Heimat5

 雄大に広がる湖。波一つ立たない水面は、鏡のように周りの景色を映し出す。その水のキャンパスに描かれていたのは、やわらかく輝く黄金の球体と厳粛な雰囲気を纏い佇む白い遺跡のような建物だった。まるで幻想的な絵画を思わせる光景だったが、その作品を唯一鑑賞していた少年にとっては、残念なことにまったく興味が沸く代物ではなかった。じっと水面を眺めていると、突如絵の輪郭がぐにゃぐにゃと歪んだ。ピチャンという水音を立て、空中に銀色の光を放つ一匹の魚が飛び出す。次の瞬間、少年は勢いよく湖に飛び込んだ。
 先程よりも大きな音を立て、水飛沫が舞う。魚は捕まえようとした小さな手を素早くすり抜けた。捕獲に失敗した少年は豪快に湖に落ちた。結果、服はびしょ濡れになった挙句に、鼻から水が入り激しく咳き込む。一方の魚はあざ笑うかのように悠然と水中を泳ぎ、どこかへと消えていった。
 仕方なく、少年はむすっとした顔で岸へと上がる。水を吸って重くなった服を絞りながら、ふと上を見上げた。
 頭上にはいつも自分たちに明るく照らしてくれる太陽のような球体。そして、天井は分厚い土で覆われている。少年はずっとあそこが天辺だと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
 土の壁の上には空というものがあり、それは限りなく高く、どこが天辺になるのか分からないそうだ。
 さらに空はずっと黒い土の天井とは違い、様々な色に変わるのだとも言っていた。
 けれど、少年は今まで一度も空を目にしたことがなかった。
 いつか見てみたいなと考えながら、とことこと歩く。その最中、悲鳴とも怒声ともつかない、けたたましい鳴き声と耳障りな羽音が耳を付いた。
 それを聞いた途端、少年はまた機嫌を損ねる。見れば、飼われている鶏たちが少年に向けて威嚇するように鳴き、羽根をバタつかせていた。いつも、こうなのだ。少年が近づくたびに、まるで恐ろしい敵が来たかのように怯え、怒りをあらわにする。
 確かに彼らは食材としていつかは食べられるかもしれない運命にあるのだが、いつも一生懸命に世話しているのだから、もうちょっと仲良くしてくれてもいいのではないかと少年は思う。
 だが、些細な願いは所詮畜生である彼らには届かないようだった。それどころか、鶏の奥にいた牛たちまでも喚き出し、少年は仕方なくちょっともの悲しそうにその場から離れた。
 若干、気分が沈んでいた少年だったが、自分の名を呼ぶ声にその顔が一気に明るくなる。
どうやら食事の時間らしい。少年は一目散に声がした方に駆け寄った。
 食欲を刺激する香ばしい匂いと美味しそうな音。焚き火の上にフライパンをかざし、大雑把にブロック状に切った牛肉を焼く数名の男女。その周りにはさらに多くの人間が集まっている。彼らは皆大人で、子供は少年一人しかいないようだった。
 ある一人が少年の存在に気づき、頭を優しく撫でる。そして、丁度いい焼き加減になった肉を皿に乗せ、渡してやった。少年は「ありがと」と嬉しそうな笑顔で礼を言うと、さっそく肉にかぶりつく。だが、あまりにがっつきすぎたせいで喉に詰まり、ぐぅっと唸りながら胸元をドンドンと拳で叩いた。傍にいた女性が水を差し出し、背中を優しく摩ってやる。
 少年は勢いよく水を飲み干し、ようやくほっと一息ついた。その様子を見ていた大人たちから、「慌てて食わなくても誰も取らないから安心しろ」とどっと笑い声が漏れる。

 とても小さくて、けれど穏やかで暖かい空間。それが少年の知る世界の全てだった。

 少年は信じていた。ずっとみんなと一緒で、ここはいつまでも変わることなく存在するのだろうと。
 少年は知らなかった。永遠なんて存在しないことを。そして、思い知る。そんなものは幻想に過ぎないのだと。
 終わりは無慈悲に何の前触れもなく、突然やってきた。



 低い、何かが爆発したような小さな音と微かな振動がしたかと思った次の瞬間、揺さぶれているような強い揺れが少年たちを襲う。
 パラパラと上から土が落ちてくるのに気づいた――直後にそれは起こった。
 天井が崩れ去り、大量の土砂が何もかもを飲み込んでいく。湖や遺跡、動物、少年を含めた人間、全てを。
 こうして、闇と無音が世界を支配した。
 絶望に包まれていく中、それでも足掻こうとする存在が一人。抗うにはあまりにも頼りなくちっぽけな身体。だが負けじと、少年は己を押し潰そうとする土砂を手でかき分ける。
 口や鼻から土がいくら入り込もうとも、爪が割れて指先の皮膚がボロボロになろうとも、ひたすら少年は掘り進める。その先にある光と希望の存在を信じて。
 そして、ついに真っ黒に汚れた腕が土から突き出された。触れるものがない感覚に、少年はとうとう外へ出たのかと胸に希望の灯がともる。しかし、地中から這い出た途端に、その灯は無情にも吹き消されてしまった。
 漆黒の世界から抜け出した先はまた漆黒。少年以外は何一つない虚無の空間だった。地下が崩れた際に僅かばかりに出来た隙間に過ぎなかったのだが、そんな事知る由もない少年はただただ途方に暮れる。
 必死で土を掘っていた時には感じなかった孤独が急に少年を襲い、堪らずに彼は仲間の名前を叫んだ。
 全員の名を何度も何度も、腹の底から張り裂けそうな大声で。やがて喉が傷つき、声が枯れて出なくなっても、少年は仲間を呼び続ける。しかし、返ってきたのは沈黙だけ。
 それから、どれだけの時が経ったか。少年はようやく悟る。もう、あの日々は永遠に帰ってこない。
 少年の眼から、堰を切ったように次から次へと涙が溢れ出す。泣いて、泣いて、ただ泣いて。
 戻れないのなら進むしかないと気づくのは、もうしばらくした後の事だった。







 静かな宿のベッドの上。アーロンは弾かれたように飛び起きた。荒い息を吐きながら、額の汗を手のひらで拭う。心臓は不安と呼応するように、速く大きく鼓動していた。
(ヤな夢見た……)
 気分を落ち着かせるかのように窓を見れば、日は沈みかけていた。窓から差し込む光が、部屋を茜色に染め上げている。その色にひどく安堵した。
 ここはあの暗闇の中ではない。自分を閉じ込めた土の壁も存在しない。自分は一人ぼっちじゃない……と、隣のベッドに視線を移したところで「あーっ」と声を上げた。
 居るべきはずの男の姿が影も形も見当たらない。なぜか。一つの推測が頭に浮かぶ。アーロンは不機嫌そうに頬を膨らませた。
「ユーキの奴、逃げたな!」
 横暴な主人に耐えかねた下僕が逃亡を企てたことは、今までにも何度かあった。ただ、それが成功したことがないのは、現状を見れば明らかだ。アーロンはどういう訳か、適当に探しても、絶対にユーキを見つけ出してしまうのだ。
 今回もすぐに探し出せるはずと、根拠のない確固たる自信が彼にはあった。
 即座にアーロンは窓から外へと飛び出す。屋根から屋根へ飛び移り、空を飛ぶ鳥のように、上からユーキの捜索を開始した。



 思っていたよりもずっと早く、アーロンは目的の人物を見つけることが出来た。だが、そこで目にしたユーキの姿はまったく予想しなかったもので、アーロンに強い衝撃を与えた。
 うつ伏せに倒れ、微動だにしないユーキ。いつも来ている薄黄色のベストは赤黒く変色しており、服を汚した緋色は彼の体の下から流れ出して辺りに水たまりを作っている。だが、それだけではない。すぐ近くには血で濡れたナイフを振り上げ、今にもユーキに止めをさそうとしている男の姿が。
「ユーキ!!!」
 頭上から聞こえた声に一旦動きを止め、不思議そうに男は顔を上に向けた。すると、黒と白の服を風で靡かせ、一人の男が上から降ってくるのが目に入る。このままでは衝突する。男は慌てて後ろに下がった。
 アーロンは男とユーキの間に着地し、ゆっくりと立ち上がった。そして、即座に後ろを振り返る。
 その顔は血の気が失せ、まったく生気が感じられない。いつもならこうやって己のピンチの時にアーロンが現れた時なら、即座に傍に飛んでくるはずなのに、今、彼は何の反応も示してはくれなかった。
「ユーキ……」
 アーロンがもう一度名を呼ぶ。その声は微かに震えていた。
 一方の男は突然のアーロンの登場に呆気にとられていたのだが、見覚えの顔であることに気づいた途端、目を爛々と輝かせた。
「何だよ、おい。今日は本当にツイてるなぁ。今度は一億の奴が現れやがった!」
 下品に口元を歪めた男のヒャハハッと甲高い笑い声が辺りに響く。まずはアーロンの方から片付けようと、持っていたナイフを構えた。
「お前がユーキを……」
 男の方を見もせず、依然として倒れているユーキに視線を固定したまま、アーロンはぼそりと呟く。
 普段の姿からは想像出来ない、一見するともの静かな落ち着いた雰囲気。もし、彼の下僕が普通の状態だったなら「どうしたんですか?」と訝しげることだろう。
 だが、その静寂はいつ噴火を起こしてもおかしくない火山のように危ういものだった。
 そんなアーロンの状態に気づくよしもない男は、目標めがけて突進する。
「テメェもくたばれ!」
相手の腹辺りを狙い、ナイフを突き立てようとしたのだが……。目で捉えることの出来ない驚異的なスピードで、アーロンが手で男のナイフを持った手を掴む。そのせいでナイフはピクリとも動かすことが出来なかった。
 そんなに力を入れている様子は微塵も見えないのに、手を引き離すどころか身動ぎ一つすらすることが出来ない。
「な、何なんだよ、テメエ……」
 細身の体躯からは想像できないほどの怪力に、男は狼狽したがすぐに気を取り直す。もう片方の腕でアーロンに殴りかかろうとした瞬間、それは起こった。
 バシャリという水音と共に赤い液体が宙を舞う。ほぼ同時にナイフが床へと落ちた。
「……あっ?」
 急に男の手首から先の感覚が消失する。アーロンの手から解放され、ナイフを握っていたはずの手を眼前に晒した。しかし、そこにはあるはずのモノがなかった。彼の先ほどまで存在していたはずの右手がない。
 その僅か一瞬の間、彼の脳が一連の出来事と光景を情報として言語化するより先に、恐ろしい程の激痛を、神経を通して腕に知覚させた。
「うあ゛ぁあああああああ!!」
 獣のような絶叫がその口から迸る。耐え切れずに膝をつき、身体をくの字に曲げ、痛みに悶絶する。胃からせり上がる吐き気を耐え、唸り声を上げることしか出来ない男。それをただアーロンは何も言わず、冷たく見下ろす。柔らかいトマトのように、男の手首から先を握りつぶした彼の手からは、ボタボタと血と肉塊が地面に落ち、地面に赤いシミを作っていた。
「あ、ぐぅ……」
 心身ともに負った強大なダメージによるショックからは、まだ立ち直れてはいなかったが、少しだけ周囲に気を配る余裕が生まれ、恐る恐る顔を上に向ける。
 そして、見てしまった、そのアメジストの目を。
 怒りや憎悪を通り越し、純粋な殺意だけを抽出して結晶化したような瞳。何か恐ろしいことが起こるのではないかと予感させる、暗い海の凪の静けさのような不気味さと不安と恐怖を与える、そんな感じの目だった。
 全身にぞくっとした寒気が駆け巡り、身体がカタカタと震え出す。そして、先ほどと立場が逆転していることを、男は知った。狩る者から狩られる者に。今の男はただ喰われるのを待つだけの哀れな獲物に過ぎない。知らず知らずのうちに、アーロンから距離を取ろうと後ずさる。
 だが、更なる事態が男を襲った。
 最初は何かがひび割れるような小さな音だった。その音は次第に大きくなり、異なる場所からいくつも聞こえ出す。音の発生源はどうやら地面のからのようだ。
 得体の知れない嫌な雰囲気がまとわり付く感触に、無意識に唾を飲み込み、ぎこちない動きで地面を窺った。
「!?」
 男は目の前の光景に驚愕し、目を疑う。アーロンがいた辺りを中心として、幾重もの地割れが出来ている。それに気づいた直後、ビシっと地面が鳴り、大きな裂け目がアーロンの傍から生き物のような動きで蛇行しながら、男のすぐ横にまで伸びていった。同じような裂け目がアーロンを起点として放射状に何本も出来ていく。それは地面だけでなく、先にあった家の壁まで引き裂いた。
 まるで内に秘められた、アーロンの激情が乗り移ったかのような現象。もうマトモに思考を働かせる事も出来なかった。己の前にいるのは恐ろしい化け物。それだけが、理解できた唯一のことだった。一刻も早く逃げなければ、ここから離れなければならない。そうでなければ……。
――殺される、殺される、殺される!!――
 痛みなど忘れ、男は悲鳴を上げる。歯をカチカチと鳴らしながら、何とか立ち上がる。そして、慌てふためきながら、その場から走り去っていった。


 男の姿が消え去ったところで、我を忘れていたアーロンも理性を取り戻す。急いで腰を落とし、倒れているユーキを抱き起こした。
「大丈夫か。しっかりしろっ」
 必死で呼びかけ、身体を揺さぶる。
「うっ……」
 かろうじて聞こえる程の小さな呻き声を上げたものの、ユーキはぐったりとしたまま、目を開ける様子はない。背に手を回すと、べしゃりという湿った音と感触。こわごわと手のひらを見ると、そこは真っ赤に染まっていた。それを見た瞬間、沸き起こる焦燥感と恐怖心。
「起きろよ、ユーキ!」
 アーロンが反射的に叫んだ。しかし、その声は届かない。
(どうしよう……どうすればいい)
 ぐるぐると混乱で頭の中がかき乱される。早く助けなければならないのに。どうすべきか考えが浮かばない。そんな自分に苛立つ。
(怪我したときはえっと……)
 万人なら悩むこともなく咄嗟に出てくる答えだが、普段傷一つ負わないアーロンはすぐに思い浮かばなかった。
 そういえば、ユーキはしょっちゅう怪我していたなとふと思い出す。その原因の大半がアーロンにあることはこの際置いといて、その後どうしていたか。確か、文句を散々たれつつ、病院に行って医者に治してもらっていた。人は大きな怪我をしたら、そうするのだとユーキは言っていた。
(そうだ、病院。医者のところへ連れて行かなかきゃ)
 急がなければ、一刻も早く医者の元へ行かなければユーキが危ない。なるだけ身体に負担を掛けないように、そっとユーキを抱き上げる。その身体は力なくだらりと手足を宙に投げ出し、こうしている間にも血液が体外に流れ出す。
「待ってろ、絶対に助けてやるからなっ!」
 励ますように声を掛け、アーロンは全速力で駆け出した。








 とある小さな診療所。本格的な治療よりも、近所の常連との世間話をしている場面の方が浮かぶ、そんな感じの場所だ。
 そんなイメージに違わず、診療所の主である医者は、今日も大したトラブルはなく、穏やかな時を過ごしていた。
 突然、玄関の扉が吹っ飛び、ナースたちの悲鳴が上がるまでは。
 何事かと、医者が診療室から慌てて飛び出す。無残にも壊された出入り口の方を見れば、水色の髪をした男が仁王立ちしていた。
「医者はどこだ!」
 鼓膜が破れそうなくらいの大声が、診療上内に木霊する。傍にいたナース二人はビクッと怯え、咄嗟に両耳を手で塞いだ。
「医者は私だが、こりゃ一体どういうことなんだね!?」
 困惑で目をぱちくりさせながら、男の方へ歩み寄る。と、そこで男が横抱きにしているもう一人の存在を発見し、またも医者はギョッとした。
「なら、早くこいつを治してくれっ。刺されたんだ!」
 そう言って、医者に見せつけるように腕を伸ばし、もう一人を突きつけた。言葉通り、もう一人の男の体からは血が滴り落ち、床に赤い斑点をあっちこっちに残している。顔は真っ青になっており、意識はないようだった。明らかに重症で、一刻も争う状況だ。
「いきなりそう言われても、見ての通りここはちっぽけな診療所なんだが……」
 大した設備も人員もない所で、こんな危機的な状態下である患者を運び込まれてもと、医者が尻込みしてしまうのも無理なかった。
「早く! このままじゃユーキが死ぬ!!」
 だが、男はそんな事知ったことではないと、切羽詰まったように医者に迫る。確かに一刻も早い処置をしないと、この患者は助からない。医者としての使命感に似た思いが湧き上がり、彼は決断した。
「分かったっ。できる限りのことはしよう。彼をこっちに運んでくれ」
 医者は男を誘導しつつ、ナースたちに迅速に指示を出す。処置室に患者を運び入れると、台に乗せた。
「助かるよな?」
 懇願するように尋ねる声。医者は出来るだけ安心させるような微笑みを彼に向けた。
「安心したまえ。全力を尽くす」
 その言葉に、男――アーロンはこくりと頷いた。
 


 こうして医者は処置を開始したものの、想像以上に傷が深く、患者の具合は芳しくなかった。何よりも問題だったのはその出血量だ。ここに来るまでに相当量の血液が失われており、ショック状態に陥っている。子規模な施設では、輸血用の血液はほんの僅かしかない。そして、医者のもっとも恐れていた事態がナースの口から告げられた。
「先生、血液が足りません!」
「くそっ、ストックは!」
 医者がもう一人のナースに問う。
「さっきので、最後です!」
 絶望的な情報が彼に伝えられた。この局面をどう乗り切るのか。医者は必死で頭を働かせる。
 通りがかりの人間に献血を頼むという手もあったが、あいにくこの診療所は狭い裏通りにあり、通院する患者以外の人間は滅多に通りかからない。一応、ナースの一人を外に行かせ、協力してくれる人間を探しに行かせたが、はたして間に合うのか。
 どこか別の医療施設から血液を調達するにしても、一番近いところで40分以上はかかってしまう。
 だが、それまでこの患者の命は持ちそうになかった。
 八方塞がりな状況化でも、医者は諦めずにできる限りの治療を施す。しかし、やはり絶対的に血が足りない。見る見る内に容体は悪化していく。
 医者の焦りや深刻な雰囲気を、傍で固唾の飲んで見守っていたアーロンは敏感に感じ取り、居てもたってもいられず医者の傍へと向かった。
「何やってんだよっ。安心しろって言ったじゃないか」
 アーロンの非難に、その気持ちが嫌というほど分かる医者の顔に沈痛の色が浮かぶ。自分の不甲斐なさに対する憤りを、誰よりも医者自身が感じていた。
「分かっている。だが、血が足りないんだ。こればかりはどうにもならないっ」
 すまないと彼はアーロンに謝罪した。
 だが、アーロンは諦めなかった。諦めるわけがなかった。
「血が足りないなら、俺のを使えばいいだろ!!」
 アーロンの提案に、医者は一瞬だけぽかんとした表情を見せた。確かにその手はある。というか、完全に失念していた。多分、アーロン達の登場から一連の流れがあまりに破天荒すぎたために、医者の中に動揺が少しばかり残っていたせいだろう。しかし、その策に乗るには問題がいくつかあった。
「それはいいが……。君、自分の血液型は分かるかね?」
 医者の質問に、アーロンは頭に?マークを浮かべて小首を傾げる。
「血液型……? んなもん知るか!」
 豪快に言い切った様に、医者の肩がガクッと落ちた。
「それじゃあ、困る! それに君一人の献血量じゃ足りるかどうか分からないぞ」
「でも、血がないと駄目なんだろっ。早くしないとユーキが……!」
 焦れたように、アーロンが医者を急かす。彼の言うとおり、患者の命を救うには血液が必要だ。そして、残された時間は少ない。
「確か、この患者の血液型はAB型だったよな?」
 医者がナースに確認する。
「はい!」
 ならば、幸いにも理論上は大体の血液型の輸血は可能だ。しかし、あくまで理論上の話であって、違う型の血液を使う以上は拒絶反応の危険からは逃れない。だが、もう手段は残されていなかった。
「君、彼の献血を頼む!」
 指示を受けたナースはアーロンを引き連れ、椅子に座らせると献血の準備を開始する。アーロンの腕を台に乗せ、駆血帯を巻く。そして、採血箇所を消毒した後、針を挿入しようとしたのだが、そこで新たなトラブルが起こった。
「あ、あなたの体、一体どうなってるんですか!? 鋼鉄で出来てるの!?」
 ナースは信じられないといった声を上げ、アーロンを若干怯えた目つきで見た。針を入れようしたが、彼の皮膚はまるで鉄板のような硬さでまったく刺さらない。無理に力を入れた結果、何と注射針は曲がってしまった。再度挑戦してみたのだが、二本目の針も一本目と同じ運命を辿った。
 ありえない不可思議現象に、ナースはすっかりパニックに陥ってしまう。あたふたしているナースの姿に、先ほどまでじっとしていたものの、何としてもユーキを救いたいアーロンはとうとう切れた。
「ああ、もう。なら、おれがやる! どこに刺せばいいんだ?」
 苛立ったようにナースから注射器を奪い、アーロンが聞く。
「え? ああ、ここよ」
 ナースの指し示した場所に、アーロンはゆっくりと針を刺す。すると、今度はするりと針が皮膚を通り、血管の中に入った。
「ど、どうして……?」
 自分がやった時には頑として針は通らなかったのにと、不可解さにナースはポカンとした顔を見せた。
「おい、これでいいんだろっ」
 動かないナースに対し、アーロンがせっつく。
「は、はい」
 アーロンに促され、自分のやるべき事を思い出したナースは急いで献血を開始した。
 採取された血液は即座にユーキへと輸血される。可能な限りの量の血液をアーロンから供給したお陰で、最悪の事態は一体は避けられた。しかし、まだ危機が去った訳ではない。
 処置を終え、ひとまずユーキは病室へと運ばれた。



「ユーキは大丈夫なのか? 絶対に目を覚ますよな?」
 心配そうにアーロンが医者に尋ねる。大量の血液をユーキに与えたため、さすがの彼も顔色がやや悪い。手には回復のためにナースから渡されたジュースのカップが握られていた。
「やれることはやった。後は彼の生命力にかけるしかない」
 その言葉は依然として、ユーキが厳しい状態にあることを暗に指していた。重苦しい雰囲気を敏感に察し、アーロンの瞳が不安定に揺らぐ。そんな彼に、医者は優しく微笑みかけた。
「君も休んだほうがいい。あれだけの血を抜き取ったのだからね。ジュースをお代わりするかい?」
 医者の気遣いにアーロンは首を横に振り、こう告げた。
「ユーキの所に行きたい」






 殺風景だが、医療施設らしく清潔な室内。まっ白なシーツが敷かれた簡易ベッドの上に、ユーキは寝かされていた。ベッドの傍には椅子に座り、ずっと彼の様子を見守っているアーロンの姿。何を言うでもするでもなく、ただユーキが目を覚ますのをひたすら待っていた。
 だが、一向に意識を取り戻す様子はない。点滴の液が落ちる音すら聞こえてきそうな静寂の中、時だけがいたずらに過ぎていく。すっかり空は暗くなってしまった。電灯の明かりの下、アーロンの心の中は次第に影が覆っていく。
「ユーキ」
 陰鬱な気分を紛らわそうと、少しばかりの期待を込めて呼びかけた。しかし、待ち望んでいる声は返ってくることはない。
 固く瞼を閉ざしたその顔は血の気が失せ、まるで死人のように蒼白だ。嫌な色だと感じた。同じ色をアーロンはかつて見たことがあったのだ。まだ、地下があったころ、仲間の一人が病気で亡くなった。その遺体の顔と今のユーキが重なる。不吉なビジョンを振り笑うかのように、頭を振った。
「早く起きろよぉ……」
 ぐっとシーツを握り締め、俯くアーロン。普段の無邪気な姿は微塵もない、あまりにも弱弱しい声だった。
 怖いと思った。まるでこの世にたった一人しかいない、そんな錯覚を覚える。大丈夫と口に出さず、己に言い聞かせた。一人なわけないじゃないか、だってユーキはここにいる。絶対に、もうすぐしたら目を覚ますはずだから、そうしたら目玉焼きを作らせるんだ。
 襲い来る心細さに負けないように、気持ちを奮い立たせる。少しでも暗い想像を頭にチラつかせてしまったら、瞬く間に絶望にその身を引きずり込まれてしまいそうになってしまう。大勢の人間を相手にしても、大砲にその身を打ち抜かれようとも、まったくへっちゃらなのに。今、この場にいる青年はあまりにも無力だった。
 主人は下僕を守ってやるものだ。仲間からそう教わったのに、今の自分は何もしてやれない。その事に歯がゆさを感じながら、何か飲み物でも飲んで気を持ち直そうとしたその時だった。
 バチンッと音を立て、部屋の照明が消える。
「え!?」
 辺りが闇に包まれ、突然の出来事にアーロンは激しく動揺する。椅子が倒れる大きな物音が響いた。
 電気が消えたと言えども、外には月という自然の照明があるはずだ。ところが室内は自分の手すら見えないほど異常に暗かった。窓から薄ぼんやりとした明かりすら入ってこない。まるでこの部屋だけ、光という存在が消え失せてしまっているようだった。
(嫌だ、暗いのは嫌だ。怖い!)
 心臓が煩いほどに鳴り響く。脳裏に地下に閉じ込められていた時の記憶が鮮明に蘇った。泣き叫んでも助けを求めても、誰もいない真っ暗な世界。あの時の悲しさや寂しさ、一人ぼっちの恐怖などが暗闇と共にフラッシュバックし、アーロンはパニックに陥りかけていた。
(早く、早く電気をつけないと……! スイッチどこだよ)
 何も視えない中、とにかく早く明かりを取り戻そうと、電灯のスイッチを探し始める。
 すると、突然アーロンの髪がふわっと浮き上がった。窓もドアも締め切っている。風が入りこむはずないのに。薄気味悪い不吉な予感が身体に走り、ゆっくりと後ろを振り向く。そして、アーロンの顔が驚愕で歪んだ。
「お前……!」
 閉じられた室内にはアーロンとユーキ、間違いなくこの二人しかいなかった。第三者が侵入してきた気配は微塵もなかったはず。それなのに何の前触れも見せず、それはアーロンの目の前に立っていた。
 視界を奪う暗闇の中で、何故か突拍子もなく現れた侵入者の姿だけは、はっきりと目に映る。
 漆黒の床につくほどの長さがあるマントとフードを被ったシルエット。顔や身体の大部分は闇と同化していて見ることが出来ない。ただ、そのニンマリと笑っている口元だけはしっかりと目に捉えることができた。
「よう、久しぶりだな」
 謎の侵入者はアーロンに向かって話しかける。低い声からして、男性のようだった。
 どうも、その口ぶりからしてアーロンとは何らかの面識があるらしい。
「元気にしてるみたいで、安心したぜ」
 久しぶりに会う知り合いを懐かしむような口調だったが、どこか芝居がかったものを感じさせる。そんな謎の男に、アーロンは眉を吊り上げ、警戒心を露わにした。
「こそこそとおれを見張ってたくせに、わざとらしいんだよっ」
 外に出た時から、時折アーロンは何者かの鋭い睨めつけられるような視線を感じることがあり、その度に監視されているような嫌な感覚を覚えていた。それが誰の者なのか、アーロンは本能的に察していた。
「あ、バレてた? おっかしいなぁ。上手く隠れてつもりだったのに」
 フードの男からククッと笑い声が漏れる。あまりにもわざとらしい、茶化した物言い。わざわざ相手を不快にさせる態度を取るさまに、アーロンの顔が嫌悪感に満ちる。
「なに企んでるんだよ」
「酷い言われようだな。お前らがあの地下で生きてこれたのはおれのおかげだっていうのに、忘れたのかよ。それなのに、そんな邪険にされると悲しいもんだ」
 そう言っているわりに、男の口調はどこか楽しげだった。それがアーロンをますますイラつかせる。確かにこの男が述べた通り、地下に通常ならありえない光の球体や湖を作ったり、密閉された空間でも酸欠にならずに済んだのは、彼の力によるものだった。そして、家畜となる動物たちや調理器具など、生活に必要不可欠なものを地下へ度々供給してきたのもそうだった。
 そのお陰で、自分は今この時を過ごせている。それは理解していた。けれど、アーロンはどうしてもこの男を好きになれなかった。
「これでもお前を心配してるってのによ。何だかんだでお前が物心つくころから見守ってきたんだ。気にもなるってもんさ」
 平然と憎らしい台詞をのたまう男に、アーロンはかっとなり、強く拳を握り締めた。
「一番来て欲しい時には来なかったくせに!」
 色々な感情をかき混ぜたような叫びが、痛みを伴って吐き出される。その瞳は裏切られ、傷ついて泣いている子供と同じような色をしていた。
 仲間を全て失ったあの時。泣き叫ぶ少年はずっと待ち望んでいた。今、目の前にいる男が現れてくれることを。姿が見えなくてもいい、声だけでも聞こえることがあったのなら、どれだけ救われたことだろう。男の存在は最後の希望だった。それなのに、結局一度たりとも、この男がアーロンの前に現れることはなかった。
 その事がどれだけ心を切り刻み、痛めつけたか。この男なら分からないはずないだろうに。
 アーロンの苦々しい鬱積した思いと共に示された男への強い拒絶。だが、それを見せつけられても、男はやれやれと世話の焼ける子供に接するかのように、肩を竦ませただけだった。
「おれもいろいろ忙しい身でね。お前ばっかり構っている訳にもいかないんだよ」
 ふっと男の姿は消える。それと、同時に再び何も見えなくなった。だが、それは一瞬のことで、今度はベッドの辺りがぼんやりと浮かび上がる。そのすぐ傍に立っている男が昏睡状態のユーキを見下ろしていた。その姿にアーロンの心は大きく揺れた。
「……助かるのか?」
 真剣な表情で、アーロンが問う。
「まあ、明日の朝日が昇る前には冷たくなってるだろうよ」
 無慈悲で残酷な事実を、時刻を聞かれたから答えた、そのくらいあっさりと無感情に男は告げた。ずっと、頑なに避けてきた現実を突きつけられ、打ちひしがれたアーロンの顔が悲痛にくしゃりと歪む。
「というか、本来ならとうの昔にくたばってるはずなんだが。お前がこいつに血をやらなきゃな」
「助けてやってくれ!」
 男の言葉を遮り、アーロンが叫ぶ。
「お前になら出来るだろっ」
 縋り付くように、男に切願する。ただただ、ユーキを救いたいという一心で。
 例え過去に裏切られていたとしても、この男に全てを賭けるしか、もう方法は残されていなかった。
 運命を握る男は、フードに隠れた目でじろりとアーロンを見やる。
「昔にも言ったと思うがな。死ねる奴は死ねる時に死んだ方が幸せってもんだぜ」
 ベッドの縁に座り、男はアーロンに向かって言う。そして、再びユーキに視線を戻した。
「それにこんな小悪党一匹助けたところで、何になる?」
 元々にやけていた唯一見える口元を、さらに大きく三日月型に歪め、男が問う。
「ユーキは俺の下僕で、そして……」
 一旦、そこで言葉を切ったアーロンは、男を真っ直ぐ見据えた。
「仲間なんだよ。もう、二度と失いたくないんだ」
 はっきりと口に出されたそれは、奥底に秘められた紛れもない本音だった。

 出口の見えない中、地上を目指して土をひたすら掘り続けていたアーロンには、何よりも望んでいるモノが二つあった。一つは光ある世界、もう一つは新たな仲間。最初の一つは地面から出てきた瞬間に手に入った。そして、残り一つもその後すぐに。それこそがユーキ・シラサギという人間だった。
 きっと、ユーキ本人はまったく知らないだろう。彼と会ったことで、アーロンが仲間を失って以来、久しぶりに笑うことが出来たということを。ユーキという存在が横にいると思えるからこそ、アーロンは安心して眠ることが出来るのだということを。
 だからこそ、守りたいと願うのだ。ユーキはアーロンの何よりも大事な仲間だから。

 フードの男はふぅとやや呆れたようなため息を一つついた。
「こいつは一つ貸しにしておくぜ、坊や」
 ユーキの頭の上に手を翳す。すると、瞬く間にユーキの体が、柔らかい幻想的な色をした光に包まれた。






 ここはどこだろう? 歩いても歩いても、果てのない無限の闇の中を歩く一人の男。進んでいるのかさえ分からない。己自身の存在すら黒で覆い尽くされ、消えてしまいそうだった。もう、いっそ歩くのをやめてしまおうか。そうすれば、楽になれるかも知れない。男がそう考え始めた時だ。
 どこかから聞こえる誰かの声。それは次第に大きくなっていく。子供だと男は気づいた。小さな子供が泣いている。
 声の方へ男は足を進め、やがてその子の元へとたどり着いた。子供の顔は暗くて見ることが出来ない。今だ、泣き止む様子はなく、だんだんと男はその泣き声を耳障りに感じ始めた。
 泣くなと男が子供に向かって怒鳴る。煩いんだよ、黙ってろと。
 その時だ。子供が手を伸ばし、男の服を掴む。突然のことに男は少々驚き、目を丸くする。子供は予想以上に強い力で、男の服を引っ張った。まるで、男が遠くに行ってしまうのを防ぐかのように。
 離せとその小さな手を払おうとしたが、ふと気づいた。子供がいつの間にか泣き止んでいる。もし、男が子供の手を引き離そうとしたら、また泣き出しそうだ。
 それは嫌だなと思った。ならば、しょうがない。何故だかは分からないが、もう少し、この子供と一緒に居てもいてやってもいい、そんな気分だった
「人の運命ってのは、本当に誰にも予測つかないもんだ」
 遠くで別の誰かの声が聞こえたような気がした。







 ぼんやりとした視界に入ったのは白い天井。独特の消毒液の匂いに清潔なベッド。徐に起き上がったユーキは、一瞬自分がどこにいるのか分からなかったが、やがてここが病室だという事に気づく。
「あれ? おれ何で……」
 どうして、こんな場所にいるのだろうか。まだ、覚醒してない頭に、ムチを打って無理やり働かせる。すると、徐々に記憶が戻ってきた。
(そうだおれ、ナイフでぶっ刺されて……!)
 見知らぬ男に襲われて、路上に倒れ意識を失ったはずだった。慌てて、ユーキは服を捲り、刺された箇所を確認する。そこにはきちんとした治療を受けた跡が残されていた。
「助かったのか?」
 倒れている自分に男が止めを刺そうとしている場面で、記憶は途切れている。死を覚悟しただけに今生きていられることに心から安堵したが、その後どうなったのだろう。
 困惑と若干の不安の色を顔に浮かべ、手で頭を掻きながら、辺りを見回す。すると、ベッドの上に散らばっている、嫌というほど見慣れた空色の髪の頭が視界に入った。誰かが顔を突っ伏して寝ている。正体を問わずとも、ユーキには即座にその名が出た。
「アーロン……」
 己の主人の姿を前にして、ようやくユーキは大体の事情を察した。例によって、ギリギリのタイミングで現れ、暴漢をやっつけた後に自分をこの病院に運んだのだろう。
 そのお陰で助かった。それはいいのだが……。
「いつも、いつも、来るのが後一歩遅いんだよテメェはっ」
 お前がいたらあんな痛い目合わずに済んだのにと、腹いせに軽くアーロンの頭をはたく。
 今回に限って言えば、勝手にアーロンから離れて単独行動に出たのはユーキ自身の判断だったので、完全な言いかがりでしかない。むしろ、アーロンは命の恩人といっていい立場だ。しかし、主人の心など、下僕はまったく知ったこっちゃないのだった。
「う……う〜ん」
 先ほどの刺激でどうやら目を覚ましたらしく、アーロンがもぞもぞ動き出す。途端に、ヤバイと主人に無体を働いた下僕の肩がビクッと跳ねた。アーロンが顔をゆっくりと上げる。まだ眠気を残すアメジストの瞳と若干怯えているアイスグレーの瞳がかち合った。
「オ、オハヨウゴザイマス?」
 相手の出方を警戒しながら、ユーキが棒読み気味の挨拶を返した。その次の瞬間だった。
「ユーキ!」
 アーロンが身を乗り出し、勢いよくユーキを抱きしめた。思いも寄らない事態に、ユーキの顔が「はっ?」という表情のまま固まる。
「良かった。本当に死ななくて良かった。ずっと、起きるのを待ったんだぞ!」
 状況についていけず呆然としているユーキをよそに、アーロンは喜びを爆発させる。こうして、目の前で彼が生きているということを確認できるまでは、気が気ではなかった。張り詰めていた重苦しい緊張の糸が取れ、やっと心の安息を得たアーロンはユーキの強く抱きしめている腕にさらに力を込める。その体温を、鼓動を、命を感じられるように。
 だが、あまりにも力を入れすぎて、今度はユーキの背骨が悲鳴をあげ始めた。
「ィッ、痛ッテテテ!! 何かよく分かんねぇけど、このままじゃ今死ぬ! 離せってっ」
 せっかく死の淵から生還したのに、ここで死ぬなんてジョークにしても笑えなさすぎると、アーロンから逃れようとユーキは藻掻く。下僕が喚き暴れる様に、ようやくアーロンが腕の力を緩めた。すかさず、ユーキは主人の身体を引き離す。
「何なんですか、もう!」
 息を荒げ、乱れた服を直しながら、ブツクサとユーキは文句を垂れた。
「……お前がいなくなるかも知しれないって」
「え?」
 聞き逃しそうなくらい小さな、けれど強い想いが込められた声。ユーキは思わずアーロンを凝視する。
「本当にもうダメじゃないかって思ったんだ」
 顔を伏せ、シーツを両手で握り締める。その肩は微かに震えていた。一瞬、泣いているのではないかと錯覚してしまう。初めて見るアーロンの姿にユーキは戸惑い、ちょっと困ったように頬を指で掻いた。
(よく分けんねぇけど、もしかしておれ相当ヤバイ状態だったぽい?)

 





 アーロンとユーキはその日の内に診療所を出た。数日の入院は覚悟していたが、痛みは残るものの身体は動く状態だったのでこれなら問題ないという判断だった。というより、入院費が勿体無いというのが一番の理由だ。
 こうして、またいつもの二人旅が始めるはずだったのだが。
「アーロンさん……」
 ユーキが何かを訴えかけるように声をかける。
「何だよ?」
 しかし、アーロンに回りくどい言葉は通用しない。それは身にしみて分かっている。だから、ユーキもはっきりと口に出して主張した。
「そんなにぴったり横にくっつかなくても、おれ大丈夫ですから!」
 あれだけあっちこっちふらふらし、どれだけ口を酸っぱくして注意しても勝手に居なくなっていたくせに、今のアーロンはユーキから離れようとしない。確かに彼に守ってもらうためには、近くにいてもらわないと困る。だが、こうもべったりされても、鬱陶しくて仕方なかった
「だって、お前すぐ危ない目に合うじゃないか。おれが見張ってやらないと」
 しかし、アーロンは主人風を吹かせ、頑として譲歩を見せる気はないようだ。
 確かに死の一歩手前までいったが、ずっと意識がなかったユーキはイマイチその意識が薄い。あれだけの大怪我を負った割にすぐに回復したのも、アーロンほどの危機感を感じてない一因となっていた。ただ、この事については、ユーキを治療した医者が信じられないと驚愕していたが。
(大体、テメェいつも肝心な時にいやがらねぇくせに)
 渋い表情で、ユーキは人知れずため息をつく。

 主人と下僕の心はなかなか噛み合ってはくれなかった。