後輩の話

ある日の昼下がりのこと。

 青空が広がる気持ちいい天気にも関わらず、茶髪のポニーテールの小柄な女性――リディア・ハーデスはその愛くるしい顔には似つかない深い皺を眉間に刻んでいた。
 不機嫌の理由はただ一つ。ランチを外で食べ終えて会社に戻ろうとしたら、変な男にナンパされ足止めをくらう破目になっているせいだ。
 表面上は愛想のいい笑みを浮かべ、ナンパ男を交わそうとするものの、向こうはまったく引く気配がない。
 そんな空気の読めなさじゃ女性は逃げていくだけですよと、リディアは心中でナンパ男を皮肉った。
 もう、休憩終わりまで時間がない。仕方なくリディアは強引にでも男を振り切ることにした。

「ごめんなさーい。もう、会社に戻らなくちゃいけないんですよー」
「えー、じゃあ、メアドだけでも教えてよ」
 しかし、尚もナンパ男は食い下がる。こともあろうか、その場をさろうとするリディアの手首を掴む暴挙にまで打って出た。
 これにはさすがにリディアも憤慨し、素早く男の手を振り払う。かろうじて作っていた愛想笑いは完全に吹っ飛び、鋭い目つきで男を睨み付けた。
「もう、いい加減にしてくださいよ! あなたのことなんて微塵も興味ないんです!!」
 リディアの強い拒絶に、ナンパ男の頭に一気に血が上る。
「てめえ、いい気になんなよ!」
 完全に逆恨みでしかない怒りをリディアに向け、凄む。その勢いのまま、リディアに掴みかかろうとしてきたが、その前にリディアは男の鳩尾に力一杯膝蹴りを喰らわせた。
「ぐあっ」
 ナンパ男は苦悶の声を上げ、腹を押さえて身をかがめる。リディアはすかさず片足を垂直にあげ、男の背に振り下ろした。
 見事な踵落としが決まり、男は地面へとその身を叩きつけた。
 完全にKOされた男はその場に蹲り、立ち上がることが出来ない。小柄な可愛らしい女性が大の男を叩きのめした様を、近くにいた通行人は唖然として見ていた。
「さっさと諦めてくれれば痛い目合わずに済んだのに……」
 周囲がざわつくのも気にせず、リディアは地べたのナンパ男に氷よりも冷たい声を浴びせ、時計を見た。時刻を確認した瞬間、焦りの色が顔に浮かぶ。
「あー、もう休憩終わっちゃうじゃないですかー! もう、最悪!」
 こんな馬鹿な男に構っている暇なんてないと、リディアは慌てて会社へともうダッシュで走り出す。しかし、非情にも時計は休憩時間の終わりを告げたのだった。






「というわけで遅れちゃいました……すいません」
 休憩終わり時間から15分過ぎた頃、リディアはようやく会社に戻ることができた。彼女は一目散に上司である課長の元へ行き、頭を下げる。
「そうか、それは大変だったね。リディア君、変なのによく絡まれるからなあ……」
 事情を聞いた課長は同情と慰めのことばをかけ、リディアに優しく笑いかけた。
「そうなんですよー。もう、うざいったら!」
 課長の言葉に同調するように、リディアは小さい身体で地団駄踏むように怒る。その姿はさながら小動物のようだと、課長は密かに思った。
 童顔で小柄なリディアは傍目にはか弱そうに見える。だから、先ほどのナンパ男のようなよからぬ思いをもつ輩が、リディアに迫ることはよくあることだった。
 普通なら上司として心配すべきなのだろうが、課長はとくにしていなかった。いや、かつてはしていたのだが、彼女が空手の有段者で子供の頃欧州チャンピオンになったこともあると知ってから、その心配は無用であると気づいたのだ。
 リディアは大抵の男なら容易に倒せてしまう。よって、むしろ同情すべきはそのナンパ男だった。
「もう、しょうがないから遅れた分は、後ほど挽回します!」
 リディアに非はないにも関わらず、律儀な彼女に課長は微笑ましい視線を向けた。
「まあ、気にしないでいいさ。ほんのちょっとの遅れだし、そんな事情があったんじゃしょうがないしね。それに……」
 課長はとあるデスクをちらりと見やる。そこにいるはずの人間がいないことを確認し、先ほどまでとは打って変わり、乾いた笑い声を漏らした。
「恐らく何にもないにも関わらず、いまだに戻ってこない馬鹿もいるしね!」
 一応、穏やかな表情を崩してはいないのだが、こめかみにくっきりと浮かぶ青筋が彼の静かな怒りを物語っていた。
「そういえば、先輩。今日もまだ戻ってないですね」
「そうだね。今日もだね」
 不在のデスクの主はリディアの二年先輩で、この会社でも有名な存在だった。ただし、もっぱら悪い意味で有名だったのだが。
「でも、先輩がいないの普通のことですから、仕事に影響ありませんよ」
 リディアはにっこりとして、課長にまったく励ましにならない言葉をかける。
「そーだね。いつものことだね。仕事に対して影響はないよね」
 でも、それって社会人としてどうなんだよと、今更な疑問に課長は頭を抱えた。






「ハーデスくん」
 終業時間後、他部署の社員がリディアに呼びかけ、近づいてきた。
「何ですかー?」
 リディアはドア付近にやって来ると、男に人懐っこい愛想笑いを向ける。彼はそこそこ背が高く、そこそこイケメンで、そこそこ人気があったリディアの先輩に当る男なのだが、まったくもって名前が思い出せなかった。
「この後暇かい? この前、いいお店見つけたんだ、よかったらこの後食事でも……」
「あ、ごめんなさーい。この後、用事があるんですよー」
 やんわりと、しかし即座にはっきりと、リディアは社員の誘いを断わった。まったくぐらつきもしない態度に、そこそこモテて来た男は多少打ちのめされる。
「そうか……残念だな」
「また、機会が合ったら教えて下さいね。……あっ、せんぱーい!」

 突如、窓から入ってきた紺色のチェック柄スーツの男が視界に入ると、リディアは社員を放って置いて、即座に男の元へ駆け寄った。
「お帰りなさーい」
「ただいま」
 社員に向けていたのとは全く違うきらきらとした笑顔を浮かべ、リディアはオルの腕を掴んだ。
 上目遣いで熱っぽい潤んだ瞳を向けられれば、大抵の男は惹きつけられるものなのだが、チェック柄スーツの男はいかにもやる気なさそうな表情を崩さず、そっけなく返事を返すだけだった。
「オル先輩! 夕食一緒に食べに行きませんかー?」
 先ほどどこかの社員に己がかけられた誘いを、今度はリディアがかける。
 オルと呼ばれた男は、自身の懐から財布を無言で取り出した。
「残念だけど、その事案には重要な障害があってね」
 オルは財布を逆さにすると、数回振ってみせる。悲しいかな、出てくるものは埃ぐらいしかなかった。
「まったく、お金がありません」
「大丈夫ですよー。私が奢ります」
 断わられても、リディアはまったくめげることなく、尚もぐいぐい迫ってくる。見た目にはそぐわない押しの強さだ。
 しかし、オルはまったく乗ってくる様子を見せない。
「非常に魅力的な申し出だけど、後輩の女の子に金だしてもらうのは、先輩の男としてどうかと思うんで」
「そういうくだらないプライド持つなら、まず会社員としてのプライド持てよ。今更戻ってきやがって」
 リディアとオルのやりとりを自身のデスクから眺めていた課長が、すかさず口を挟む。
すると、オルが即座に反応し、腕からリディアの手を引き剥がして、課長の元へと歩みよる。
「そうだ、課長。金欠の可哀想な部下のために奢ってくださーい」
 まったく嫌味が通じてない部下に対し、課長はなんとかぎこちない笑みを作ることに成功した。しかし、口元はぴくぴくと動き、怒りは隠しきれていなかったが。
「やなこった。自業自得だろうが」
 冷たくあしらうように課長が言うと、オルは「えー」と気の抜ける不満げな声を出した。
「ケチー。冷血感ー」
「可愛い部下なら奢ってやるけどなー。お前は残念ながら死ぬほど可愛くない部下だ」
「差別だっ。訴えてやる」
「こっちがお前を給料泥棒で訴えたいわ!」
 小気味いいテンポで応酬される、最早この課の名物となっている課長とオルの漫才を他の同僚はやれやれと慣れた感じで聞き流していた。
 置いてけぼりになったリディアは、慌ててオルの服を引っ張り自分の方へと注意を向けさせようとする。
「だから、私が奢りますってばー!」
 それぞれの思惑がまったくかみ合わないぐだぐだな会話が続く中、すっかり忘れられた男性社員はがっくりと肩を落としていた。

「用事があると言ってなかったか……?」
「無駄よ。あの子モテルけど、あいつ以外の男にはまったく眼中にないから」
 納得いかない感がありありのどことなく哀れな男性職員に、別の女性社員が同情するかのように声をかけた。
「あいつってあれだろ。何で首にならないのか会社のミステリーになってるとかいう駄目社員。何であんなのがいいんだよ」
 いかにも冴えない風貌の駄目社員オルを半目で睨みつけ、女性社員に半ば八つ当たり的に食ってかかる。
 女子社員は「私だって知らないわよ」と深いため息をつく。
 リディアは可愛らしい容姿となかなかに優秀な能力をもった社員で、当然社内での人気も高かった。そんな彼女がなぜ仕事サボりまくりで、容姿も冴えないければ体格も華奢なオルにベタ惚れしているのか。それもこの会社のミステリーの一つだった。

 ちなみにこの課は4階にあるにも関わらず、窓から出入りするオルの行動も、かつてはミステリーの内に入っていたのだが、そのうち社員が慣れてしまい、今では普通のこととして認識されていた。





 結局、リディアはオルと共に食事に行くことは出来ず、適当な店で食事を取った後、自宅へと戻ってきた。

「あれ?」
 自宅の玄関前に何やら人影が見える。近づいてみると、老紳士風の服装の男性がリディアを待っているかのように立っていた。
「お譲様。お帰りなさいませ」
 老紳士はリディアの姿を目にとめると、頭を下げた。口調や振る舞いからして、執事を思わせる。実際に彼はある大財閥の一族に長年勤める執事だった。
「お嬢様は止めてくださいよー。ここではただの会社員です」
 リディアは苦笑しながら、玄関のドアを開け、執事を迎え入れた。
「それで今日は何の用ですか?」
 カバンをテーブルに置くと、リディアは執事の方へ向き直る。尋ねなくても、彼の用件はリディアには最初から分かっていたのだが。
 老執事は少し困ったような表情を浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「お嬢様……一体いつまであの会社にいるつもりなのですか?」
 心配と遠慮が入り混じった声に、リディアはやれやれと肩を竦める。予想通りの言葉に口角を吊り上げ、もう何度口にした返答を再度執事に投げた。
「だから、言ってるじゃないですかー。先輩が結婚してくれるまでですっ」
 二年前、オルに一目ぼれした彼女は、名前も知らなかったオルの素性を徹底的に調べ上げ、誰の了承も得ずに勝手にオルの会社に潜り込んだのだ。
 それ以来、オルに熱烈なアプローチを続ける今の彼女の瞳の色はこれまでとは全く違っていて、まるで獲物を狙う肉食獣を思い起こさせるものだった。
 何度もこの押し問答を繰り返してきた執事は、今までの気苦労を吐き出すかの様にため息をつく。
「名目上、社会経験のためといって、旦那様とはまったく関係ない会社につくのはいいですよ。確かに社会経験にはなりますしね。しかし、あんなちっぽけな会社じゃなくても他にマシな所がありましたでしょう?」
「会社の大きさは関係ないです。要は先輩がいるかどうかですから」
「お嬢様。あなたはハーデスグループの跡継ぎを期待されているかたなのですよ。恋に入れあげるなとは申しませんが、もうちょっと将来のことも考えていただきたい」
 老執事の苦言に、リディアは明らかに嫌そうに眉を吊り上げた。
「えー、私、会社継ぐ気なんてこれっぽちもないですよー。そういうのはもっと相応しい人がいますってー。お兄ちゃんとかお姉ちゃんとか」
「いいえ、あなたこそ一番素質を持っております。だんな様も奥様も御姉兄さまも同じ意見です」
 老執事は熱く主張するものの、リディアはまったく乗り気ではなかった。
 会社や近所の人間には隠していたが、リディアの家は曽祖父から続く大財閥の一族だ。父親は彼女が今勤めている会社とは比較にするのもおこがましい規模の企業経営者である。
 リディアには全くその気がなかったが、両親も兄や姉も次の経営者はリディアがなるべきだと思っていた。
 一族のなかでもひときわ優秀だということもあったのだが、家族がリディアを推す理由は、彼女が経営者に必要な資質を兼ね備えていたからに他ならない。
「先輩が私のものになってくれたら、後継のことは考えまーす」
 だが、もっぱら今のリディアの興味はオルにしかなかった。老執事はそんなリディアに対し、何か言いたさげに口をもごもごさせる。言おうか言うまいか迷っているようだったが、やがて重い口を開いた。
「お嬢様……。差し出がましいようですが、その、あの男はやめておいた方が……」
「ん? どうしてですか?」
 執事の忠告に、リディアは機嫌を損ねた様子は見せず、逆に楽しげに尋ねた。
 別に老執事はオルが弱小企業のうだつの上がらない社員だから、リディアとは釣り合わないと言いたいのではない。さすがにそんな時代錯誤な事で彼女の恋愛に水を指すはなかった。
 むしろ、オルがただの冴えない一般社員だったら、ここまで口をださなかった。そうでないから問題なのだ。
「あの男は只者ではありません」
 老紳士は今までオルについて集めたデータを諳んじる。
「あらゆる書類に書いてあった彼の名前、本籍地はすべてデタラメでした。四年前に今の会社に勤めるまでの経歴はまったくの不詳です。そして、あの男は間違いなくお嬢様の正体にも気づいております」
 オルの素性について彼を尾行している時に、「君もアクティブすぎるお嬢様に仕えていると大変だね」と後ろを振り向きもせず、言葉を投げかけられたことを老紳士は思い起こしていた。
「これは私の勘に過ぎないのですが、あの男はおそらく表の世界とは違った場所にいたのではないかと思うのです」
 それを聞き、リディアはふっと笑った。
「そんな事ぐらい知ってますよー。だからいいんじゃないですか」
 リディアは携帯を開く。待ちうけはもちろんオルの写真だ。それを陶酔するような面持ちで見つめた。
「一筋縄ではいかない相手ぐらい百も承知です。でも、絶対に手に入れてみせます。使えるものは全て使ってでも」
 そう語るリディアからは、外見からは想像できないほどの狡猾さと魔性さを醸し出していた。
 家族はリディアを後継に押すのは、この非情ともいえるしたたかさにある。
 使える手と使えない手を瞬時に見極め、時には無慈悲に切り捨てるだけの覚悟と目的のためなら多少手段を問わない強引さ。
 綺麗ごとだけではやっていけない社会を牽引していくだけの資質を彼女は持っていた。

「しかしですね、お嬢様……」
 先ほどまでとは違う種類の困惑した表情を老紳士は浮かべた。
「近所の噂によると、彼は日本人の男性の恋人がいるということなのですが……」
「え?」
 老紳士からもたらされた衝撃的情報に、リディアの目が点になる。オルが素性不明とか裏社会の人間だったのではないかとかいうことよりも、それはリディアにとって何よりも重要で重視されなければならない情報だった。