Heimat4-1

  壁に貼られた一枚の手配書。
 そこに描かれていたのは二人の男。1億と100万とかなり差がある懸賞金がそれぞれかけられていた。
 黒い影が手配書に近づき、賞金首の似顔絵を食い入るように見つめる。
「……やっと見つけた」
 くしゃりと紙が歪む。手配書を握り締めるその手は、何やら強い想いが宿っているかのように、戦慄いていた。




 乳母車の中、柔らかい毛布に包まれ優しい温もりを感じながら、赤ん坊はまん丸とした無垢な瞳で真っ青な空を見上げる。健康的な赤みを差したふっくらとした頬が特徴的なその幼子は機嫌良さような声で歌っていた。
 と、そこへ赤ん坊の顔に黒い影が落ち、青空と同じ色の髪が視界を遮る。途端にご機嫌だった顔がくしゃりと歪み、そして……。
「あらあら、どうしたの?」
 さっきまでご機嫌だった我が子の大きな泣き声に、母親が慌てて赤子を抱き上げた。
「ほら、大丈夫よ。ママがいるからね」
 穏やかな声であやしながら、その小さな背をそっと摩る。すると、赤ん坊は母の胸の中で安心したのか、徐々に泣き止んでいった。
 そんな微笑ましい母子の光景をじっと傍で見ていた紫の双眸。母親がその存在に気づき、視線を向けると、びくっとその両肩が跳ねた。
「お、おれ、何もしてないぞ。ただ、見てただけだっ」
 二十歳前後の、今の季節にしてはえらく薄着の青年がどことなく焦った風で、母親に言う。
 それなりの体格であるにも関わらず、その姿は悪いことをして見つかってしまい、しょげている子犬と重なって、母親はついおかしくて吹き出してしまった。
「きっと、お兄ちゃんにちょっとびっくりしちゃったのね。人見知りな子じゃないんだけど」
 青年を咎めるようなことはせず、母親は彼に向かって微笑む。
「大丈夫。もう坊やも機嫌直ったみたいだから、気にしないでね」
 母親は赤ん坊を抱っこしたまま、乳母車を片手で押しながら青年から離れていく。その様子を青年はむうっと頬を膨らませ、どことなく不機嫌そうに見つめていた。
 そこからちょっと離れた場所で、一連の流れを呆れたように傍観していた男が一人。青年の下僕であるユーキ・シラサギだった。
「いつも泣かれるんだから、近づかなきゃいいじゃないですかガキなんて」
 ユーキの言葉に、依然としてふくれっ面の主人アーロンが睨みを利かす。
「何でいつもこうなるんだよ。別に食おうとか思ってるわけじゃないのに!」
「向こうからしたら、食われそうに見えるのかもしれませんね」
 アーロンが八つ当たり気味に食ってかかるが、主人の子供のような癇癪には慣れているため、ユーキはそれを軽くあしらう。
 アーロンは動物とも相性が悪いのだが、子ども(特に年齢が低いほど)にも非常に相性が悪い人間だった。
 やましい気持ちなど微塵も持っていないのにも関わらず、近寄るだけで先ほどのように高確率で泣かれてしまう。奇跡的に泣かれなかったとしても、アーロンのことを怖がり、絶対に近づこうとはしなかった。
 それでも、アーロンの方は動物や子供と仲良くしたいらしく、いくら嫌われても懲りずにアプローチをしかけていくのだが、それが成功したことはユーキの知る限り一度もない。
 金にもならない存在にどうしてこう執着するのか、動物も子供も嫌いなユーキにとっては、まったく理解できなかった。
「ほら、もういいでしょ。買い出しに行きましょうよ、アーロンさん」
 ユーキが呼びかけたが、アーロンは何かをずっと眺めていて、一向に動こうとする気配がない。
「アーロンさんてばっ」
 焦れたユーキが大声で呼ぶ。そこでようやくアーロンが顔を向けた。
「なあ、ユーキ……」
「何です?」
「お前にも仲間っているよな。どんな奴だったんだ?」
「はぁ?」
 質問の意味が分からず、また頓珍漢なこと言い出しやがったと、ユーキは頭を掻く。だが、アーロンが先ほどまで見ていたものに気づき、ああと納得した。
 彼の視線の先にいたのはあの親子。すっかりご機嫌になった赤ん坊と我が子の髪を愛おしそうに撫でる母親の姿だった。
「家族のことですか? そりゃいましたけど、無駄に。なんせ、七人兄弟だったもんで」
「へー、ユーキの仲間も大勢いたのか。楽しそうだなっ」
 おれのところと一緒だなと、アーロンが無邪気に笑う。ところが、ユーキはアーロンとはまったく対照的な表情を見せた。
「いいえ、全然。金もねぇくせに馬鹿にみたいにガキ作ったせいで、常に貧乏でしたから」
 過去を思い出し苛立っているのか、ユーキはいつもより粗暴な口調でそう吐き捨てた。
「そうなのか? 仲間は多い方が楽しいっておれの仲間は言ってたぞ」
「何事にも例外ってもんはあるんですよ」
 テメェに何が分かると、ユーキが小馬鹿にしたように鼻で笑う。一方のアーロンは当てこすりにも気づかず、そういうものなのかと疑問符を浮かべていた。
「難しいことは分からないなー。一人より皆がいる方がいいのに。ユーキは仲間に会いたくないのか?」
 アーロンの問いにますます表情を曇らせ、ユーキは彼から背を向ける。そして、ポツリと呟いた。
「いえ、まったく。十六年前に家を出たきり、家には帰ってませんし、向こうもおれなんかと顔を合わせたくもないでしょう」
 どんな表情をしているのか伺い知ることはできない。しかし、これ以上この話題に触れるなという雰囲気はその背中からひしひしと感じた。
「さあ、くだらない話してないで、買い出し行きましょうよ。そろそろ腹減ったでしょ?」
 強引に話題を逸らすかのような言葉だったが、アーロンの腹の虫はそれに素直に答えた。彼の切り替えは光に負けないぐらい早い。興味の天秤が一気にユーキの家族から食べ物へと傾いたアーロンは「おう、分かった」返事し、ユーキの後について行った。





「凄いぞ、ユーキ! 見たこともないもんが一杯だっ」
 道の両端にずらっと並ぶ露店。商品を売り買いする多くの人々の活気づいた声があちらこちらから聞こえる。
 赤と青の縞々模様の星型をしたフルーツや木彫りで出来た恐ろしい形相の巨大な仮面など、見たことも聞いたこともないような食料や工芸品などが見る者を誘惑する数々の商品。巨大な市場の迫力にすっかり魅了されたアーロンは感嘆の声を上げた。
「今まで見た中じゃ、一番でかい市場ですから。そりゃ色んなモンも集まってますよ」
 子供のように騒ぐ様に、冷めた態度でユーキが言う。
「お、あっちに変なモノがある!」
 しかし、まったく聞く耳持たず、目に付いた不気味な人形に興味を惹かれたアーロンは、そちらへと走り出そうとする。それを阻止しようと、ユーキは慌てて彼の服を引っ張った。
「ストップ! 勝手に行動しないでくださいよっ。この人ごみの中ではぐれたら、探すの大変なんですから」
「おれはあっちに行きたいんだ!」
 制止を無視し、アーロンは服を掴まれたまま強引に進む。片手で車一台軽く持ち上げられるぐらい怪力の持ち主だ。ユーキがその歩みを止められるわけもなく。否応なしに引っ張られ、しまいには石につまずいて倒れ込んでしまった。しかし、尚もアーロンは止まらない。
「ちょっと待って! 本当に待てや、こらぁ!」
 ずるずると腹ばい状態で引き摺られ、ユーキがとうとうキレて叫んだ。そこでようやくアーロンの足が止まる。やっとのことで立ち上げることの出来たユーキは、心中でしこたま文句をたれながら、服の汚れを払った。
「と、とにかく先に食料を買いましょう。その後で好きなもんいくらでも見ていいですから。ね?」
 ひとまず、一番説得に効果がありそうな食べ物で釣る作戦に打って出てみる。それが功を奏したらしく、アーロンは渋々ながらもユーキの提案を承諾した。
 



 市場を周り、大量の食料品を買い込んだ二人。その荷物はすべて下僕が持ち運んでいた。両手一杯に抱え込んだ荷物は邪魔な上に視界も遮るし、とてつもなく重くて腕がだるくなってくる。
 馬鹿力はこういう時に発揮しろよ、ボケ!と主人に憤るが、口に出したところで無駄であろうことはユーキ本人が一番よく知っている。棚に並べられた艶やかな色のガラス細工を熱心に見ているアーロンに対し、恨みがましい視線を送ることぐらいしか出来なかった。
「綺麗だなー」
 ユーキのささやかな抗議など露知らず、アーロンはフラスコ型をしたガラスを手に取る。その透明の薄いガラスには優雅に泳ぐ小さな赤い魚が二匹描かれていた。
「お、兄ちゃん。お目が高いねー。そいつはビードロっていって、今は沈んじまった島国の人間が作ったもんなんだ」
 威勢のいい声を出し、店の商人がアーロンに向かって説明した。。
「ほれ、そこの細い管に息を出したり吸ったりてみな」
 言われた通りに、アーロンはビードロに息を吹きかけ、そして吸う。すると、ガラスの底がへこんだり、出っ張たりして、ポンピンと不思議な音を奏でる。
「おおっ。面白いなこれ!」
 キラキラと目を輝かせ、アーロンは夢中になって音を鳴らした。どうやら、よほどビードロが気に入ったらしい。
「ユーキ」
「買いませんよ」
 何かを訴えかけるよう熱い眼差しを向けるアーロンに、ユーキがすかさず釘を刺す。途端にアーロンが「えーっ」と不満げな声を上げた。
「何でだよ。いいじゃんか、別にっ」
「んなもん買ったって使い道ないでしょうが。それにすぐ壊すのが容易に想像つきますし、金の無駄です」
「ユーキのケチ!」
「倹約家と呼んでください。とにかく買いませんからね」
ごねるアーロンとそれを容赦なく切り捨てるユーキ。主人と下僕の攻防は十分ほど続いたが、アーロンが片手で店の商人を持ち上げ、ユーキに投げつけようとした時点で勝敗が決した。



 ビードロを片手に、アーロンは上機嫌で歩く。反面、隣にいるユーキは眉間に深い皺を寄せていた。
「言っときますけど、金っていうのはあるようですぐ無くなるもんなんですからね。無駄遣いはあんまりしないでくださいよ」
 ユーキの小言が飛ぶが、残念なことに言われている当人の耳にはまったく入っていないようで、先ほどからずっと熱心にビードロを鳴らして遊んでいた。ひっきりなしに聞こえるビードロの音が不興和音のように、ますます気分を不愉快にさせる。
 もう文句をいう気も失せてしまい、苛立ちの元である男の姿と音をシャットダウンするかのように、ただ前だけを見てひたすら歩く。
 しばらくして、本当に何の音も聞こえなくなった。まさかと思い、隣を見たがすでに手遅れだった。
「あんの野郎……!」
 そこにいるべきはずの男は影も形もありはしない。ユーキのこめかみに、今にも切れそうなくらい見事な青筋が浮かぶ。
「あいつの頭は鳥以下かっ。数十分前に言ったことも忘れやがって!!」
 一人喚き立てたところで、結局のところアーロンを探しに行かなければならなかった。何故なら、先日とてもありがたくないことに、彼の首に対し賞金がかけられたからためだ。
 ユーキにマフィアや金目当ての輩と対抗できる力などあるわけがない。身の安全のためにも、アーロンの力は必要不可欠である。
 愚痴を零しつつ、仕方なく市場を回りながらアーロンの探索を開始した。
 だが、なかなか見つからない。ただでさえ、重い荷物を抱えているのに無駄に歩き回わったせいで、額には汗が滲み始めていた。
 ただ、買い物に来ただけなのになぜこんなことにと、苦虫を噛み砕いたような顔をしながら、引き続き主人の姿を探し求める。
 その途中、ふとある人物の姿が目に留まった。
 
 細身の体躯で黒衣を纏った、少し長めの群青色の髪をした青年。青年は他の者とは違い、市場の商品には目もくれず、真っ直ぐこちらに向かってくる。薄緑の瞳は若葉を思わせる綺麗な色をしているのに、その目は暗く澱んだ光を灯していた。気のせいか、それはユーキに向けられているような……。曲がりなりにも裏世界で生きている人間の直感が働いたのだろうか。漠然とした不安で胸がざわつく。
「……?」
 青年はほんの数メートルの離れたところで足を止めた。ユーキも思わずそこで立ち止まる。恐ろしく厳粛した顔つきの青年からは何らかの強い意志と想いを感じられ、狩りをする猛禽類のような鋭い眼光がユーキを射抜く。まるでそこから動くのを許さないという空気に当てられ、ユーキの足は張り付いたように動かない。行き交う大勢の人々をよそに、奇妙な緊張感を持った雰囲気が二人の間を流れ……。
やがて、青年がゆっくりと唇を動かした。
「ユーキ・シラサギだな」
「え……?」
 告げられた己の名に、ユーキはポカンと口を開けた。青年は相手の返答を待たず、腰に差してある二本のレイピアのグリップを握る。
「……っ!」
 ユーキの心臓が警鐘を鳴らすかのように鼓動する。それはすぐそこに危機が迫っていると告げていた。
 青年が有無を言わさず剣を鞘から引き抜くのと同時に、反射的に身体を後ろへと逸らす。
 その凶刀を避けられたのはまさに奇跡だった。切っ先は持っていた紙袋を捉え、中身ごと無残に切り裂く。果物やパンなどの残骸が地面に落ちると同時に、周囲から甲高い悲鳴が上がった。
「なっ……な、なに?」
 突然の襲撃に混乱と恐怖で唇がこわばり、上手く言葉を紡ぐことすらできない。両足は傍から見ても分かるくらいに戦慄いていた。
 まさに紙一重のところで死神からのあの世への招待を退けたものの、ショックは未だ抜きっていないユーキは思考停止状態に陥ってしまう。
「ちっ……!」
標的を仕留められなかった青年は舌打ちすると、再びレイピアを構えた。その瞬間、ユーキは我に返る。
 このままでは死ぬ!
 考えるよりも先に身体が動いた。
「うわぁああああ!!」
 情けない叫び声を上げ、青年から背を向けると一目散にその場から逃走する。
「逃がすか!」
 即座に青年もその跡を追った。
 追われる身となったユーキは人ごみをかき分け、猛スピードで市場を疾走する。己に懸賞金をかけたゴルゾア・ファミリーの者か、それとも賞金稼ぎの類か。青年の正体は分からないが、はっきりしていることは一つ。追いつかれれば命はない。一心不乱に足を動かし、ただひたすら脇目も振らず、逃げて、逃げて、逃げた。
 途中、通行人と激しくぶつかり、相手はよろめいて尻餅をつく。後方から罵声が飛んだが、そんなものを気にかける余裕などユーキにあるはずなかった。
(本当にこんな時にこそあいつが必要なのにっ。あの大馬鹿野郎が〜!)
 己の身を守ってくれる力があるからこそ、アーロンの下僕をやっているというのに、なぜ今ここにいないのか。ユーキは役に立たない主人に向かってやつ当たる。
 だが、いない者は最早どうしようもない。ユーキが助かる道は、追跡者を振り切ることしか残されていなかった。
 建物の角を曲がり、またその次の角を曲がり、青年を巻こうと試みる。だが、青年はぴったりとユーキの後ろについてきており、両者の距離はなかなか開かなかった。
「いい加減に諦めろ!」
 一向に追いつけないことに業を煮やした青年は、右足を踏み込んでユーキに向かって飛びかかる。身体を捻り、首の辺りを狙って剣を薙いだ。
「ひっ……!」
 引きつった声を出し、ユーキは咄嗟に頭を下げる。切っ先が頭頂部を掠め、ハラハラと数本の薄茶色と黒が混じった髪が舞う。勢いよく振り下ろされた刃は、ユーキの傍にあったテントの木製の支柱を見事に一刀両断した。空中で一回転し、青年が地面へ着地したのとほぼ同時に支えを失ったテントは瞬く間に倒壊する。その光景を目の当たりにしたユーキは、恐怖のあまりごくりと唾を飲み込む。
「ちっ、外したか」
 またしても攻撃を外してしまった青年は、悔しそうに歯噛みした。殺意を込めた目で睨みつけられ、ユーキは大きく身体をびくつかせると慌てて逃げ出す。再び命をかけた追いかけっこが開始された。

「くそっ。しつけぇ!」
 諦めの悪い青年に、ユーキが悪態をつく。その呼吸は激しく乱れており、とても苦しそうだ。彼は瞬発力はあるが、体力の方が悲しいほどにない。次第にスピードが目に見えて落ち始める。
 逃げなければという気持ちにだんだんに足がついていかなくなっていく。
 そして無情にも、足元にある石につまずき、転んでしまった。
「痛ってぇ……」
 急いで立ち上がろうとするも、地面に映る黒い人型の影。それはだんだんと近づき、大きくなっていく。
 緊迫した空気が背中を突き刺し、ぞわりと這うような寒気が全身を駆け巡った。錆び付いたドアのようなぎこちない動きで、首を後ろに向ける。目に入ったのは鈍い光を放つ銀色の刀身。
「……っ!」
 即座に四つん這いの状態から身体を反転させる。眼前で仁王立ちしていたのはもちろんあの青年だった。今度こそ逃すまいと殺気立ち、容赦なくレイピアをユーキに突きつける。
「覚悟はいいな」
 氷よりも冷たい声で青年が死刑宣告を言い渡した。
(ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!!)
 絶体絶命の状況下、ユーキはこの局面を打開するための策を必死に捻り出す。今にも心臓を一突きにしようとしている青年に「待った」と大声で叫んだ。
「と、取引しよう!」
「はぁ?」
 突然の申し出に対し青年は片眉を吊り上げ、訝しむようにユーキを見下ろした。冷淡な視線に冷や汗を流しつつも、ここで怯むわけにはいかない。出来るだけ冷静になるように努めた。
「おれを今殺ったところで100万ぽっちにしかなんねぇぞ。けど、おれは1億の賞金がかかった男の居場所を知ってる」
 何とか自分に襲いかからんとする危機を逃れようと、早口で捲し立てる。
 アーロンへの興味を持たせ、自分を彼の元へ案内させる。これがユーキの考えた作戦だった。金狙いの者ならより高い懸賞金がかかった存在に心動かされるだろうし、ゴルゾア・ファミリーの者ならユーキよりもむしろボスの息子と支部をボコボコにしたアーロンの方を狙っているはずだと踏んだのだ。
「生かしてくれるのなら、その男のところまで連れてってやる。はした金手に入れるより、でかい大金狙えるぞ。なっ、どうだ?」
 曖昧な笑みを浮かべ、ユーキはへつらうように畳み掛ける。アーロンの今現在どこにいるかなどユーキ自身も知らないのだが、とにかく時間稼ぎができればいいのだ。案内する振りをしてアーロンを探し、彼に青年を倒させる。そういう算段だった。
 だが、ユーキの思惑と違い、青年は嫌悪感と軽蔑が入り混じったような表情を浮かべた。
「私は金にもその男にも興味はない」
 予想外の言葉に、ユーキは「え?」と目を丸くした。
「私の目的はユーキ・シラサギ……お前の命だけだっ」
 吐き捨てるように口にした言葉の端々から、青年の憎悪と怒りが滲む。そこでようやくユーキは自分が思い違いをしていることに気づいた。青年の台詞から察するに、どうやらゴルゾア・ファミリーでも賞金稼ぎでもないらしいが、事態は好転するどころか余計に悪化の一途を辿っているのを肌で感じ取り、ユーキは焦った。
「ちょ、ちょっと待て! おれが一体何したって言うんだ」
 分かりやすく狼狽えながら、ユーキが叫ぶ。恨みを買う覚えがあるかと問われれば、満場一致でYesという答えが出るぐらいには、ユーキにも自分がそれなりの悪事を働いてきた自覚はある。だが、命を狙われるほどの事はやらかしてないつもりだった。彼は何よりも自分の身が危険に晒されることを嫌う。まあ、多少調子に乗りすぎる嫌いはあっても、基本的に暴力沙汰になるような事は徹底的に避けてきたし、被害者がこれぐらいなら諦めるだろう程度の金にしか手は付けてこなかった。
 ひょっとすると、かつてアーロンと出会う切っ掛けになったあの組織の一員だろうか?
 確かにあの組織もユーキを追い、命を狙らっていた。だが、それは自分たちの金に手をつけた不届き者を始末しようとしていただけのことだ。
 しかし、目の前の青年は明らかにユーキ個人に対して、強い怨恨を持っている。どうにも違うような気がした。
 ユーキには青年が己に殺意を抱く心当たりがまったく浮かばなかった。
「まったく覚えてないのか。こっちは十年間片時も忘れたことはなかったというのに」
 青年は爪が白くなるほどグリップを握り締める。その身体からは赤黒い怒気が迸っていた。
「十年前、ある男がお前に騙され金を奪われたことで妻と共に追い込まれた。その男の名はジスラン・ジスカール。私は彼の子供ルイス・ジスカールだ!」
 青年――ルイス・ジスカールの悲痛な叫びが辺りに木霊した。
「ずっとお前を探していた、両親の仇を……。だけどなかなか見つからなかった。だが、先日やっと手がかりを発見したんだ。お前の顔が乗った手配書をなっ。そうしてついにお前を探し当てることが出来た」
 虚ろな瞳で、ルイスは切々と語る。まるで今まで味わってきた辛酸を舐めてきた思いを噛み締めるかのように。
「ジスカール……」
 ユーキは記憶のメモ帳から該当する名を探す。靄がかった曖昧なビジョンが頭を掠めたが、青年が今まさにレイピアで身体を貫かんとしている姿勢を取っている姿が目に入り、それどころではなくなった。
「これでようやく全てが終わる……!」
「ストッープ! 落ち着け、落ち着くんだ。暴力はよくない、まずは話し合おう!」
 今にも振り下ろされようとする断罪の刃から逃れるため、ユーキは何とか相手を説得しようと往生際悪く足掻く。
「煩い! お前の罪、死んで償え!!」
 だが、ユーキの懇願を無慈悲に切り捨て、ルイスが憎しみと殺意を込めた剣を振り下ろした。逃れられない惨劇の予感に、ユーキは両手を頭上にかざし目を瞑る。
 だが、思わぬ所から救世主はやってきた。いや、正確には飛んできた。
「なっ……!」
 目に飛び込んできた光景にルイスは驚愕した。不気味なメイクを施した顔がこちらの方へ一直線に向かってくる。このままでは激突してしまうが、ざっと2m程はあるあれを剣で切り裂くのは大きさ的に不可能だ。仕方なく、瞬時に右に避ける。それはユーキの頭とルイスの身体をスレスレで通り過ぎ、顔から地面に激突して粉々に砕け散った。
「な、何だったんだ。今のは……」
 後ろを振り返ると、石膏で出来た人形の残骸があちらこちらに散らばっていた。恐らく、市場の商品の一つだったのだろう。問題はこんな巨大な物がどうして物凄いスピードで飛んできたかということ。ルイスは再び前を向く。そして、ユーキの後方にいる人物の姿を捉えた。
「……?」
 ユーキの方も一向に襲いかかってこない剣と耳に入ってきた轟音を不思議に思い、恐る恐る目を開けた。無残な状態となった人形を見て、彼の方は瞬時に状況を察する。こんな事が出来る人物は一人しかいない。後ろを振り向けば、そこには待ち焦がれていた人物がいた。
「アーロンさん!」
 若干よろめきながらも、ユーキはアーロンの元へ駆け寄った。
「勝手にどっか行くなよ、ユーキ。むちゃくちゃ探したんだぞ。しかも、また変な奴に狙われてるし」
「いや、勝手にどっか行ったのはアーロンさんでしょ……」
 お前がいなかったから命懸けの鬼ごっこをする羽目になったんだと、文句を言ってやりたい気もしたが、取り敢えず助かったのでよしとすることにした。
「お前は……」
 突如現れた空色の髪の青年にルイスは警戒を強め、隙を見せないよういつでも攻撃できる体勢を取った。
 この男には見覚えがある。ユーキの手配書に同じ顔が載っていた。
 先ほどの出来事を思い返し、なるほどとルイスは納得した。常人には持ち上げることすら難しいだろう人形を、やすやすと投げつけるという人間離れした力を見せつけられれば、一億という破格の懸賞金をかけたくもなるというものだろう。
 だが、相手がどんなに強大な力を持っていようが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「……お前が何者かも、ユーキ・シラサギとどんな関係かも知らない」
 アーロンの動きに注意を怠らないようにしながら、その背に隠れているユーキをレイピアの切っ先で指し示す。
「私の狙いはその男だけだ。こっちに引き渡して貰おう。そうすれば無駄な争いをせずにすむ」
「なっ、ふざけたこと抜かしてんじゃねぇぞテメー!」
 ルイスの要求を当然のようにユーキが突っぱねた。最強のボディーカードが傍にいるためか先ほどの情けない姿とは一変し、強気の態度を取る様はまさに小悪党だ。絶対にアーロンの前に出ようとはせず、その手は彼の服をしっかりと掴んでいるのがその小物っぷりに拍車を掛けていた。
「アーロンさん。こんな奴いつものようにちゃちゃっとやつけちゃって下さい!」
 俄然調子づき、ユーキはアーロンをけしかける。虎の威を借る狐を体現している男に、ルイスからありったけの嫌悪感と軽蔑が込められた視線が飛ぶ。だが、そんなモノ今までの人生の中で嫌というほど味わってきたユーキが今更気にすることはなかった。
 意気揚々としているユーキとは裏腹に、アーロンの方はいつもとは違い、どうにも争うことに乗り気でないようだった。
「ユーキを渡す気はない。けど、おれも腹が減ってて戦いたくない。動くとますます腹減るし。だから、さっさとどっかに行ってくれ」
 その返答に、ルイスはギリっと強く奥歯を噛み締めた。
「どうしてそんな男を庇おうとする! 何の価値もないクズみたいな男だぞっ」
「うるせぇ! おれの価値を勝手にテメェが決めんなボケ!!」
 ルイスの非難にすかさずユーキの怒号が飛ぶ。そんな中、アーロンは事も無げに言い放った。
「ユーキはおれの下僕だ。主人には下僕を守らなきゃらない。昔、仲間がそう言ってた。だから、おれはユーキを守る」
 悠然とそう口にした男をじっと見据え、ルイスは決意を固めた。
「そうか……分かった。出来ることなら他人を巻き込みたくなかったが、そう言うのなら仕方あるまい。まずはお前から倒す!」
 身を低くし、アーロンに向かって突進する。そして、防御する隙すら与えず、レイピアを相手の心臓目掛けて突き立てた。
 しかし、その刃はアーロンの身体に食い込む前に、根元からポッキリと折れてしまった。
「そんな……!」
 細い木の棒のように真っ二つになったレイピアを目の当たりにして、ルイスは驚愕のあまり言葉を失う。
 アーロンへの注意が一瞬逸れ、気がついた時には標的の姿が視界から消えた。
 しまったと思った時にはもう遅かった。強い衝撃が体の中央に走る。アーロンの掌底がルイスの胸に食い込んだのだ。
「うわぁあああああ!」
 まるで巨大な大砲をぶつけられたように、その体は宙に投げ出され、背後にあった建物の壁に激突する。ルイスにとって幸運だったのは、真下に大量の干し草が積まれた荷馬車が止まっていたことだ。その上に落下したことで草がクッションとなり、地面へ激突することは避けられた。しかし、受けたダメージは当然のごとく甚大なものだった。全身がバラバラになりそうな痛みがルイスを襲う。ふらつきつつも何とか荷馬車から降りるが、正直立っているのがやっとの状態だった。
「まだ、やる気か?」
 ゆっくりとアーロンが近づいてくる。残ったもう一本のレイピアを握り直し、相手を迎え撃とうと構えるが。
「……っ!」
 胸部がズキリと強い痛みに訴え、身体がよろめく。幸いにも肋骨は折れていないようだが、とてもじゃないが戦える状態にはない。ルイス自身の身体が何よりも知っていた。
 痛む胸元を掴む手は、悔しさと歯がゆさで大きく震える。目の前にずっと追い求めていた男がいるというのに、手を下すことが出来ないなんて。しかし、ここでアーロンに倒されてしまっては、両親の復讐のために費やしてきた十年間が水泡に帰してしまう。
 ルイスは苦渋の決断を下した。
「私は絶対に諦めないからな……ユーキ・シラサギ!」
 反対側の壁際で傍観していたユーキを鋭い目で睨みつけるルイス。途端に名を呼ばれた男の身体が竦み上がった。
「いつか必ずお前を殺す。覚悟しておけ」
 そう宣言すると身体を引きずりながら、アーロンたちから離れていく。騒ぎを聞きつけ、いつの間にか集まってきた人だかりをかき分けて、ルイスは二人の前から姿を消した。
「……疲れた」
 ひとまず自分を脅かす危険は消え去り、ユーキはほっと一息つく。まるで大嵐に直撃しかのような一連の出来事に心身ともに疲弊し、ぐったりと壁に寄りかかった。
「大丈夫か?」
 そんなユーキをアーロンが珍しく気遣い、傍に寄る。
「何とか……」
「それにしてもあいつ何だったんだ。やっぱりゴルゾア・ファミリーの奴か?」
 アーロンがルイスの消えた方向を見ながら言う。ユーキもつられて、そちらの方に顔を向けた。
「……さあ、どうでしょうね」
 敢えてアーロンの言ったことを否定せず、言葉を濁す。何か思う事があるのか、その顔は神妙な表情を形作っていた。
「それより早いとこ、ここから離れましょう。人が集まってきてるし」
 自分たちを狙っている人物はルイス以外にもいる。人目を引くのは避けたいところだった。
 ユーキの言葉に、アーロンも素直に頷いた。
 その場を後にしようとする二人だったが、ふとアーロンが足を止めた。
 どこかから視線を感じる。誰かが自分たちを監視しているような……そんな感覚が彼を襲った。アーロンは野次馬の群れを隅から隅まで目を通すが、疑わしき人物は見当たらない。
「……?」
「アーロンさん、何やってるんですかっ。行きますよ」
 立ち止まったままのアーロンに、ユーキが声をかける。
「お、おう」
 呼びかけに応え、慌ててユーキの元へ駆け寄る。しかし、その胸には依然として不可解な違和感が残っていた。