……。
 ユーキに問いに、アーロンはムッとした様子を見せた。
「あー、あれか。あれ、不良品だったぞっ。ちょっと握っただけで割れたし!」
 あいつに騙されたと、ビードロの売り主に対し憤慨するアーロン。それを聞いたユーキは当たって欲しくない予想が見事的中したことに、がっくりと肩を落とした。
「だから、すぐ壊すから買っても無駄だって言ったじゃないですか!」
「おれのせいじゃない! あんなに脆いなんて思わなかったんだっ」
「ビードロっていうのは、そういう風に作られてるもんなんですっ」
 騒がしい酒場内に負けないくらい、喧しく下らない口喧嘩が繰り広げられる。と、そこへユーキの隣に誰かが腰掛けた。
「マスター! ビール大ジョッキでっ」
「!?」
 どこかで聞いたことのある声が耳に入り、ユーキは弾かれるように後ろを振り向く。そこにいたのは、とても嫌な記憶しかない紅紫色の髪と黒い棍棒を持った人物。
「なっ、テメェどうして……!」
 予想外の人間の登場に、ユーキがわなわなと震える手で指差す。
「どーも、お二人さん。また、会ったな」
 一見女性か男性か迷う相貌したその人物は、ユーキとアーロンに向かってにっこりと微笑みかけた。見覚えのある顔に、アーロンも「あー!」と声を上げる。
「お前、この間おれたちを襲ってきた奴じゃないか。えっと、確かル、ル……」
 名前を口にしようとして、言葉に詰まる。必死で思い出そうと、ムムムと唸った末、アーロンはようやく答えを導き出した。
「ルーカス!」
「惜しい、ルーファスだ」
 ルーカス、いやルーファスは軽快に笑い飛ばしながら訂正を入れる。二人を見つめるその真紅の瞳はとても愉しげに歪められていて、何か良からぬことを企んでいるような嫌な印象をユーキに与えた。
「何でここにいやがるんだ、テメー」
 疑心と嫌悪を入り混ぜた声で、ユーキが問う。
 飄々と雲のように掴みどころのない雰囲気を醸し出すこの男は、ユーキの元仕事仲間だった人物だ。色々と複雑な事情で袂を分かち、それから一年以上会うことはなかったのに、先日果たしたくもない再会をしたばかりだった。
 アーロンには劣るが強大な力と、見た目にそぐわないサディストで残虐な性質を持つ。どう考えても関わりたくない類の人間だというのに、彼の方はユーキとアーロンに興味を抱いているらしい。
 そんな男が目の前に現れたのだ。何かろくでもない魂胆があるに決まっている。
 ユーキがそう警戒するのも無理からぬことだった。
 案の定、ルーファスの口元は不吉な予感を覚える三日月を形作った。
「そこらをちょっと散歩してたら、偶々お前らを見つけてさぁ。しかも何か面白そうな
いざこざ起こしてたし、とても興味をそそられてな。こうして、ちょいっとお話に来たってわけ」
 とても軽い口調で、ルーファスはここにいる理由を説明した。
 ということは、ルイスとの騒動の一部始終を抜け抜けと高みで見物していたわけだ、この男は。偶々とのたまっていたが、恐らく偶然ではないのだろう。「ストーカーか、テメェは」とユーキが苦々しく小声で呟いた。
 そんな彼をルーファスはニヤニヤしながら眺める。
「で、オメェは一体あいつつーか、あいつの親父に何をやらかしてあんな恨まれてんだ? まぁ、大体想像つくけど」
 棍棒でユーキの頬をつつきながら、意地悪く訊いた。
「おれがいちいち金奪ったり、騙したりした相手を覚えてるわけねぇだろ。つか、やめろ」
 心底鬱陶しそうに棒を手で退けると、ユーキはブランデーを飲み干す。カランとグラスの中で氷が鳴る音と共に、重苦しい溜め息が吐き出された。
「と、言いてぇとこだが覚えてるな。なんせ、ちと面倒なことに巻き込まれっちまったし」
 苛立たしげな口調で、ユーキがそう口にする。忌々しい過去を思い出したのか、見慣れた仏頂面は、さらに不機嫌さを増しているように見えた。
「だが、あれはあの野郎の自業自得だ。おれが恨まれる筋合いは一切ねぇ!」
 そう吐き捨て、ユーキは十年前の出来事についてぽつぽつと語り始めた。

 ジスラン・ジスカールはとある盗みの仕事をするため、一時的に組んだかつての仲間だった。その時、彼はギャンブルと酒に溺れており、多額の借金を抱えていた状態だった。そんなジスランには妻と子供がおり、彼は家族のことをとても愛していたのだが。自堕落な生活を送っている男が、家族を幸せに出来るはずがない。夫に代わり、家計を支えるために身を粉にして働く妻。毎日のようにやってくる借金取りに怯える我が子。
 男はこんな状況を何とかして変えようと決意した。その為には纏まった金がいる。自分が救いようのないクズだということは自覚していた。だけど、他に方法が思いつかなかったのだ。たった一度だけのことだから、借金を返し終わったら今度こそは真面目に働き、家族を守るから。自分に都合のいい言い訳じみた決意を胸に秘め。こうして、ジスランは悪事に身を染めた。
 しかし、これでやり直せるという彼の想いは、一人の男によって木っ端微塵に砕かれることとなる。一緒に盗みに入った男が、奪った金品を全て自分のものとしてしまったのだ。結局、ジスランは男の盗みにただ加勢させられただけで、何も得ることが出来なかった。
 当然、彼は激怒し、裏切った男に金を寄越せと詰め寄ったが……。男から返ってきたのは騙されるほうが悪いという蔑みと、それ以上文句言うなら警察にテメェを突き出すぞという脅迫だった。罪を犯したという負い目と家族という弱みがあったジスランには、結局どうする事も出来なかった。
 それから、彼の生活は悪化の一途を辿っていく。積み重なっていく借金。質の悪い金貸しに手を出し、厳しい取立てが続く中、窮地に立たされたジスランは愚かとしか言いようがない手に打って出る。自身の転落の一因となったギャンブルに、全てを掛けたのだ。人生を掛けた一世一代の勝負。だが、その結果は無情にも惨敗に終わった。
 そんな夫にいつかは立ち直ってくれるはずと信じ、懸命に支えてきた妻もついに我慢の限界に達した。
 彼女はジスランを罵り、容赦なく責め立てた。自分が悪いとは分かっていだが、精神的に追い詰められていたジスランは妻と激しく言い争い、そして……。
 彼は愛する妻を己の手で殺してしまった。
 その瞬間、ジスランは全てを失った事を悟った。
 何もかもに絶望し、半狂乱になった男は自身の身体に火をつけた。当時八歳だった子供の目の前で。


 その後、ユーキはジスランの件で、警察に呼ばれることとなったのだそうだ。ジスランは死の間際、ユーキのせいでこうなったんだとうわ言をように言っていたらしく、それを聞いていた子供が警察に伝え、一応事情を聞くことにしたらしい。しかし、ジスランの自殺に対し、ユーキは直接関わっていない。持ち前の口八丁さで警察を上手く誤魔化し、大したお咎めも受けずに済んだとのことだった。

「まあ、そりゃ確かに自滅としか言いようがねぇな」
 ユーキの話を聞き、ルーファスは率直な感想を述べた。破滅の切っ掛けになったのはユーキの裏切りだったのかも知れないが、その後のジスランの顛末は自分で自分の首を絞めた結果に思える。
「だろ? おれを殺そうとするのはお門違いなんだっつーの」
 少なくともユーキはそう考えているのだろうと、その言葉から察せられた。
「けどなぁ、例え真実がどうであれ、あのガキには関係ないんだと思うぜ」
「あ?」
 ルーファスはビールジョッキ片手に、くつくつと喉を鳴らす。
「少なくともそのジスランって奴は、家族に対する愛情はあったらしいしな。あいつにとっちゃかけがえのない父親だったんだろうさ」
 ルーファスの言葉通り、確かにジスランにとって家族は大事な存在で、彼なりに大切にしようとしていたというのは、ユーキも認める所ではあった。
 聞きたくもない妻子の話を、しょっちゅう聞かされていたのを思い出す。興味もないので大半は聞き流していたが。
「んで、そんな父親を母親と共に理不尽に奪われたんだ。幼いガキには大きなショックだったろうよ。そこから這い上がるために必要だったのは真実じゃねぇ。どうしてこうなったのか、一体誰のせいなのかという、奴にとって納得出来る理由と責任の押し付け先だ」
ルーファスは喋りながら、ユーキの様子を伺う。その視線に薄気味悪さを感じたユーキは、不愉快そうに顔を歪めた。
「それに該当するのはこの場合お前しかいないわな、ユーキ。何だかんだで、事の発端はテメエがやらかした事から始まってるし、父親はオメエのせいで人生が狂ったと思ってた。奴が全ての出来事の原因をお前だと思い込み、恨むには十分な理由だったろうぜ。そして、そうする事で辛い現実を生きる糧にしたと」
 ルーファスの意見に、ユーキはぐっと言葉を詰まらせる。彼の言っている事はある程度的を射ていたし、理解できないでもなかった。それが非常に厄介な事だということもわかっていた。
「おそらく、十年間復讐する事しか考えてなかったんだろうよ。で、血眼になってオメエを探してたんだろうが、中々見つからなかったと。まぁ、オメェ小物過ぎて逆に見つからねぇわな。皮肉なことにちょっと目立ったことをやらかしたお陰で、指名手配くらってあのガキの目についたって訳だ。いやー。災難だったなっ」
 陽気な笑い声を上げながら、ルーファスはユーキの背をバシバシと叩く。背中を襲う痛みとこの状況を面白がっている男に、ユーキは思いっきり渋い表情を見せ、「うるせぇ」と不貞腐れたようにそっぽを向いた。
「あの手の野郎は面倒だし、しつこいもんだぜ。ご愁傷様」
 まったく同情心の感じられない労りの言葉が、ユーキに掛けられた。
 わざわざ言われずとも、それはユーキとて重々承知している。復讐心に駆られた人間は、往々にして頑固でその志は容易に折れない。対峙した印象では、あの復讐者は非常に執念深く、人の話を聞かないタイプと見えた。そんなルイスが望んでいるのはユーキの命。ただ、それのみ。これがどれだけ厄介なことか。
 どんよりとした憂鬱そうな雰囲気を醸し出すユーキとは裏腹に、ルーファスの方はとても愉しそうだった。
「まっ、せいぜい殺られねぇように、ご主人様に守ってもらうこった」
ルーファスは飲み代を払い、徐に席を立つ。そして「じゃあ、またどっかで」と言い残し、酒場から出て行った。

「あいつ、結局何しに来たんだ?」
 一連のやり取りを眺めていたアーロンが、九皿目のオムライスを口にしながら尋ねる。
「さぁ?」
 ユーキにも答えは分からず、肩をすくめた。
(つーか、じゃあまたって何だ。じゃあまたって。あのヤロー、まだおれに付きまとう気か、冗談じゃねぇぞっ)
 なぜ、自分の周りにはろくでもない人間ばかり集まり、そこらの小説家なら暫くネタには困らないぐらいのいざこざに巻き込まれるのだろう。そんな哀れな境遇をユーキは心から嘆く。
 しかし、隣で十皿目のオムライスを追加注文している男及び、店を出て行った鬼畜外道棍棒使いと、自らの意思で関わりを持ったのはユーキの方だ。また、彼に降りかかる災難も元を辿れば自業自得の面が強い。しかし、そんな都合の悪い事実は、ユーキの中で華麗に無視された。


 外へ出たルーファスは、店の裏側に回る。人目につかないようにしながら、窓から中の様子を伺っている人物を目に付け、ゆっくりと口角を釣り上げた。

 酔っぱらいでひしめく喧騒とした酒場内、ルイス・ジスカールの視線は一人の男に注がれていた。男の名はユーキ・シラサギ。ルイスの人生を狂わした元凶だ。
 憎き後ろ姿を見張りながら、ルイスの頭は忌まわしき十年前の出来事を回想し始めていた。

 あの運命の日。ルイスは両親の激しく言い争う声で目を覚ました。あんまり喧嘩しないのに今日はどうしたんだろと、疑問に思いつつ、まだ眠い目を擦る。と、突然大きな騒音が部屋に届き、ルイスは粗末なベッドから飛び起きた。
 ただならぬ雰囲気を幼い子供は敏感に感じ取る。一体何が起こったというのか。怯えるルイスは、恐る恐るドアノブに手を掛けた。
 軋んだドアがキイッと音を立て開かれる。そして、ルイスの目に恐ろしい光景が飛び込できた。
「……っ!」
 思わず口元を両手で覆う。悲鳴すら上げられなかった。事態を飲み込むことが出来ず、ルイスは呆然としたまま、ただ床のある一点を見つめていた。いつも見慣れたエプロン。地面を赤黒く染める液体は、とても大好きだった綺麗な色の髪を汚している。ルイスに微笑みかけてくれるはずの顔は恐ろしい形相で固まっており、優しく包み込むような声で「おはよう」と言ってくれることもない。
 変わり果てた母の姿がそこにあった。
 どうして、一体何が? ありとあらゆる疑問が頭の中で激しく渦巻く中、ルイスはゆっくりと顔を上げた。そこにはいたのは、小刻みに震える両手で何かを強く握り締め、呆然と立ち尽くしている父親だった。不思議なことに、室内にも関わらず彼の服はぐっしょりと濡れている。水かとも思ったが、嗅覚を刺激する異臭にそうではないと気づいた。
「お、お父さん……」
 明らかに異様な父の様子に、ルイスは怖々と呼びかける。しかし、我が子の声に反応見せる様子はない。出口のないトンネルを思わせる、どんよりとした虚ろな瞳は何も写していなかった。
「こんなはずじゃなかったのに……おれは、おれはただ、お前たちのために。ああ、何でこんなことに」
 ぶつぶつと誰に聞かせるわけでもなく、うわ事のように父親が呟く。
「あ、あの男のせいだ。あいつがおれを裏切ったから。そのせいで全てが狂った。あいつが……ユーキ・シラサギが!」
 鉄を煮詰めたような憎悪を込めて吐かれた一人の男の名を、ルイスは確かに聞いた。その直後、狂った獣のような絶叫が部屋中に響く。
 そして、父親は持っていたライターに火を付け、己の身体に押し付けた。
「お父さん!」
 ルイスが小さな手を父親に伸ばす。だが、彼の体はあっという間に灼熱の炎に包まれ、近づくことは出来なかった。
 父の嘆きと絶望が宿った火は、全てを飲み込んで灰へと変えた。ただ、ルイス一人を残して。

 両親も家も失った子供に待ち受けていたのは、質の悪い借金取りによる慈悲など一切ない取立てだった。母の知人がいろいろと手助けをしてくれたのだが、それでも街から街へと着の身着のままの逃亡生活を送るとこを余儀なくされた。極貧と孤独は幼い心を蝕ばんでいく。
 残酷な運命に翻弄されるルイスはいつも考えていた。こんなことになった理由を。そして、ある日その答えを知人から教えられた。
 話によれば、父はある男に騙されて多額の金を奪い取られたのだそうだ。その事があの悲劇に繋がったのだろうと知人は言った。
 父を陥れた男の名は、彼が死に際に口走ったのと同じものだった。
 ユーキ・シラサギ。
 この男が全ての元凶だったのか。この男のせいで私は全てを奪われたのか。ルイスの心を黒い炎が焼く。
 それから、ルイスは男を憎むことで辛い日々を耐え抜いた。たとえ何年かかろうとも必ず父の仇を取り、復讐を遂げる。いつしか、その誓いは人生の全てとなっていた。


 ふと、前髪に手を伸ばし、何かを掴むと髪から引き抜く。手を開くと、中にあったのは金色をした二本のヘアピン。先が星の形をしたそのヘアピンは金で出来ており、結婚する時に父が母に送ったものだった。母はそれをとても大切にしていて、どんなに生活が困窮しようとも決して売ろうとはしなかった。
 他に何も入れるものがなかった金庫に大切に仕舞われ、火事の時これだけが残されたのだ。
 いわば、両親の形見といえる唯一の品物だった。
 手のひらの上で、光輝くヘアピンをぐっと強く握り締める。剣術を磨き、賞金稼ぎの真似事をしてきた日々が報われる時がすぐそこまで来ている。
 己の手で制裁を下そうと、追い求めていた男をついに探し出した。長年の悲願、どんな手を使ってでも達成してみせる。
 ルイスが決意を新たにした、その時だった。
「よう、復讐者『アベンジャー』」
 突然降ってわいた声にルイスは驚き、後ろを振り向く。
「監視ご苦労さん。いや、お前も中々しつこいタイプっぽいね」
 ルイスの傍に立っていたのは、己の背と同じぐらいの黒い棒を持った見知らぬ人物。性別を迷う中性的な顔立ちをしていたが、口調と立ち振る舞いから見てどうやら男性のようだ。
「誰だ、お前は」
 突如現れた正体不明の男を、ルイスは訝しげに見やる。その問いに対し、男は窓を親指で指し示した。
「テメェの獲物の知り合い」
 その言葉に、ルイスは目を見開いた。
「ユーキ・シラサギの!?」
 予想通り、即座に反応した相手に、男――ルーファスはほくそ笑む。
「んな、刺刺しい視線向けんなよ。安心しろ、オメェの邪魔をする気は一切ねぇから」
 今にもレイピアを引き抜こうとする気配を醸し出し、敵意を向けてくるルイスを宥めるようにルーファスが言う。
「なら、なぜ私に近づいてきた?」
 だが、ルイスは相手への警戒を薄めなかった。ユーキ・シラサギと関係があるという以前に、嫌な笑みを顔に貼り付けているこの男自体に薄気味悪さを感じたからだ。
 底が見えず、得体の知れない雰囲気を纏うルーファスに、ルイスはどことなく危険な匂いを嗅ぎ取っていた。
「んー? ちょっと、お前にアドバイスをくれてやろうと思ってな」
「アドバイスだと?」
 唐突な発言に、ますます不信感を強める。構うことなく、ルーファスは壁に片手をつくと、ルイスに顔を近づけた。やけに馴れ馴れしい態度に、ルイスは不快そうに眉を顰める。
「テメェの魂胆は大体読めてる。このままあいつを見張り続け、アーロンから離れて一人になった時を狙って殺るつもりなんだろ?」
 ルイスは何も言わなかったが、逆にその無言が肯定を示していた。
「けど、あの野郎は計算高いし、用心深いからねぇ。一度、お前に命を狙われた以上は、意地でもご主人様から離れねぇだろうよ」
 そう言いながら、ちらりとルイスの腰に目線を落とした。鞘に収められているので外からは分からないが、二本の剣の内一本は無残に折れてしまっていて使えない。さらにルーファスは恐らく痛々しい痣になっているであろう胸の中心を棍棒で差した。
「実際戦ったオメェなら分かるだろうが、アーロンて奴はまさにバケモンとしか言いようがねぇ。例え、オメェ百人いたところで勝てる相手じゃねぇよ」
「……っ」
 痛いところをついた指摘に、ルイスはきつく唇を噛み締める。アーロンの人間離れした強さは、先ほど嫌というほど痛感していた。だが、しかし……。
「例え、そうだとしても。私は諦めるわけにはいかないんだっ」
 ここであの男を取り逃がしてしまえば、今後見つけられる保証などない。ルイスにとって復讐は己の存在意義となっていた。それを失うことを、何よりも恐れていた。
「まぁ、そう言うだろうと思ってたぜ。お前からしてみりゃ、そんな簡単に捨てられる想いじゃねぇよなぁ。だから、ちょっと手助けしてやろうって言ってるんじゃねぇか」
「なに……?」
「一つ聞くが、テメェ復讐のためならどんなことでもやる覚悟はあるか?」
「当たり前だ! 私はユーキ・シラサギを殺すためだけに生きてきたんだぞっ」
 そのために必要となることを、思いつく限りやってきたのだ。時には命の危機にすら晒されることだってあった。両親の死やその後の過酷な出来事の数々を思えば、今更躊躇する事など何もなかった。
「なら、いい方法教えてやるよ」
「……どんな?」
 目の前の男を信じたわけではない。だが、今のままではユーキに手を出すのは困難だ。それが分かっているからこそ、ルイスは若干の揺らぎを見せた。
 その迷いにつけ込むかのように、ルーファスが耳元で囁く。
「なぁに簡単な話だ。あのデタラメ人間がユーキを守ってやってんのは、ユーキが奴の下僕だからだろ。だったら……」






「なっ……」
 アーロンと酒場から外へ出たユーキは、そこで待ち構えた人物に絶句した。
 黒衣の復讐者と元仕事仲間の二人がなぜか共にいる。あまりにも早すぎる再会だった。
「何で居るんだよ、テメェ。まだ、やる気かっ」
 素早くアーロンの後ろへと隠れ、怒鳴るユーキ。ルイスは無言で二人の方へ歩を進めた。
「アーロンと言ったな?」
「そうだけど、何の用だよ? また、ユーキを狙いにきたのか?」
 相手の動きに注意を払いながら、アーロンが身構える。だが、攻撃する気配は今のところ感じられなかった。
「一つ聞きたいことがある。お前がユーキ・シラサギを守るのは、コイツがお前の下僕だからなんだな?」
「……おう」
 ルイスの質問に、アーロンはこくりと頷いた。
「とすれば、ユーキ・シラサギが下僕でなければ、お前が守ってやる理由もないわけだ」
「……?」
 ルイスの言葉の真意が掴めず、アーロンだけでなく、背後にいる男も不思議そうな顔を見せる。そして、次の発言で驚愕の表情に変わった。
「ならば、私がこの男の代わりにお前の下僕になってやる。そうすれば、こいつを庇う理由もなくなるだろ?」
 ユーキをアーロンから引き離すためのとった策。それはユーキをアーロンの下僕でなくならせることだった。もちろん、ただ下僕を辞めさせろといっても、主人が納得するわけがない。だから、ルイスが代役を申し出たというわけだった。
「なにぃ!」
 あまりにも予想外な事態に、ユーキが素っ頓狂な声を出す。なぜ、こんな展開にと困惑していると、少し離れたところでニヤニヤしながら傍観している男の顔が目に入った。その瞬間、ユーキは全てを察する。
「ルーファス、テメェ! こいつに余計な入れ知恵しやがったな!!」
「おれはただこいつの哀れな境遇に同情して、アイディアを出してやっただけだぜ」
 いけしゃあしゃあと言ってのけた上、ケラケラと笑い声をあげるその顔を本気で殴ってやりたいとユーキは心から思った。しかし悲しきかな、彼にそんな事を出来る度胸も力もない。というよりか、今問題なのはルーファスよりも……。
「よく分からないけど、下僕になりたいのかお前?」
「そういう事だ。私がユーキ・シラサギの代わりになろう」
「ちょっと待ったー!!」
 下僕解任の危機を黙って見過ごす訳にはいかない。ユーキは慌ててストップを掛ける。
「勝手に話を進めるな! こいつの下僕はおれだっての!」
「私の方が強いし、断然役に立つ。それにお前の腐った性根から考えて、いつか都合が悪くなったら、父のように彼を裏切る気でいるだろう!」
「…………」
 核心をついた鋭い指摘に、ユーキは視線を泳がせる。だが、ここで負ける訳にはいかなかった。
「下僕舐めんなよっ。こんな世間知らずでお子様な俺様の相手、おれ以外に誰が出来るか!」
 かくして、激しいアーロンの下僕の座争奪戦が切って落とされた。いい歳をした人間が一体何をやっているんだと、傍から見たら白い目で見られそうだが、両者とも必死だ。なんせ、この戦いにはユーキの生死が賭かっている。
「別におれ、下僕が二人でもいいぞ。それじゃダメなのか?」
 闘いの原因なのに、蚊帳の外に置かれているアーロンが妥協案を出す。しかし、二人から返ってきた答えは共に「NO」だった。
「大体、こいつと一緒に居てもロクなことねぇぞ。すぐ怒るし、モノ投げたり、壊しやがるし。挙句の果てにはマフィアに追われる始末だ!」
「それはお前が彼の力を使って、悪どいことをやらかしたせいじゃないのかユーキ・シラサギ。お前がいると彼に悪影響しか与えない。やはり私が下僕になるべきだ!」
 火花を散らしながら激しく争う者たちをよそに、こっそりとルーファスがアーロンに接近し、彼の肩に腕を乗せた。
「オメェはどんな奴が下僕になって欲しんだ?」
 そう聞かれたアーロンは、暫しの間考える。下僕の条件とは……やがて結論が導き出された。
「美味しい目玉焼きが作れるやつがいい」
 返された答えに、ルーファスは「よしっ、決まった!」と両手をポンッと叩く。
「今からアーロンの下僕決定戦『目玉焼き対決』を開催する!」
「はっ?」
 勝手に出された、あまりにも唐突にもほどがある意味不明な宣言に、いがみ合っていた二人は間の抜けた声を出し、目を点にしていた。





 どうしてこうなった。
 今日、何度この言葉が浮かんだことだろう。
 だが、道のど真ん中に置かれた長方形のテーブルと、その上にある様々な品物を前にしては、やはりどうしてこうなったと思うのは避けられないことだった。
 ガスコンロとフライパン、フライ返しにサラダ油、そして卵が二つずつ。第一回アーロンの下僕決定戦『目玉焼き対決』を行うための準備が完璧に整えられている。
 道具及び材料は対決の創案者が市場を回り、脅迫という名の協力を得て調達してきたものだった。
 何事かという通行人の視線が突き刺さる中、ユーキとルイスはそれぞれガスコンロの前に立ち、非常に困惑した表情を浮かべていた。
「ルールは簡単。目玉焼き作って、それをアーロンが食べて美味しかった方が勝利。晴れてこいつの下僕だ」
頼まれてもないのに、司会を務めるルーファスがルールを説明する。そして、審査員であるアーロンはユーキたちの向かい側、もう一つ並べられたテーブルにちょこんと座っていた。
「テメェ、ただ面白がってるだけだろ!」
「おれはおれが楽しけりゃ、それでオールOKさ」
 ユーキの野次を、根っからの享楽主義者は軽くいなす。もうこうなっては何を言っても無駄だということはかつての付き合いで身に染みている。
 大人しく下僕の座を掛けた勝負に興じた方が懸命なようだ。
「たくっ、しゃあねえなぁ」
 これで決着が付くのならと、仕方なくユーキはガスコンロに火を付けた。
 十分にフライパンが温まったところで、油を少々多めに引き、黄身が崩れないように低い位置から片手で卵を割って落とす。じゅうっという美味しそうな音が辺りに響く。
 アーロンは香ばしい食感の方が好きなので火力は強めにする。その慣れた手つきから、彼が普段から料理に触れていることが見て取れた。特に目玉焼きはアーロンによく作らされているので、今では一番の得意料理と過言ではない。
 ユーキがこの対決に乗ったのも、高い勝算を持っていたからだった。
 一方のルイスはユーキの手際のよさを前にして、内心困り果てていた。勢いと流れでこの戦いに身を投じる事になってしまったが、実はルイスに料理の経験はほとんどない。
 というより、借金取りからの逃亡や復讐のための努力する日々のなかで、料理などする暇がなかったのだ。
 しかし、こうなった以上、何が何でも勝つことが求められる。
 ルイスはひとまずガスコンロの火を入れた。火力を最大にして、油をフライパンになみなみと注ぐ。後は卵を割って入れなくてはと、パックから卵を一つ取り、力いっぱいテーブルの角に叩きつけた。
「あっ」
 ぐしゃりと音を立て、卵が無残に潰れる。机と手がべっとりと白身で汚れたが、構ってなどいられない。気を取り直して、もう一つ卵を取る。今度は上手く割ることができた。ただし、雑にフライパンに卵を落としたため、黄身の形は崩れてしまった。
 ルイスが四苦八苦している中、ユーキは黄身を固焼きにするため、フライパン返しで目玉焼きを華麗に引っくり返していた。あと、もう少しで完成といったところか。
 それを見て、ルイスはさらに焦る。しかし、ルイスの思いとは裏腹に、黄身が中々固まらない。ずっと強火にしていたため、次第に白身が焦げ黒い煙が上がり始めた。
「わっ、まずい!」
 ルイスは慌てふためきながら、即座に火を止めた。
 こうしで焼き上がった目玉焼きに塩コショウで味付けし、両者とも調理を終えた。
 さっそくアーロンの前に、目玉焼きが乗った皿をそれぞれ差し出す。少し前にオムライスを十数皿ほど胃に詰め込んだばかりだったが、勝敗の鍵を握る男は何の苦もなく二皿とも完食した。
「さて、判定は!?」
 ルーファスが問う。審判の結果は間を置くことなく、アーロンの口から伝えられた。
「ユーキ!」
「よっしゃあ!」
 見事勝利したユーキは、歓喜の声とともにガッツポーズを取った。
「何故だっ」
 一方の敗者は納得いかないと叫んだ。
「オメェ、あれで勝てると思ってたのか。まぁ、見た目が全てじゃねぇけどよ」
 ルイスの目玉焼きとその製造過程を見たルーファスが、ぼそりと呟く。だが、勝負の分かれ目となったポイントは、どうやらそこではないようだった。
「アーロンは黄身が半熟状態のやつは好きじゃねぇんだよ」
 勝ち誇ったように、ユーキが勝因を明かす。確かにユーキの目玉焼きは黄身に完全に火が通ったターンオーバー。一方、ルイスが作ったのは黄身が半熟のサニーサイドアップだった。とはいえ、ルイスの目玉焼きは黄身が原型を留めていない上、白身は半分以上焦げていて、かつ塩コショウも少々かけすぎという惨状であったので、果たして堅焼きにしていたとしても、勝てたかは非常に疑問が残るところであったが。
「だてに一年間こき使われたわけじゃねぇぞ!」
 しょうもないことを自慢げに語るユーキに、ルイスは悔しそうに歯を噛み締めた。
「ひ、卑怯だぞ。だいだいこの対決、彼の好みを知っているお前が断然有利じゃないかっ」
「んなもん、最初に気付かなかったテメェが悪い。今更何言ったって負け犬の遠吠えにしかなんねぇよ。とっとと失せろ」
 勝負の不公平さを訴えるが正論で返され、ルイスは反撃する手段を失った。だが、ここで引き下がれるなら、最初から復讐しようなどとは考えない。
「クソッ!」
「げっ!?」
 残されたもう一本のレイピアを引き抜き、ユーキに向けた。
「本当諦め悪いぞ、テメェ!」
「煩い! ここまで来て何をせずに帰れるかっ」
 じりじりと近づいてくるルイス。引け腰でユーキは後ずさるが、何度も何度も命を狙われ、いい加減彼もキレた。
「逆恨みもいい加減にしやがれ!」
「逆恨みだと!?」
「だってそうだろが。ジスカールが死んだのはあいつがどうしようもないクズだったからだ。それをおれのせいにすんじゃねぇよっ」
 父親を咎められ、ルイスの頭にカッと血が上った。
「父を侮辱するな!」
 剣の切っ先が怒りで不安定に揺れ動く。だが、ユーキは罵倒することをやめなかった。
「事実だろ。ギャンブルと酒に溺れて、妻に散々迷惑かけて。家族のためとかいうなら普通に働きゃ良かったんだよ。それを自業自得で作った借金の返済のために、よりにもよって犯罪に手を出した自分勝手な大馬鹿野郎だあいつは。さらに言うなら、おれに盗みを持ちかけたのはテメェの父親の方だからなっ」
 ルイスの心を突き刺すような言葉を、ユーキは次々と投げつける。
 実のところ、最初は余計なトラブルを起こす危険を負ってまで、ジスカールを騙す気はなかった。気が変わったのは、家族の愛情を語るくせに、守るべき者をまったく幸せに出来てないあの男が鼻についたからだ。恐らく家族思いなその姿が、ユーキのこの世で一番嫌いな者と重なって見えたからだろう。その存在はジスカールと違い、真面目に懸命に働いて家族を支えていたから、余計にジスカールにムカついたのだった。
「……私にだって分かっているさ。父がいい人間ではなかったことぐらい」
 ルイスは顔を伏せ、痛切な声でそう言った。
 初めは父もまっとうに職についていたが、仕事を失ってからはいつも酒を飲んで家にいるか、賭博場にいっているかのどちらかだった。母が代わりに働いていたものの、家はどんどん貧しくなるばかり。それでも生活を改めることのない彼に、周りの人間は白い目を向け、陰口を叩いていた。
 けれど、父は決して暴力は振るわなかったし、ルイスにはとても優しかったのだ。酒を飲んでないときは母の代わりに家事をし、ルイスとも遊んでくれた。
 ユーキの言うとおり、あの事件の責任の大部分は父にあることも、最初から知っていたのだけれども。ルイスにはどうしても父親を恨むことが出来なかった。
「でも、私にとってはたった一人の父親だったんだ!」
 誰かを憎まなければ、生きていけなかった。それが父でないとするなら、もうルイスにとってその対象は一人しかいなかった。
「お前にだって家族はいただろう! お前にとってそれは大事な存在じゃなかったのか? ユーキ・シラサギ!」
 ルイスの悲痛な叫びが木霊する。だが、ユーキ返ってきたのは、冷淡な嘲笑だった。
「テメェの考えがおれにも通用すると思うなよ、クソガキッ。そんなもん、とっくの昔に捨てたっ!」
 その瞬間、ルイスの中で何かが切れた。我を失ったレイピアがユーキを襲う。しかし、刃は下僕の危機を察したアーロンの手刀によって、カランと音を立てながら床へと落ちた。
「邪魔をするな!」
 自分の前に立ちはだかるアーロンに、ルイスが吠える。
「もう、やめろって。武器もないのに戦えないだろ」
 頭を掻きながら、アーロンがどことなく困った風に言った。
「それに女相手にはあまり戦いたくない。仲間が言ってたんだ。女に手を出すのはカッコ悪いって」
「なっ!?」
「え?」
 アーロンからもたらされた衝撃的事実に、ユーキとルーファスは面食らう。
ルイス本人もさっきまで煮えたぎっていた頭が、動揺から急速に冷えていった。
「ど、どうして女だと……?」
 借金取りに追われたり、賞金稼ぎをしていると、女というだけで危険な目に合ったり、舐められたりすることが度々あった。女性にしては背が高かったのを生かし、今までも自分と決別する意味を込めて、ならばいっそ男として振舞うようにしていたのだ。今まで一度だってバレたことはなかったはずなのに。
「え? つーか、マジで女?」
 かなり華奢ではあるが、ユーキは男と疑わなかっため、戸惑いは大きい。彼、いや彼女を男だと思い込んでいた理由の一つは……。
「? 最初から女だと思ってたぞ。それにしては胸がなかったけど」
「っ!」
 そう、ルイスには女性特有の凹凸が見えず、まさに断崖絶壁な胸をしていた。一応、ごまかすための布は巻いてあるのだが、別になくても対して問題ないのではというぐらいのボリュームしかないというのは、彼女だけの秘密である。別にその事に傷ついてなどいない、気にしてないとはルイスの弁。しかし、アーロンがさらりと言った発言が、彼女の頭の上に大きな石となって落ちてきたのもまた事実だった。
「いやぁ、人は見かけじゃ分かんねぇもんだなー」
 人ごとのようにしみじみとルーファスが言う。それに対し、この男と初めて会った時、性別を本気で迷った覚えがあるユーキが「テメェが言うか?」と密かに突っ込んだ。
「そういや、あいつのガキって息子じゃなくて娘だったような気が……」
 ユーキはおぼろげな記憶を探る。名前も聞いていたはずだ。確か、ルイーズとかそんな類いの名だった。
「で、お前はどうすんの。ここは一旦諦めて頭冷やして見ることを、おれはオススメするけど」
 ルイスはショックと屈辱で今だ呆然と立ち尽くしていたが、ルーファスの呼びかけで我にかえる。
 武器もないし、戦う気力も根こそぎ奪われてしまった。もはや、残された選択は一つしかない。時には引くのも英断である。
 ルイスは折れて使い物にならなくなった剣を、ユーキに向かって投げつけた。慌てて、ユーキはそれを避ける。
「危ねぇっ。テメェ、何しやがる!!」
「これで助かったと思うなよ、ユーキ・シラサギ。もっと剣の腕を磨いて、いつの日か必ずお前の首を取ってやる」
 ユーキにそう宣告すると、ルイスは踵を返し、その場から走り去っていった。
 これで、ようやく一段落したようだ。ユーキからうんざりしたようなうめき声が漏れた。
「うん、なかなか面白いかったぜ。さて、今度こそサヨナラだ。また、遊ぼうぜユーキ!」
 ユーキの肩を軽く叩くと、ルーファスも二人から離れていく。
 がくっと膝をつき、ユーキはぐったりと顔をテーブルに突っ伏した。
「どいつもこいつも……纏めてくたばれ、くそったれっ」
 そんな下僕の嘆きを聞いていたのは、事の成り行きをいまいち理解できずに不思議そうな顔をしている主人だけだった。
 





 ルイスの一件が片付いた後、ユーキとアーロンは宿屋へと向かった。まだ、宿に泊まるには早い時間だったが、アーロンが今日はいっぱい動いたからもう休みたいと言ってきたのだ。
 アーロン以上に疲労困憊していたユーキは二つ返事で了承し、ベッドにごろんと寝転がり、気まぐれに買った本を読みながら身体を休めていた。
 それからどれくらい経ったか。やたら、静かなことに気づく。ふと横を見れば、安らかな寝息を立てている姿が目に入った。
(好きな時間に寝て、食べて……ホント、自由だなこいつ)
 己の好きなように生きている様は羨ましいぐらいだと、せせら笑う。
「何もなきゃ、今が逃げ出すには絶好のチャンスなんだろうが……」
 そういうわけにもいかねぇんだよなぁと一人ため息をついた。
 ただでさえ、マフィアから指名手配食らっている上、ルイスのような自分を狙う存在が現れたのだ。今アーロンから離れるのはどう考えても得策ではない。
 いつになったらこの男の下僕から解放されるのやらと、憂鬱な気分で読み終わった本をベッドのシーツの上に放り投げた。
「気晴らしに酒でも飲むかな……」
 酒屋は近くにあったはず。さすがにまたルイスが襲ってくることもないだろうし、この程度の距離なら一人でも警戒を怠らなければ大丈夫だろう。そう考え、身体を起こすと、酒を買いに部屋を出ていった。



 ビールの小瓶片手に目的を済ましたユーキは、再び宿屋へと足を運ぶ。もちろん、周囲には十分に気を配りながら、慎重に歩いていたのだが……
「い、てぇっ!」
 道の向こう側から勢いよく走ってきた子どもを避けきれず、お互いの肩が強くぶつかってしまった。
「どこ見てやがんだ、このクソガキ!」
 痛む肩を手で押さえながら、子供に向かって大人気なく怒鳴りつける。すると、鋭い視線で睨みつけられ、ビクッと怯える子供の後方から、慌てた様子で母親らしい女性が駆けつけた。
「ごめんなさい、ちゃんと前を見なさいって言ったんですが。落ち着きのない子で。ほら、あなたもこの人に謝りなさい」
 母親に促され、子供はごめんなさいと頭を下げる。謝罪を受け、ユーキは不機嫌そうにフンと鼻を鳴らすと、何も言わずその場から立ち去る。だが、少し歩いたところで、ふと後ろを振り向いた。
 恐らく、これからはちゃんと気をつけるのよと子供に言い聞かせているのだろう母親と、分かったと返事する子供。母親は微笑み、我が子の頭を撫でてやれば、子供は嬉しそうに破顔した。
 その光景を見ていたユーキの脳裏に、ルイスの言葉がよぎる。

――お前にだって家族はいただろう! お前にとってそれは大事な存在じゃなかったのか?――

 家族。そのキーワードに十六年前のあの日の記憶が蘇った

 病室の前、殴られて床に尻餅をつく自分。そんな己を蔑んだように見る家族。「出て行け」と激昂する弟妹に、かっとなり負けじと叫んだ。
「こんな家、言われずともこっちから出て行ってやらぁ!!」

(あー、クソっ。嫌なこと思い出しちまった)
 不愉快な思い出を振り払うかのように、ユーキはビールをあおる。ムカムカした気分が周囲への警戒心を薄くさせ、背後から近づいてくる気配に気付けなかった。
 ズブリと肉に刃物を突き刺したような音。同時に脇腹に感じる強い衝撃。
「あっ……ぐぅ!」
 脇腹のある一点が焼け付くように熱くなり、やがてそれは鋭い痛みへと変わる。持っていたビール小瓶が音を立て、地面へと落ちた。
 体から何かが引き抜かれたのを感じた直後、全身の力が抜け、地面へうつ伏せに倒れこむ。
「な、何が……」
 自分の身に降りかかったことが理解できず、激痛に呻きながらユーキは何とか顔を上げ、後ろを振り向いた。
 目に入ったのは、血で濡れたナイフを握っている男の姿。その男は欲望にぎらつかせた目でユーキを見下ろす。その瞬間、何が起こったのかを瞬時に悟った。
「いやぁ、ツイてるなぁ。賞金首をこんなあっさりと殺れるなんてよ。安い方の奴だが、それでも百万だしな」
 獲物を逃すまいと舌舐りをしながら、男はナイフを強く握る。
(やべぇ……に、げねぇと)
 このままでは確実に殺される。だが、逃げようとする気持ちとは裏腹に身体はまったく言うことを利かない。立ち上げることはおろか、ほんの少し後ろへ這いずっただけでそれ以上動けなくなってしまった。
 こうしている間にも、溢れ出た血液が服を朱に染め上げていく。周りの地面には瞬く間に血の池が出来上がっていた。
 先ほどまで感じていた熱さや痛みが薄らぎ、代わりに身体が急速に冷たくなっていく。視界がぼやけ、徐々に視野が失われる。近づく死の予感にユーキが抗える術はない。
(ダ、メだ……)
 男がナイフを高く振り上げる光景を最後に、ユーキの意識は真っ暗な深淵の底へと引きずり込まれていった。