引きこもりの話

 黒装束の人々が一同に集まり、故人へと追悼する。
 しかし、その中の一人である少年は退屈を持て余し、早く終わらないかなあと足をぷらぷらさせ、じっと座っていた。
 亡くなったのは彼の祖父だったのだが、少年は別段悲しいと思わなかった。少年にとって祖父はいつも威張っているか、人を馬鹿にするか、そうでなければ怒鳴っているかという、とても嫌な人間だったという記憶しかない。
 強欲で頑固で偏屈な老人を少年は心底嫌っていた。


 葬式が終わり、親族同士が集まって夕食の場が設けられた。最初は静かだったのだが、誰が父親の(少年からしたら祖父の)遺産配分について言及した瞬間、その場の空気は一変した。
 地獄絵図とはこのことかと言わんばかりに、親戚達は口汚く互いを罵りあい、取っ組み合いの大騒動。しまいには皿があっちこっち投げつけられる始末だ。
 誰もが口々に自分こそが一番遺産を貰う権利があるのだと主張する。ある者は自分が家族の中で一番苦労していたといい、ある者は一番親から構われてなかったと嘆き、ある者は自分こそが一族のために一番貢献してきたのだと怒鳴った。
 そのあまりにも醜く恐ろしい姿に少年はすっかり怯えてしまい、母親に縋ろうと必死で姿を探す。
 しかし、見つけた母は夫の姉に掴みかかっており、相手を激しく罵倒していた。その歪んだ顔はその場にいた誰よりも少年の目にはおぞましく映る。
 少年は部屋の隅の方で一人縮こまり、耳を塞いで目を瞑る。小さな身体を震わせながら、ただ嵐が過ぎ去るのを待つことしか出来なかった。






 吹き抜ける風は多少肌寒いものの、空はすっきりとした青空が広がっており、とても気持ちのいい天気だった。
 しかし、公園のベンチに腰掛けている青年は、黒いフードをまるで顔を隠すかのように深く被り、眼鏡越しに地面をじっと見ていた。
 平日の昼間、いい年をした東洋人の男が一人公園にいる様はかなり目立つのだが、辺りにあまり人はおらず、青年を気にかける者はだれもいなかった……はずだったのだが。
「お兄ちゃん、遊ぼ!」
 5・6歳ぐらいの女の子が、いつのまにやら青年の前に立っていた。見るからに不審人物風の外見の青年だが、幼い少女は警戒する様子を見せず、青年に兎のぬいぐるみを差し出す。
「これ、お父さんね。こっちがお母さん」
 少女のもう片方の手には、ドール人形が握られている。どうやら、おままごとしようと誘っているらしい。
 青年は視線を上げると、無表情で可愛らしい兎のぬいぐるみを受け取った。



「う゛わアァーーん!!」
 公園中に少女の悲痛な泣き声が響き渡る。近所の友人と談笑していた母親が、娘の異常に気づき、慌ててわが子の元へ駆け寄った。
「どうしたの!?」
「お、お兄ちゃんがぁ〜……」
 少女は母親に抱きつき、泣きじゃくりながら青年を指差した。母親がベンチに視線を移すと、眉間に皺を寄せた青年がぎろりとこちらを睨む。青年の足元には娘のお気に入りのぬいぐるみが落ちていた。それを見て、母親が「あっ」と声を上げた。
「お兄ちゃんがうさちゃんの腕をとっちゃったの!」
 少女の言ったとおり、愛らしかった兎は哀れにも両腕がむりやり引きちぎられたようにもがれていた。
「何てことするのよ! 小さな子供に対して!」
 当然の如く、娘を泣かせた男に対し、母親は激怒して青年に食ってかかる。しかし、青年はますます不機嫌そうに目つきを悪くしただけで、特に謝罪するそぶりも見せなかった。
「似たようなぬいぐるみならいくらでも売ってるだろ」
「なっ」
 青年から吐かれた言葉に母親は絶句する。泣いている子供に対し、何の罪悪感も目の前の男は抱かないのか。いや、そもそも抱くぐらいなら、最初からこんな非道なマネが出来るはずがない。
 母親は軽蔑と憤怒とすこしばかりの恐怖が入り混じった視線を、青年に送る。しかし、男はそれを気にすることなく、ゆっくりと立ち上がり、ズボンのポケットから財布を取り出した。
「これで新しいのを買ってやれば?」
 財布からユーロ札を数枚取り出し、青年は地面に放り投げた。そして、もう事は済んだと言わんばかりに、その場から離れようとする。
 青年が投げ捨てた金は少女のぬいぐるみを数十個ぐらいは買える金額だったのだが、もちろんこれで事態が解決したわけではない。少なくとも、少女の母親はまったくそう思っていなかった。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
 とことん人を馬鹿にした態度をとる青年に対し、母親が怒りで顔を真っ赤にさせ、青年を呼び止める。
 しかし、殺意すら感じるような凶悪な視線を向けられ、無意識に危機を感じた母親は短い悲鳴を上げ、足を止めてしまう。
「うぜえ、死ね」
 青年はそれだけを吐き捨てると、もう親子の方を見もせず、さっさと公園を後にする。
 日本語で吐かれた罵倒の意味は欧州の人間である母親には分からなかったが、それが悪意を煮詰めた言葉であるということは、本能的に彼女も察していた。





 極力、人と視線を合わせないようにしながら、青年――鈴木はどこにいく当てもなく、ふらふらと町を彷徨い歩いていた。
(……何かもうたいぎい)
四年前、日本から欧州に移住して以来、鈴木はほぼ一日中家に引きこもっては、あらゆるサイトにハッキングしては、機密情報を盗み出すという日々を送っていた。別に金儲けに使うためにハッカーをやっているのではない、ただの暇つぶしだ。
 彼の親はろくでなしだったが、彼に一生暮らしているだけの財産は残してくれた。おかげで社会に出て行かなくても日常は送れる。
 ただし、ろくでなしから生まれた子供もやはりろくでなしだったのだが。
 代わり映えしない日常の中、鈴木は何故生きていかなければならないのかという疑問を抱くことがあった。
 別段、死にたいわけじゃない。でも、生きたいわけでもない。
 どうせなら、今すぐに地球に隕石がぶつかってみんな死んでしまえば手っ取り早いのになと、唯一の顔見知りに話したことがあった。
 そうしたら、「君がもうちょっとやる気があったら、人生を終わらせたかったとか言う理由で、通り魔か立てこもり事件を起こしてるね」と失礼きわまりない返答をされた覚えがある。
 しかし、その時鈴木は別段怒ることもせず、ああそうかもなと特に興味なさげに思っただけだった。


「ねえ、お兄さん。お暇かしら?」
 甘ったるい媚びるような猫なで声に、鈴木は後ろを振り返る。
 見れば、派手な化粧にきつい香水の匂い。わざとらしく胸元が開いた服を身に着けたくすんだ金髪のいかにも安っぽい売春婦といった出で立ちの女がすぐ側に立っていた。
 まだ日も沈む前から逞しいなと、フード越しに嘲笑うかのように鈴木は鼻で笑う。しかし、とある事を思いつき、白々しい愛想笑いを顔に貼り付け、ゆっくりと女に近づいた。





「ちょっと、これどういうことなのよ! 下ろしてよ!」
 耳障りな金切り声を上げて怒鳴る女を、相変わらずの仏頂面で鈴木はベッドの端に座って眺めていた。
「油断する方が悪いだろ。バーカ」
 バチバチという音と共に青白い光が薄暗い部屋に浮かび上がる。護身用に持ち歩いていたスタンガンで遊びながら、鈴木は女に向って凶悪な笑みを見せ付けた。
「お前を立たせて、天井に吊るすの結構骨折れたんだ。もうちょっとダイエットしとけよ」
 女に誘われるまま、安っぽいその手のホテルに入った後、隙を見てスタンガンを女に押し付け、気絶させた。
 その後、しばらくして意識を取り戻した女は、自分の状況置かれた状況を把握すると、見る見るうちに顔を青ざめさせた。
 天井の張りに括りつけられたロープは首に引っ掛けられており、何か柔らかいものの上に立たされている。その状態で女は咄嗟に首から縄を外そうかとしたが、ぐらりと足元が揺らぎ、首が絞まりかけ慌てて体制を建て直した。
 シーツや枕、その辺にあったものを適当に高く積み上げた女の命を支える足場はとても不安的で、ちょっと動くだけでもグラグラと揺れ動く。
 足場が崩れれば、もちろん同時に女の命も終わる。首吊りは自殺者が使う常套手段だが、無論女は死にたくなかった。
 下手に動けない女は、おそらく自分をこんな目に合わせた男――鈴木に助けを求めるしか打つ手がない。
 しかし、鈴木は何をするでもなくずっと女を観察しているだけで、何の進展もないまま、もう二十分が経過しようとしていた。
「ねえ、お願いよ……助けてってば」
 必死で落ちないようにバランスを取っていた女だったが、そろそろ体力の限界が近づき、弱音を吐き始める。
「何が目的なの? お金? それなら持ってるだけ全部あげるからっ」
 最初の強気な態度はどこへやら。いい歳した大人が化粧が落ちるのも構わず、ボロボロと涙をこぼし、鈴木に縋るように懇願する。
 案外根性ないなと興ざめした面持ちで、鈴木はゆっくりと立ち上がった。
「ねえ、何でもするから。助けて!」
「じゃあ、死ねよ」
 女の命乞いにそう吐き捨て、鈴木は無情にも足場を思いっきり蹴っ飛ばす。足場はもろくも崩れ去り、女の体が床へと叩きつけられた。
「うっ……げほっ」
 実のところ、女の首に掛かっていたロープは天井の張りに緩くくくりつけられており、すぐ外れるようにしてあったのだが、いまだに床に這い蹲り、激しく咳き込む女がそれを知る由もない。
 彼女が己の命が助かったことを認識するには若干の時間を要した。死の危険が去ったことに心から安堵したあと、次に沸いてきた感情は理不尽な仕打ちをした男に対しての怒り。
 女は鈴木を憎悪の篭った目で睨みつけ、身体を起こした。
「どういうつもりなのよ! 警察に訴えてやる!!」
 激情に流されるまま、女は鈴木に掴みかかろうとする。が、すぐに動きが止まった。
 薄暗い室内でも、鈴木の右手に握られた黒っぽい物体の正体は女にもすぐ分かった。銃だ。それが彼女に向けられている。
「うぜえ、さっさと消えろ。じゃなきゃ、死ね」
 氷よりも冷たい声で、鈴木はゆっくりと引き金に人差し指をかける。その瞬間、女は悟った。この男は本気だ、そして狂っていると。
「きっ、キャアアア!」
 恐怖に駆られた女は床に放り捨てられていた自分の財布が入ったバックの存在すら忘れ、一目散に部屋から出て行った。



「ふっ……ハハハ! バーカ!」
 一人残された鈴木は愉快でたまらないとでもいうような高笑いを上げる。暫く笑い続けていたが、窓の方から「相変わらず、悪趣味な遊びやってんね」という鈴木からしたらお前が言うなと突っ込みたい声が耳に入り、ぴたりと止まった。
「いたのかよ」
 被っていたフードを脱ぎ、首だけ窓の方に向ければ、窓枠にいつのまにか紺の変な柄のスーツを着た男が座っていた。
「いましたよ。ブエナス・ノーチェス」
「グーテン・アーベント、オル」
 意味のないスペイン語の挨拶に、こちらも意味のないドイツ語の挨拶を返すと、再び鈴木はベッドの端に座った。
「一発ぐらい殴られる度量の広さぐらい見せてあげればよかったのに。可哀そ」
 まったく同情心の感じられない棒読みで、先ほどの女について言及しながら、オルと呼ばれた男は部屋へと足を踏み入れ、鈴木の了承なく彼の隣に座る。ラブホテルで男同士がベッドで並んで腰かける様は実に奇妙な光景だったが、二人ともとくに気にも留めなかった。
「普通に見りゃ、ちゃっちなプラモデルの銃だって分かるのに、気づかなかったあの女の頭の悪さが悪い」
 そう言いながら、鈴木が銃の引き金を引く。するとぴょんと勢いよくプラスティックの弾が飛び出した。
「一応、彼女の名誉のために、果たしてこんな薄暗い中、死ぬかもしれないという目にあったその直後の精神状態が普通の範囲に入るのか、考慮するふりぐらいはしてあげてね」
「お前がこんなことふらふらしてるってことは、また調べモノか?」
 オルの言葉を全く無視し、鈴木はまったく関係ない質問をする。オルの方も特に気にするでもなく、「ボクの家の側にある大木が、いつごろからあんなへんな曲がり方してるのか調べてたのさ」と答えた。

 オルは吹けば飛びそうな小さな会社のビジネスマンであったが、裏では情報屋という職業も兼ねていた。
 しかし、どちらもろくに仕事してないというのが鈴木の評価である。
 会社はサボりまくっているし、情報屋に知ったって優れた情報能力があるにも関わらず、彼が興味を持って調べるのは先ほどの大木だったり、近所に住んでいる頑固親父の鼻毛はいつ頃から伸び始めたのかという、とてもどうでもよいことだったりする。
 オルは不思議な人物だった。高い能力があるのは確かなのに、わざとそれを使おうとしない。
 鈴木はこの男と知り合って三年になるが、いまだに彼の本性をつかめずにいる。
 そもそも鈴木はオルの本当の名前も年齢も知らない。オルという名はオンルッカーという単語を縮めた彼の偽名だ。
 傍観者という意味らしいが、傍観者を名乗るわりにオルはあっちこっちにちょっかいをだしては、場をめちゃくちゃにするというはた迷惑な人物であった。
 ただ、鈴木としては別にオルが何者かどうか知らなくても、とくに問題はないと思っている。
 少なくとも周りの人間よりは、この風変わりな男を気に入っていた。




「あら、ミスター鈴木じゃない。奇遇ね」
 オルと共にホテルから出た後、身なりのいい老婆が鈴木に声をかけた。彼女は鈴木が住んでいるアパートの大家である。
 鈴木は再びフードを被ると、目線は合わせず、頭だけ下げた。
 人間、とくに女嫌いで、すぐ人に「死ね」と言うのが口癖の鈴木だが、この大家にだけは態度を軟化させている。
 彼女の機嫌を損ねて、アパートを追い出されると、また住むところを探さなければならなくなる。それがとてつもなく面倒というのが理由の一つ。
「娘が一杯林檎を送ってきたの。良かったら食べてね」
 老婆は微笑みながら、甘酸っぱい香りのする紙袋一杯に入った林檎を鈴木に差し出した。
 こうやって、時折食べ物をお裾わけしてくれるのが、もう一つの理由だ。
 鈴木は黙って林檎も受け取った。礼もなしだが、老婆が機嫌を害した様子はない。むしろ、ニコニコとして、鈴木とオルを交互に見やった。
「よかったら、そちらの恋人さんとどうぞ」
「は?」
 彼女はオルを見て言ったが、どう考えてもオルを形容するにはおかしい単語に鈴木は首を捻る。
 しかし、大家は鈴木のそんな反応には気づかなかった。
「せっかく二人でデートしてるのを邪魔しちゃ悪いから、私はそろそろ行くわ。二人ともいつまでも仲良くね。喧嘩しちゃだめよ」
 老婆はホホホと上品に笑い、その場を去っていった。完全にその姿が見えなくなると、鈴木は眉を顰め、オルを見やる。

「おれとお前はいつから恋人同士になったんだ?」
「あっこから、二人一緒に出てきた時からでしょ」
 オルが後ろを指差す。その先にはけばけばしい色のいかにもその手を施設ですといった風の建物。
「ああ……」
 先ほどまで自分たちがいた場所を思い出し、そりゃ誤解されるわなと鈴木は納得した。しかし、だからと言って特に気にしなかったが。
 実はしょっちゅう二人一緒に行動しているため、周囲の人間には大家と同じような認識を持たれていることをオルは知っていたのだが、特にそれについて言及することはなかった。
 理由はただ一つ。どうでもいい、それだけだ。
「腹へった……」
 カップル疑惑についてすでに興味をなくした鈴木は、先ほどから煩く自己主張する腹を押さえる。
「何か作る?」
 料理の腕に自信のあるオルが鈴木に尋ねた。
「カレーライス」
「了解」
「あっ、言っておくが、カレーライスというのはルーツはインド、それをイギリスが自国式に改良し、それが日本に伝って独自の進化を遂げた、ちゃんと炊いた米の上にカレールウを乗せたものであって、けして魚の鰈を飯の上に乗っけたものではないからな」
 驚くほど早口でべらべらと、鈴木はオルに対して忠告する。きちんと釘をさしておかないと、どんな料理を作るのか分からないのが、オルという男だった。
 実際、鰈ライスは過去に出てきた前科がある。
「随分と注文が多いことで」
 オルはそれだけを言うと、再び「了解しました」とどこかのシェフのようにお辞儀した。






「この国では同性婚は法律的にオッケーだっけ」
 鈴木の部屋で、出来上がったカレーライスを皿によそおいながら、オルが鈴木に尋ねた。鈴木は一瞬何のことかと思ったが、すぐに先ほど大家が言った話題を引っ張っているのだと気づく。
「出来たはずだけど。お前が望むなら籍いれてやろうか?」
 いつもの仏頂面で軽口を叩く鈴木に、オルは「遺言に君の全財産をボクに譲ると書いてくれるならすぐに」とこちらも無表情で返した。
「お前にやるぐらいなら、どっかの慈善団体に全額寄付するね」
「それは偉いね。君の人生の中で唯一の善行だ。死んだ後の話だけど」
「死んでからも迷惑を掛けそうなお前よりかマシだな」
 いつものくだらないやりとりをした後、鈴木はカレーを口に運んだ。途端に舌や咥内をつらぬく刺激に顔を顰める。
(しまった……辛さについて言っくの忘れた)
 今気づいたのだが、カレーが入った鍋はでかいのと小さいの二つある。自分用と鈴木用にわざわざ辛さの違うやつを作ったのかと、無駄な嫌がらせの努力に鈴木は呆れを通り越して、むしろ感心する。
 しかし、激辛ではあったのだが、食えないほどじゃない。自身の味覚耐性の高さに感謝しつつ、腹を膨れさせることが何より重要だったので、鈴木は文句を言わず、黙黙とカレーをたいらげていった。
 ちなみにオルが鈴木に用意した激辛カレーはゆうに五人前を超える量だったのだが、それが余ることはまったくなかった。




「何か、鈴木と結婚するかしないかという話になりましてね」
 翌日、自身の会社で、オルは書類に目を通している課長に向って話しかけた。
「したきゃ、すれば」
 書類から目を離さず、課長は気のない返事をする。鈴木には彼も会ったことがあって、その性別も知っているのだが、そこに課長が突っ込むことはなかった。
 好きにしてくれとも思ったが、一番彼の胸を締めていた思いはとてもどうでもいいという事だった。
「彼は金持ちなんで、こういうのも玉の輿って言うんですかね?」
「さあな。どうでもいいけど、家庭持つなら、もうちょっと真面目に働いてくれ」
「向こうが家事苦手なんで、家庭に入るかも知れません」
「そっちの方が、会社にとってはいいなー」
 ハハハと課長が乾いた笑いを漏らす。しかし、相変わらず視線は書類から動かさなかった。
「もし、そうなったら課長が仲人してください」
「ヤダよ。つか、いい加減自分の机に戻って仕事しろ」
「あっ、そのことなんですけど。諸事情により、早退しますね」
「へー……って、ちょっとまて!」
 うっかり聞き流しかけた部下のサボり宣言を、課長は書類を置き、慌てて止めようとする。
 しかし、いつの間にか彼のベルトと椅子の背が紐でつながれていたために、体のバランスを崩し、床へと転ぶ。
 次に視線を戻したときには、すでに彼の部下は姿を消していた。