課長の話

 男にとって、それは普段通りの平凡な朝になるはずだった。
 早朝から近所迷惑を顧みずに吼える馬鹿犬も、馬鹿犬に吼えられるいつも決まった時間にランニングする青年も、その吼えた声を目覚ましにして起きる男もいつも通りの光景だ。
 しかし、その日が平穏な日常と違っていたのは、リビングにいるはずの妻の姿と用意されているはずの朝食がなかったこと。
 こんな朝っぱらから出かけたのだろうか、ゴミ出しにでも行ったのかと、男はあくびをしながらまだ眠い目を擦りつつ、特に深く考えるようなことはしなかった。。
 ふと、テーブルに置かれた一枚の紙切れに目が留まる。なんとなくそれを手に取り、持ち上げた。
 紙には見慣れた妻の文字。何らかのメモだろうかと、目で文字を追う。
 まだ、働きの鈍い頭は数行の中から「人生をやり直す」「隣の青年」「ごめんなさい」という文言をピックアップした。
「……あれ?」
 男は間の抜けた声を出し、頭をがしがしと掻く。彼の脳は妻の書置きから何が起こっているのか推測しようと、フル回転し始める。
 男が事の重大さに気づくのはそれから数秒後のことだった。





「どぉいつも、こいつも〜、おれに面倒ごとばっか押し付けやがって〜!」
 酒場に呂律の回っていない男の怒鳴り声が響く。
 明るめの茶髪で髭を生やした服装からして会社員であると推測される中年男性は、持っていたビールジョッキを力いっぱいカウンターテーブルに叩きつけた。
 目が据わり、顔全体を紅潮させた様子から、明らかに男が相当酔っていることが分かる。
そんな状態にも関わらず、追加のビールをマスターに注文する中年男性を、横に座っていたオンルッカーことオルはちまちまと自身のビールを飲みながら傍観していた。
「少しはおれの苦労を味わえってんだ!」
「はいはい、大変ですねー。ご苦労ご察しします」
 酔っ払いの愚痴に対し、オルはまったく感情が伴わない慰めの言葉をかける。すると、即座に男がぎろりとオルを睨んだ。
「おれの苦労の大半はてめえのせいだっ、馬鹿やろー!」
 オルの両頬を掴み、思いっきり引っ張りながら男が叫ぶ。オルの頬が面白いように伸びた。
「いひゃい、いひゃい。暴力反対!」
 オルは男の手をどけさせ、頬をさする。そんな彼を横目に、男はふんと鼻を鳴らして、さらにビールをあおった。困ったもんだといった具合にオルは肩をすくめると、そろそろ止めた方がいいかなと、中年男のビールジョッキを上から手で押さえる。
「これ以上飲むと、明日に響きますよ課長」
 オルの直属の上司であるこの男は、何か嫌なことがある度にこうやって酒に逃避する。そして大抵は飲み過ぎ、翌日地獄の二日酔いを抱えながら仕事する破目となっていた。その一連の流れを何度も見ているオルは、部下としての親切心から毎度課長に忠告してやっている。
 ただし、課長が自棄酒する最大の要因はオルであり、自分が真面目に働けば一番課長のためになるという事実は華麗に無視していた。
 だが、課長はせっかくの部下の心遣いを受け取らず、ジョッキをオルの手から奪い取る。
「うるせえ! 大きなお世話だっ」
 そう怒鳴りつけ、一気にビールを飲み干すと、さらに追加オーダーをかけた。さすがに見かねたマスターがその辺にしておいた方がいいですよと諌めるが、残念ながら課長は聞き入れなかった。



「だいたい、お前はビジネスマンとしての自覚が足りないんだっ」
 課長のぼやきは徐々にヒートアップしていき、今はもっぱらオルが標的となっていた。
「はいはい、それで?」
 それに対し、オルはまったくの棒読みで相槌を打つ。
「遅刻はするし、早退はするし、お前働いてる時間よりサボってる時間のが長いんじゃないか? ひょっととして」
「そーすね」
「取引先からはしょっちゅう苦情の電話が掛かってくるし。お前は仕事を舐めてる! おれが若い頃はだな……」
「はいはーい」
 酔っ払いの小言を右から左に受け流し、オルはつまみのナッツを口に放り込んだ。すると酔っているくせに、真面目に聞いてないのを勘付いた課長が「聞いてるのか、お前!」とオルに食ってかかる。
「聞いてますよー」
 気の抜けた返事をすれば、課長は訝しげな表情を浮かべてはいたものの、再びぐちぐちと喋り始めた。
 それに適当に返答しながら、オルはオルでマイペースに飲む。課長の話はほとんど頭に入ってこなかった。
「お前も心を入れ替えないと、マジで首になりかねな……お前、本当に聞いてるのか?」
 課長の方を見てもいないオルに、再度課長が同じことを尋ねる。
「んー。聞いてますってー」
 抑揚のまったくない口調で先ほどと同じ答えをオルは返す。しかし、依然として顔は課長からそっぽを向いたままだ。課長は疑いの眼差しを部下に向け、ゆっくりと口を開いた。
「昔、昔あるところ赤ずきんと呼ばれる女の子がいました」
「はい」
「赤ずきんは森のなかにあるおばあちゃんの家にお使いに行ってくるように言われました」
「はいはい」
「……」
「……」
「やっぱ、聞いてねぇじゃねーか! このやろー!!」
「あ、いたっ」
 怒鳴りながら、課長はオルの頭を思いっきり叩く。オルは頭をさすりながら、尚も怒りそのままに掴みかかってくる上司を落ち着かせることに努めた。
「大変ですねー。オルさん」
 一連のどたばた劇をずっと観賞していた年若いマスターが、オルに同情するかのように苦笑いした。
「ねー。困った上司がいるとホント困っちゃう」
 犬のようにギャンギャン吼える課長を涼しい顔で受け流しながら、オルがマスターに同意する。
 まったく、懲りない人だと二人は生暖かい目を課長に送った。





「うえぇ……気持ち悪い……」
 案の定、飲みすぎた課長は覚束ない足取りでオルに支えられながら、何とか夜道を歩いていた。
「だから、忠告したのに」
「うるせえ!」
 呆れたような部下の呟きに即座に課長が反応するが、すぐにうめき声を上げ、口元を両手で押さえてしまう。そんな課長に冷めた視線を送りつつ、オルは今後について思案する。
(さて、どうしようかな……)
 ここから課長の家まではオルの家より遠い。大の大人を引きずりながら自宅まで送るのはいささか面倒だ。
 すると、オルはふとこの近辺に顔馴染みの拠点があることを思い出した。さらに運のいいことに、今その顔馴染みはここに滞在している。
「さっ、課長行きましょ」
 いい事を思いついたとばかりにいつもより若干目を輝かせて、オルは課長を帰り道とは違う方向に引っ張っていく。
「行くってどこに?」
「いいから、いいから」
 課長は一瞬不思議に思ったものの、酒で機能停止寸前の頭はそれ以上の疑問は呈さず、黙ってオルに身を任せた。





「流石にこの時期になると、夜は寒いなー」
 身体を震わせながらも、上機嫌にディアスが呟く。その頬は酒によって、微かに紅潮していた。
 それとは裏腹に、隣で歩いているリアは渋い表情だ。
「どうでもいいがいつまでついてくるつもりだよ。言っておくが泊めねえからな」
 仕事が上手くいった祝いにと、強引にディアスに酒場へ連れ出され、こんな時間になるまで付き合わされたのだ。金は全部ディアスに奢らせたのでいいとして、この馴れ馴れしい猟奇殺人鬼はいつまでもリアの後を付きまとっていた。
「えー、いいじゃんか別に。おれ、ソファーで寝るし」
「誰が寝るとこの話をしてんだ。帰れっつーの」
 泊まる気満々のディアスに、リアは心底呆れたような声を出す。
 しかし、どんなに邪険にされたところで、ディアスはへこたれる男ではない。一向に帰る気配は見せず、とうとうリアの拠点近くまでついてきてしまった。
「あれ?」
 ふと、ディアスが何かを見つけ、足を止めた。
「おい、リア。お前んとこの前に誰かいるぞ」
「あ?」
 ディアスがリアの部屋の玄関を指差す。リアがそちらに視線をやると、確かにディアスのいう通り、玄関の前に誰かが座り込んでいる。
 二人が近寄っていくと、くたびれたスーツを着た茶髪の男が玄関に寄りかかり、安らかな寝息を立てていた。
「知り合い?」
「いや」
 ディアスの問いにリアは首を横に振る。男の格好や微かに漂ってくる酒の匂いから考えて、どっかの近くに住む会社員が酔っぱらったあげくにここで寝てしまったのだろうかと考えていると、男のすぐ側になにやら紙らしきものが置かれていることに気づいた。
 風で飛ばされないように石が乗せられている紙切れをリアは手に取り、眼前にかざす。
「うちの課長を自宅までよろしくお願いします」
 紙に書かれていた文字を片眉をしかめながら、リアが読み上げた。
「byオンルッカー……奴の会社の上司だな」
 リアのため息に、ディアスは変な柄のスーツを着た会社員兼情報屋の男の顔を思い浮かべる。
 そして、哀れにも部下に置き去りにされたらしいオルの会社の課長を、同情するような目で見た。
「自分の上司をこんなとこにほっぽり出すってどういうことだよ……」
「知るか」
 さて、どうしたもんかねと、リアは肩を竦める。
 ディアスの方は暫し課長を見ていたが、何を思い付いたのか、にかっとリアの方に笑いかけたのちしゃがみこんだ。
「リアー。これ切り刻んでもいい?」
 軽い口調にそぐわない、ナイフを懐から取り出し、課長の首筋に当てるという物騒極まりない姿でディアスが問う。
「やめとけ、面倒なことになるぞ」
 リアがそう忠告すると、そうか残念とディアスは素直にナイフをしまった。
「なら、どうするかねー。課長さんの家どこよ?」
「運ぶ気かよ」
 ディアスの言葉に、リアは明らかに嫌そうな表情を見せた。こんな深夜にわざわざ見知らぬ人間を家まで送り届けるほど彼はお人よしではない。
 しかし、殺人鬼ではあっても根は世話焼きなディアスは、課長を放っては置けないようだった。
「だって、オルに頼まれたんだろ? いつまでもここに寝せとくわけにもいかねぇしな」
 ディアスとリアが課長の処遇について話し合っている中、突如その話題の人物の呻き声が割り込んできた。
 二人は課長の方へと顔を向ける。
「だから、おれの上着に鳩を仕込むなと前にも言っただろうがっ。オルー!」
 課長は謎の一言を発すると、あとはむにゃむにゃと意味のない言葉を発するだけで目を開ける様子はなかった。どうやら寝言らしい。
「どういう夢見てんだよ……おーい、そろそろ起きろ。風邪引いちまうぞー」
 ディアスが軽く課長の頬を平手で叩く。すると、ようやく課長はゆっくりと瞼を上げた。
「んー? 家着いたのか……?」
 目を擦りながら、課長は寝ぼけたような声を出す。ぼんやりしていく視界が鮮明になっていくにつれ、課長の目が驚きで見開いた。彼の眼前にいたのは部下ではなく、見知らぬ男。そして、辺りの景色もまったく見たことないものだった。
「え? な、なんだっ!? どこ、ここ!」
 勢いよく立ち上がり、分かり易く慌てふためく課長を尻目に、リアとディアスはやれやれといった感じでお互いの顔を見やった。
「一体何でこんなとこにっ? てか、オルはどこ行った!?」
「そのオルから伝言預かってる。ほら」
 いまだ混乱している課長に、リアが先ほどの紙切れを彼に渡す。課長はゆっくりと紙に目を通すと、先ほどのリアと同じように文字を読み上げた。
 すると、徐々に課長の表情が険しくなっていく。しかし、彼が一番驚愕したのはリアが読んでいた箇所ではなく、その下の追伸部分だった。
「なお、今夜の飲み代は課長のつけにしておきましたので、後日支払いお願いします……って、あいつ、なに勝手な事やってくれてんだーー!!」
 アパート中に課長の絶叫が響き渡る。彼の頭は理不尽な仕打ちをしでかした部下への怒りで一杯で、今の時間帯や近所への配慮は完全に抜け落ちていた。
「お怒りは分からなくもないが、少し静かにしてくれねぇか? 近所迷惑だ」
 リアが窘めるように言うと、課長ははっとして即座にすいませんと謝った。しかし、何かに気づいたのか、リアとディアスを怪訝そうな面持ちでじっと見る。
「ところで君ら誰?」
 今更な課長の疑問に、リアたちはどう説明したものかと思案した。
「友達みたいなもん?」
 一先ず、ディアスが適当に答える。すると、課長は「あいつに友達いたんだ……」とどこかずれた若干失礼な返しをしてきた。
「あー、つまり、あの馬鹿は自分の上司を友達に押し付けて、自分は帰りやがったわけね」
「まあ、そうだな。で、どうすんだ? この後」
 顔を手で覆い、項垂れる課長に対し、リアは慰めるでもなく率直に尋ねる。どうでもいいから、さっさと部屋に入りたい思いが彼からはひしひしと伝わってきた。
「あ、うん、ごめん。迷惑かけた。家に帰るよ」
「一人で大丈夫かー? 大分酔ってるようだけどよ。送ってこうか?」
「いや、平気。酔いも大方醒めたから」
 ディアスの気遣いを遠慮して、課長はゆっくりと歩き始める。しかし、口ではああ言ったが、身体は非常に正直だった。
「にぎゃー!」
 まだ大量に体内に残っている酒の影響ですぐに足がもつれ、課長は豪快にすっころぶ。
まるでコントのような光景に、ディアスは駄目だありゃという顔でリアを見る。この後の展開を察したリアは、面倒くせえと言わんばかりに深く息を吐き出した。





「たく、何でおれまで……」
「まあ、いいじゃん。おれ、一人だとさすがにちょっとしんどいしさー」
 結局、課長を自宅まで送り届けることになった二人は、課長の身体を支えながら夜道を歩く。
 ディアスはともかくとして、無理やり付き合わされたリアはやや不機嫌そうな面持ちだ。
「いや、ホントごめん……二人とも」
 迷惑を掛けるつもりじゃなかったのにと、課長は申し訳なさそうに項垂れた。
「くそー、オルの馬鹿やろう。明日会ったらとっちめてやる」
「あんたもアレが部下で大変だな」
 その点だけはリアも心底課長に同情する。
「そうなんだよ! 本当にあいつのおかげでおれがどれだけ苦労してるか……仕事はしないし、変な悪戯はしかけるしさ。何か奴がしでかそうもんなら、そのしわ寄せは全部おれにくるし……もう、ほんと転職したい」
 リアに同調するかのように、突如課長は饒舌に喋り始めた。まるで日頃の鬱憤を一気に晴らそうかという勢いだ。
「なら、転職すれば?」
 ディアスの指摘に、課長は顔に暗い影を落とす。
「出来るものならしてるさ。でも、この不景気に転職先が見つかるかどうか不安だし……。せめて、借金させなきゃあなあ」
「部下が借金持ちなら上司も借金持ちか」
「いや、ギャンブル狂のあいつとは違う。おれのはただ……」
 リアの言葉に、課長は声を荒げて反論する。しかし、徐々にトーンダウンしていき、顔を俯けた。
「何でか、本当にどういうわけか判らないんだけど、8年前に妻が借金だけ残して、隣に住んでた青年とどっかへ消えたんだ……」
「うわっ、悲惨」
「なかなかに壮絶だな」
 課長の悲しすぎる過去に、リアとディアスは憐憫の目を彼に向けた。そして、ディアスは課長の背中をポンッと優しく叩く。
「まあ、元気だしなって。頑張ってりゃきっとそのうちいい事あるよ」
「一応、人生は幸も不幸も半々だっていう定説もあるしな」
「ディアス君、リア君……」
 二人の慰めに、課長はジーンと感謝をたたえた目で彼らを見た。自分の部下と違っていい青年たちだと、心の底から感激した。
「ありがとう。若者にそう言われると頑張れる気になれるよ」
「ディアスはともかくおれはそんな若くねえぞ。おそらくオルよか課長さんとの方が年近いだろうしな」
 リアの指摘に課長の目が点になる。
「え? リア君いくつ……?」
 オルと同じくらいか下手すると年下ではないかと考えていた課長は、おそるおそるリアに尋ねた。
「あー、いくつだっけか。年齢気にする歳でもねえしな。確か今37くらいだっけ」
 その言葉にさらに課長の目が驚愕に見開いた。
「37〜! おれと5つしか変らないの? 嘘ぉっ!?」
 衝撃的事実に、課長は信じられないという具合に大声を出す。ああ、この反応懐かしいなあとかつて課長と同じ道を歩んだディアスが微笑ましい目で見ていた。





「おはようございます、課長」
 翌日、例によって遅刻してきたオルはオフィスに入るなり、課長に呼ばれた。その課長は眉間に何本も皺を寄せ、不機嫌そうに額を右手で押さえている。
「お前、何かおれに言うことあるだろ」
 二日酔いによる頭痛に耐えながら、課長が地を這うような低い声でオルに問うた。オルはわざとらしくうーんと考えこむ素振りを見せ、ぽんっと両手を叩く。
「昨夜の飲み代は早めに払って置いて下さいね」
「そうじゃねえだろ、このバカー! ……いってえ」
 大声で叫んだため強い頭痛が襲い、課長は呻きながら、顔を机に埋める。
「大丈夫っすか?」
「うるせー! 何もかもお前のせいだー!」

 尚も懲りずに叫ぶ課長の怒鳴り声に、他の社員達はああ今日もいつも通り平和だなあと、各自気にすることなく、それぞれの業務をこなしていた。