Heimat3

「な、何だよこれ」
 港町でいつも通り「故郷」探しとしていたユーキは、壁に貼られていた二枚の張り紙に目が釘付けとなっていた。
 でかでかと書かれたWENTEDの文字。その下にはそれぞれ水色の髪の青年と茶髪の男の似顔絵と桁の大きな数字が添えられている。
「おっこれ、おれたちじゃないか?」
 似顔絵に瓜二つの青年――アーロンが興味津々で張り紙をじっと見つめた。
「え〜と、以下の者を……引き渡した者に以下の金…を払う?」
 アーロンは非常にたどたどしく紙に書かれた文字を読み始める。しかし、分からない単語があるのか、何度も言葉が途切れたり読み飛ばしたりしている。
 彼の言語能力はしゃべることに関しては何ら問題なかったのだが、読み書きがかなり不得手である。というよりか、ユーキと出会った当初はまったく出来なかった。
 アーロン曰く、地下ではそんなもん必要なかったということらしい。
 それでもユーキが片手間に必要最低限の教育を施した結果、アーロンの国語力も上達し、ある程度の文は読めるようになっていた。
「ユーキ、これ何て書いてあるんだ?」
 早々に自力での解読を諦め、ユーキに解答を求める。しかし、当の本人はアーロンを無視し、見事に自分そっくりに描かれた似顔絵との睨めっこに興じていた。
 そんなユーキの顔色はまるで死人のように血の気がなく真っ青だ。それもそうだろう。比喩ではなく死人になりそうな危機が彼に迫っていたんだから。
 張り紙の内容はこうだった。
『以下の者をゴルゾア・ファミリーに引渡した者に、以下の金額を報酬として支払う。なお、対象の生死は問わない』
 要は指名手配書である。ちなみに二人に掛けられた懸賞金はアーロンが一億、ユーキが100万だった。
「まじかよ〜……」
 賞金首となってしまったユーキは、事の重大さにへなへなと力なくその場に座り込んでしまう。
(ど、どーすんだ、これから……)
 ショックとこの先への不安で頭が一杯で、いまだ立ち上がることすら出来ない。だが、さらに理不尽な事態が彼に襲いかかった。
「ユーキ!」
「ぐえっ」
 一向に返答がないことに焦れたアーロンが、ユーキの背中を蹴飛ばす。さらに地面に倒れ込んだユーキの背を容赦なく踏みつけた。背中がめりめりと嫌な音を立てる。
「ィ、タタタ! 痛い痛いっですってぇ。背骨が折れるー!」
 このままでは今死にかねないと、ユーキが絶叫する。下僕の悲痛な訴えに、ようやくアーロンは踏みつけるのをやめた。


「つまり、ゴルゾアって奴がおれたちを捕まえるために、いろんなとこにこの紙貼ったってことか?」
「まあ、そういうことになりますね」
 ようやく立ち上がったユーキは服についた土埃を払いながら、アーロンに事の次第を説明した。
 しかし、いまいち理解しきれてないのか、アーロンは首を傾げた。
「何でそいつら、おれたちを捕まえたいんだよ?」
「忘れたんですか。アーロンさんがゴルゾア・ファミリーのボスの息子をボコボコにしたせいですよ」
 その言葉でようやく思い出したのか、アーロンは「ああ」とポンと手を叩く。
 先日、所持金が尽きたアーロンたちは、よりにもよって大型マフィアのボスの息子の自宅に乗り込んでいた。そして、ボスの息子を叩きのめした挙句に、そこにあった大金や金目のモノを奪うという、其の辺の命知らずの悪党ですら真っ青になるような事をやってのけたというわけだ。
 当然、そこまでコケにされたゴルゾア・ファミリーのボスが黙っているはずがなく。マフィアのメンツと息子の復讐のために、二人の首に賞金をかけたというわけだった。
「なるほど、仕返しのためにおれたちを探してるわけだな」
「ゴルゾア・ファミリーの連中だけじゃありませんよ。この額ならそこらの賞金稼ぎも動くでしょうし……」
 これであらゆる連中から追われる身となった訳だ。ユーキは陰鬱そうな表情浮かべ、重苦しいため息をつく。
 それとはまったく対照的にアーロンの方は涼しい顔を崩さず、余裕そのものだった。
「別に誰が来ようとやっつければいいだけだろ」
 さらっと言ってのけたアーロンに、ユーキは(そりゃ、テメエはそれでいいんだろうがよ)と心中で忌々しくつぶやいた。
「たまにはおれが普通のか弱い人間だって思い出して貰えると助かるんですけどねえ」
せめてもの憂さ晴らしに、ユーキはネチネチとした嫌味をぶつける。だが、そんな回りくどいことがアーロンに通じる訳がない。キョトンとした顔をした後、何を思ったのかユーキの両肩に手を置く。突拍子のない行動に、ユーキの肩がびくりと跳ねた。
「あ、アーロンさん?」
 また何が無茶をやらかそうとしているのではないかと、おそるおそるアーロンを見上げる。
すると、アメジストの瞳の青年は自信満ちあふれた笑みを浮かべた。
「心配するなユーキ。お前はおれが守ってやる」
「はぁ?」
 そう断言するアーロンの姿は実に堂々としており、とても頼もしく見える。ユーキは思わず呆気にとられ、あんぐりと口を開けた。
「下僕を守るのは主人の役目だからな!」
 太陽のようにきらきらと光輝くような笑顔を向けられ、ユーキは若干呆れたようにがしがしと頭を掻く。
 そりゃ己の身の安全のため、普段アーロンに扱き使われているのであるから、当然彼には守って貰わなければ困るのだが。
 だからといって、まるで女への口説き文句のようなセリフを己に吐かれたところで反応に困るわけであり。
「そりゃ、どうも……」
 棒読み気味の礼を述べ、やれやれとユーキは再びため息を吐いた。
「でも、あんまり目立つ行動は避けてくださいよ。出来るだけ面倒事は起こしたくない……」
「おっ、鳥がたくさんいる!」
ユーキの忠告そっちのけで、アーロンが港の方に顔を向ける。視線の先には数匹のカモメが群れていた。
 興味が完全に鳥の方へ移り、アーロンはカモメの元へ駆け寄っていく。しかし、カモメは当然のように人間の気配を敏感に感じ取り、あっという間に飛び去ってしまった。
「あ、待てこいつ!」
 諦めの悪いアーロンは上空のカモメを追いかける。
「あ、ちょっと、どこ行くんですかアーロンさん!」
 どんどんと離れていくアーロンに、焦ったユーキが慌てて呼び止めるが時すでに遅し。あっという間にその姿は見えなくなってしまった。
 今更追いかけたところで、もはや追いつけないだろう。
「クソっ。あんの馬鹿!」
 苛立ちに任せ、ユーキは地団駄を踏む。おれを守るって話はどうなったんだと一人憤るものの、居ない者はもうどうしようもない。
 それよりもボディガード的存在がいない現状では、いつどこから脅威が降りかかってくるか分からない状態に気を配らねばならなかった。
 ここでアーロンが来るのを待つという手もあるが、彼がここへ戻ってくる保証はないし、何よりあの手配書の近くにいるというのがどうにも心落ち着かない。
 何かとトラブルを起こし、無駄に目立つのがアーロンという男だ。やたら騒がしい所に行けば見つかるだろうと考え、ユーキは人目につかないようにしながらアーロンを探すことにした。



 ユーキが去った直後に、ゆらりと現れる一人の男。背と同じぐらいの細長い棍棒を手にし、赤と緑が基調となっている服をしたその人物は、指名手配書を凝視し、口角を釣り上げる。
「何か面白いことになってんなぁ、あいつ」
 楽しいことになりそうだと鼻歌混じりに、男はユーキが歩いて行った方向を見つめていた。




 注意を怠らないように慎重に進みながら、ユーキはアーロンを探す。
「たく、何でこんなことに……」
 厄介な事態に巻き込まれてしまった自分の境遇をユーキはひたすら嘆いていた。本当になぜこんな事態に陥ってしまったのだろう。
 元々はとある組織から命を狙われる身となったユーキを、アーロンが助けたことが始まりだった。彼らから逃れるため、アーロンの下僕になったというのに。
「だー、もうっ。もっとやばい連中に追われてどうすんだよ!」
 クソッと悪態をつきつつ、壁に拳を叩きつける。しかし、どうやら力加減を間違ったのらしい。右手に激痛が走り、呻きながら痛みを誤魔化そうと手を数度上下に振りつづけた。
「はぁ、何かついてねえ。一体どっからおれの人生の歯車狂い始めたんだろ……」
 ため息混じりに、ユーキは己の歩んできた人生を振り返り始めた。思い出の大半がろくでもないものだということはこの際無視し、今自分に襲いかかっている不幸の原因を探る。
 やはり真っ先に出てくるのは、組織の金に手を出してしまったことだ。それにより組織の標的になってしまったのだから。
 しかし、この件に関してはユーキにも言い分はあった。彼が金を奪ったのは紛れもない事実だ。だが、別に最初から盗もうと思ったわけではない。言うなれば、あれはついでだったのだ。
 ユーキは頭の中のアルバムからある一人の人物の写真を取り出す。それはすべての出来事の始まりとも言える存在であった。
「やっぱ、どう考えてもアレだな。あの野郎と組んだのが全てもの間違いだった!」
 一人勝手に憤慨し、怒鳴るユーキ。その声を耳に入れる者など誰もいないはずだったのだが。

「あの野郎とはどこの野郎様のことで?」

 後ろから聞こえる、嘲るような声。
「え!?」
 あるはずのない返事に、ユーキは弾かれたように後ろを振り向く。そして、驚愕に目を大きく見開いた。
 よそ風に柔らかく揺らぐマゼンタの髪。ユーキをまっすぐに見据える真紅の瞳。一見すると女性と見間違える中性的な顔立ちは先ほどユーキが頭の中のアルバムから引っ張り出してきた写真とまったく同一のものだった。
「テ、テメー……な、何でここに?」
 思いもよらなかった人物との再会に、動揺から声が震え裏返る。その問いに男はにっこりと微笑みかけ、ゆっくりとした動きでユーキに近づいた。
「さっきからずっと後ろに張り付いてたぜ。指名手配食らった割にゃ、注意力足りねぇんじゃねぇか? なあ、ユーキィ」
 愉快げに喉奥を鳴らす男に、ユーキは苦虫を噛み砕いたような顔を見せる。
「……何企んでやがる」
 相手の目的が掴めず、ユーキは警戒心と敵意を剥き出しにした。すると、即座に男はいかにも機嫌良さそうに、持っていた棍棒を片手でクルクルと回し始めた。
「おやおや、つれないなぁ。仮にも元相棒に対してその態度は冷たすぎるんじゃねぇ?」
 ユーキの反応を楽しむかのごとく、男はわざとらしい台詞を吐き、悲しげな顔を作る。ふざけた相手の態度に、ユーキの眉間に皺が寄った。
「誰が相棒だ! テメェとはちょっとの間、仕事で組んだだけだろうがっ。しかも最後におれにしたこと忘れたとは言わせねぇぞ、ルーファス!」
 ビシッと男を指差し、ユーキが男に向かって吠える。そんなユーキに対し、男はゆっくりと口端を釣り上げた。
 この男――ルーファスとは2年ほど前に知り合った。当時、まとまった金が必要だったユーキはそれなりに大きな仕事をやるための協力者を探しており、手を組んだのがルーファスだった。
 仕事は順調で二人で窃盗・詐欺・恐喝などを繰り返し、かなりの金を巻き上げることに成功した。
 ユーキが彼を選んだのは、細身な体格からは想像出来ないほど格闘技に精通しており、多少危険な敵でも対処出来るのが実に都合が良かったからだ。加えて、中性的で幼い顔立ちのため、相手を欺きやすいという利点もルーファスは持っていた。
 そんなわけで最初の内は上手くいっていたのだが、次第に雲行きが怪しくなり始めた。ユーキは知らなかったのだ。ルーファスの隠された恐ろしい本性を。
「何言ってんだ。あれは元々お前が悪いんだぜ、ユーキ」
 じりじりとユーキとの距離を詰めるルーファス。その眼光はまるで獲物を狙う猛獣のように鋭く、身体全体から重苦しい威圧感を持った殺気が滲み出ていた。
 辺りが一気に刺すような緊張感に包まれる。背筋から氷を入れられたようなソクっとした寒気を感じ、ユーキは無意識に後ろに下がった。だが、無情にも壁にぶつかってしまう。
「まぁでも、昔の事をくだくだ言ってもしゃーねぇしな。ここはお互い水に流して、飲みに行こうぜ。もちろんお前のおごりでな」
 ルーファスはそう言いながら、人好きのする笑顔を見せた。すると、途端にユーキが「あぁ?」と不機嫌そのものの声を上げる。
「何でおれが奢らにゃならねぇんだ! ふざけんなっ」
 即座にルーファスの誘いを蹴る。先程まで怯え気味だったにも関わらず、金関係にすぐ反応見せたあたり、彼は根っからの小悪党であった。
 予想通り過ぎるユーキの返答に、ルーファスはすっと目を細め棍棒を構える。次の瞬間、ユーキは顔の左側面に風を感じた。
 ぱらぱらと壁の一部が地面へと落ちる。嫌な予感に冷や汗を流しながら、ぎこちない動きですぐ横に視線を移した。
 視界に入ったのは壁に突き刺さった棍棒。そして、邪が入り混じった笑み。
「奢ってくれるよな?」
 再度、ルーファスが問う。まるで子供に言い聞かせるような物言いは、次はないという脅しでもある。
 テメェ、この野郎!と心中で罵りつつも、ユーキに頷く以外の選択肢は残されていなかった。





 騒がしい酒場の中、カウンター席に座る二人の男。
「いや、またこうしてお前と飲むなんて思わなかったなぁ」
 ご機嫌そのものといった感じで、ルーファスはブランデーをあおる。
「……くたばれ」
 対照的にユーキはビールを口にしながら、不愉快そうに顔を歪め、小さな声で吐き捨てた。そんな彼を気にも止めず、ルーファスは店のマスターに再度同じ酒を注文した。
「高い酒ばっか注文すんじゃねぇよ。人の金と思いやがって」
 苦々しい思いを抱え非難してくるユーキに対し、ルーファスはどこ吹く風といった具合で受け流す。
「ケチケチすんな。金はまだたっぷりあるんだろ? 噂はいろいろ聞いてるぜ」
 グラスを手に持ち、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる。そんなルーファスにユーキはふてくされたように顔を背け、頬杖をついた。
「小物しか狙わないお前が、まさかゴルゾア・ファミリーに手を出すなんてなあ。いやー、驚いた驚いた」
「……出したくて出したわけじゃねぇつーの」
 顰めっ面でそうユーキが口にするのを聞いて、ルーファスの唇が弧を描く。
「ああ、奴らのとこに乗り込んだのはお前のご主人様だっけか。今、生きてられんのもそいつのおかげだもんな?」
 ルビーの瞳に暗い光が宿ったのを見て、ユーキはようやくこの男が自分に近づいてきた理由を察した。
「で、どのくらい強いんだそいつ?」
 椅子を後ろへ傾けながら、興味深げにルーファスが尋ねる。どう答えるべきかユーキが迷っていると、店に屈強な体格の男二人が入ってきた。男たちはルーファスとユーキの側を通る。その時だった。
 ルーファスの腕に男たちの一人の体が接触し、手に持っていたブランデーが男のズボンを濡らす。シミになった己のズボンに目をやった後、男はルーファスを威嚇するように睨めつけた。
「おいおい、どうしてくれんだよ。高かったんだぜこれ」
 男たちは身を屈め、上から見下ろしようにしてルーファスに因縁をつける。だが、当の本人は「グラス空になっちまったから、新しいの頼む」と再度酒を注文していた。華麗に無視された男たちの一人が「おい、聞いてんのかテメエ」と、ルーファスの肩を掴む。
 不穏な空気を敏感に感じ取ったユーキは音もなく立ち上がり、密かに彼らから距離を取っていた。
 かなり強く掴まれているにも関わらず、ルーファスは顔色一つ変えず、平然とグラスに口をつける。
 完全に馬鹿にされた格好となった男の頭に大量の血液が流れ込み、その顔が真っ赤にそまった。
「いい度胸してるじゃねえか、このチビ!!」
 男の怒号が店内に響き渡る。すると、ようやくルーファスがゆらりと顔だけ後ろに向けた。
 それと同時にユーキの耳は確かにガラスがひび割れたような音を聞いていた。
(あ〜あ、地雷踏みやがった……)
 自称170cmのルーファスにその言葉は禁句だと、手で顔を覆いため息をつく。一方のルーファスは己の肩を掴んでいる方の男の手首をぐっと握った。
 骨を砕かんばかりの予想以上の力で締め付けられ、男は堪らずルーファスから手を離す。
ルーファスは男の手首を掴んだまま、やおら立ち上がるとふっと笑う。そして、くるりと素早く体を反転させ、男の腕を取るとその巨体を投げ飛ばした。ルーファスの動きについていけなかった男はなすすべもなく宙を舞い、けたたましい音を立ててテーブル席と上に乗っていた皿やガラス瓶とともに倒れ込む。
 店内が一気に騒然となる。地面に倒れこみ動けない仲間を見て、もう一人の男はしばし呆然としていたが、やがて怒りの形相を浮かべ、ルーファスに殴りかかってきた。
「この野郎!」
 男の拳はルーファスを捉えることなく空振りする。と、下から何やら素早く動く黒い影が見えた途端、体が上へと跳ね上がった。
 棍棒が男の顎を捉える。骨が砕けた音と共にカウンター内に男が飛び込み、奥になった酒棚へと激突した。
 割れ瓶から漏れた酒が血液と共に棚を伝い、床をしとどに濡らす。その光景をルーファスは何ら感情を伴わない冷めた目で一瞥し、興味をなくしたように今度は自分の足元に視線を向けた。
「あーあ、もったいねぇなあ……」
落ちていた割れた酒瓶を拾い上げると、断面の指先でなぞる。鋭く尖った凶器となったそこがルーファスの指先を切り、血が滲み出た。
 瓶を持ったまま、先ほどテーブルの上に落ちた男の方へと歩み寄る。男は未だうつ伏せに倒れ込んだままだ。
 蹴りを入れて男の体をひっくり返す。すると、男が微かに呻いた。腰を屈めた後、男の髪を鷲掴みにして、無理やり上体を起こさせる。そして、薄ら笑いを浮かべ、ガラス瓶を振り上げた。もちろん、尖った方を男の顔に向けて。
 何をする気かすぐに察したユーキはとっさに目を瞑る。ぐしゃりという嫌な音と周囲の悲鳴が鼓膜に届いたのは、そのすぐ後のことだった。
 ルーファスが男の髪から手を離す。力なく再び倒れ込んだそれには目もくれずに立ち上がり、飛んだ返り血で汚れた顔を後ろへ向けた。
「さて、ゴミも片付けたことだし、どっか別んとこで飲みなおそうぜ」
 さっきとは打って変わり、人懐こい笑顔を浮かべるルーファス。しかし、返ってくるはずの返答は一切なく。
「……って、あれ? ユーキ?」
 ルーファス曰く「元相棒」の姿は影も形もなかった。




「たくっ、相変わらずむちゃくちゃしやがる野郎だ!」
 ルーファスから離れようと、一人愚痴をこぼしながら、ユーキはただひたすらに走り続ける。
 あの恐ろしいほどの凶暴性が、ルーファスとのコンビを解消するに至った一番の原因だった。出会った当初はルーファスもまだ猫を被っていたために気づかなかったのだが、時が経つに連れてその裏の顔をさらけ出し始めた。
 あの男は相手が誰であろうが、散々心身共に甚振って苦痛に満ちた顔を見ることを何より好み、加えて己さえ楽しければどんな危ない橋も渡ることを躊躇しないタイプの人間だった。
 そのため、最終的には必要ない暴力沙汰をしょっちゅう起こし、了承なしにあまりにも危険なターゲットを狙うなど、完全にユーキの手に余る事態に陥ってしまっていた。
 そうなるとリスクと身の安全を何より重視するユーキにしてみれば、ルーファスの存在は最早脅威でしかない。
 そこで手遅れになる前に先手を打つことにした。
 ちょうどその頃、標的にしていた組織に情報を漏らし、敵陣真っ只中にルーファスを突っ込ませたのだ。
 彼らが交戦して警備が手薄になっている内に、ちゃっかりと組織の金も少々頂く。それで全てが上手くいったハズだった。
 ところがここでユーキにとって最大の誤算が起こってしまう。あの大人数相手ではさすがに死ぬと思っていたルーファスが生き残ってしまったのだ。
 ユーキは彼の力をあまりにも過小評価しすぎていた。
 後に待っていたのは、当然ルーファスによる報復だった。いや、あれは報復とか生優しいものではなく拷問だったとユーキは思う。
 とはいえ、その事を彼はほとんど覚えていなかった。思い出したくないのではない、本当に思い出せないのだ。おそらく、あまりにも恐ろしく悍ましい体験だったため、脳が精神健全化を図るために完全に記憶を消去することにしたらしい。
 あの後、歯が二本綺麗に根元からなくなっていて、その処置に麻酔などかけてくれるはずがないことから考えても、あの出来事は闇に葬ったままにしておこうとユーキは固く誓った。
 ルーファスはユーキをボコボコにした後、組織の金に手をつけた人物として、逆にユーキの情報を漏らした。こうして、ユーキは組織に命を狙われる身となったのだった。
 そういう経緯から省みると、ある意味でルーファスはユーキとアーロンが出会うきっかけを作った人物であった。


 ここまでくればもういいだろうと、ユーキは足を止めた。息を荒げながら、額の汗を手で拭う。
「にしても、アーロンの馬鹿はどこに行きやがったんだ」
 ようやく、ユーキは探していたはずの人物を思い出した。今までの経験からすると、そんなに遠くには行ってないはずである。
 とにかく早く奴を見つけて合流しなければと考えたところで、いやまてよと思い直す。
(むしろ、アイツと一緒にいた方が危険に巻き込まれることが多くね?)
 ふと湧いた疑問に、ユーキはアーロンとの旅を振り返った。結論は指名手配をくらい、賞金首としてありとあらゆるところから追われる身となった現状を見る限り明らかだ。
 そもそも、アーロンによって蹴られたり、殴られたり、物をぶつけられたりして、常日頃怪我を負っていることを考えると、その存在自体が危険であるという今更な事実に突き当たる。
 もういっそ、アーロンからも逃げてしまった方が安全なのではないだろうか。幸い、ゴルゾア・ファミリーから奪った金品はすべてユーキ自身が管理していた。
 悪魔の囁きに、ユーキは誘われるように耳を傾きかける。

「おっ、ここにいやがった。おーい、探したぞユーキ」

 だが、別の悪魔の声にあっさりと決断を翻し、ユーキは瞬時に叫んだ。
「前言撤回! アーロンさん、今すぐ来てー!!」
 悲痛な懇願が上空へと響く。すると、ユーキの願いに天が答えたのか、空から何かが降ってきた。
 それは二人の間に大きな音を立て着地する。空と同じ色の髪をはためかせ、ユーキが呼んだ人物はゆったりとした動作で立ち上がった。
「何だ、ここにいたのかユーキ」
 アーロンはぼさぼさになった髪を撫でる。ユーキは彼を盾にするように、素早くその背に隠れた。
「おっ、テメエか。ユーキのご主人様は」
 アーロンを品定めするように眺めながら、ルーファスが棍棒を強く握る。その目はまるで新しい玩具を見つけた子供と同じ色をしていた。
「誰だ、お前」
 見知らぬ人物にアーロンは怪訝そうな顔をする。
「敵です、アーロンさん!」
 と、そこへ間髪いれず、ユーキがルーファスを指差して大声を出す。ユーキの言葉にアーロンはルーファスのじろりと見やった。
「敵?」
「ええ、それもどうしようもなく凶悪で凶暴な!」
 主人が現れた途端、その下僕は強気になりべらべらと早口で喋る。あまりの変わり身の速さに、ルーファスは呆れるより先に感心してしまった。
「敵ってことは、お前おれたちを捕まえにきたのか」
 アーロンの問いに、ルーファスは挑発的な笑みを浮かべた。
「いや、ただお前に興味が湧いただけ。どんな風に痛めつけたら楽しいだろうってなっ!」
 言い終わるのと同時にルーファスを飛び上がり、アーロンの頭を狙って棍棒を振り下ろす。アーロンは右腕で攻撃を受け止めた。
 鈍い音と共に棍棒がくの字に折れ曲がる。これにはさすがにルーファスも驚きで目を丸くした。
「マジかよ。これ、鉄で出来てんだぞ!」
「こんなもん効くか!」
 棍棒を掴むと、アーロンは身体を捻り、ルーファスごと放り投げた。ルーファスの身体が後ろの家の壁に叩きつけられる。ガラガラと音を立てながらレンガが崩れ、土煙が辺りを覆った。
「ざまぁみろ、ルーファス!」
 大きな恨みがある人物の無様な姿に、ユーキは喜々として高笑いを上げる。とはいえ、安全を確保するため、依然としてアーロンより前には出なかったが。
「ユーキ……お前なぁ」
 ルーファスは身を起こし、苦笑いを浮かべる。
 強い者が傍にいるときだけ調子に乗る様は、まさに小物としか言い様がなかった。
 口元を伝う血を手で拭い、うっすらと楽しそうに笑う。
「まあ、今日はもういいや。取り敢えず、テメエがどうしようもねぇ化けもんだってのは分かった。さすが、ユーキが媚び売るだけのことはある」
 くつくつと喉を鳴らしながら、服についた汚れを払う。アーロンとユーキを見つめるその目には暗い欲望の色が見て取れた。
「また、会おうぜ。お二人さん」
 一方的に別れを告げると、ルーファスはそのまま二人から離れていく。
「なっ、ふざけんなバカヤロー! 二度とテメーなんかと会うか!」
 くたばれ、ルーファスと怒鳴るユーキをよそに、事情を知らないアーロンは不思議そうに首を捻る。
「なぁ、結局何がやりたかったんだあいつ」
 アーロンがユーキに尋ねる。だが、ユーキの方は厄介な奴に目を付けられたと頭を抱えている最中であり、まったく耳に入っていなかった。