傍観者の話

――午前――

 あるオフィスの一室。
 二人の男が互いに向かい合って座り、話し合っていた。どうやら、何かの商談をしているらしい。

「この内容では話になりませんな」
 やせ細った白髪交じりの神経質な中年男性は、手に持っていた書類を無造作に取引相手であろう青年の前に突っ返した。
 男の態度からは明らかに青年を小ばかにしていることが読み取れる。
「そうですか。分かりました」
 取引相手である青年は怒りも慌てる様子も見せず、平然とした表情で書類をカバンに仕舞った
 ビジネスは諦めないことが大事だ。たとえ、困難に見えても必死で喰らい付いていけというのが、青年の上司の口癖だった。
 しかし、0%をいくら倍にした所で、ゼロはゼロというのが青年の持論である。
 相手方は最初からこちら相手にまともな商談をする気がないということを、青年は見抜いていた。
 向こう側からしたら、吹けば飛ぶような弱小企業の一般社員なんか取るにならない存在なのだろう。会社ごと無視した所で問題ないと思っている。
 しかし、そんな弱小の平である人間がアポとれるくらいなのだから、この無駄に偉そうな取引相手も大した人物ではないのだが。
「じゃあ、今日のところは帰ります。 あっ、これよろしかったらどうぞ」
 青年は鞄から一枚の紙切れを取り出し、テーブルに置く。紙に書かれてあった内容を見て、取引相手は顔を顰めた。
「何だ、これは?」
 青年が渡したのは幼児用の玩具のチラシだった。そこに載っている玩具の種類からして、男の子向けのものだ。
 取引相手が不審そうな表情を見せたのも無理はない。男の周りには、このチラシのターゲットになるような人間はいなかった。
 彼の家族構成は青年も知っていた。妻と十九歳と十五歳の娘が二人。だたし、これは表向きの話である。
 周りには青年と取引相手以外誰もいなかったが、青年はわざと声を潜め、こう囁いた。
「確か、もうすぐ誕生日なんでしょう? 五歳になる息子さんの」
 その言葉に取引相手は驚愕に目を見開く。その事実は己の家族すら知らない事だったからだ。
「い、一体、何を言ってるんだ! どこでそれを知った!」
 誤魔化そうとしているくせにあっさりと墓穴を掘った取引相手をよそに、青年は素早く荷物を纏めると、素早く立ち上がってドアの前へと移動する。
「じゃ、失礼しまーす」
「おい、待てっ……!」
 取引相手の制止に聞く耳持たず、青年はさっさとドアを開けると見事なくらいの逃げ足でその場から消え去った。




――正午――

 初夏の爽やかな空気が気持ちのよい昼間。緑溢れる小さな公園の芝生の木陰で、青年は寝転がっていた。
 頭上は雲一つない快晴で、心地よい微風が彼の黒髪を撫でる。昼寝をするには絶好のコンディションだ。
 しかし、眠気はやってくるのだが、空腹を知らせる腹の音と彼が取引先を出てからひっきりなしに何度も鳴る携帯の着信音が、青年が睡魔に誘われるのを妨げる。
 そして、また携帯が煩く自己主張始めた。電話を取ることなく即座に切ると、マナーモードに設定する。
 それで、安眠妨害の原因の一つは取り除けた。しかし、もう一つの原因である空腹はどうようもない。
 適当に何か食べるかと、青年は財布を取り出し、中を確認する。
「あ〜らら」
 中身は数枚の小銭のみというあまりにも寂しい光景だった。ちなみに彼の給料日はあと二週間も先である。
 青年は暫しの間、熟考する。
(少し遠出するかな)
 ゆっくりと立ち上がると髪についた草を払い、青年はゆっくりと歩き始めた。




――午後――

 窓のガラリと開く音で、リア・キリングスは書類から目を離し、顔を上げた。

「お邪魔します」
 変なチェック柄の紺のスーツを着た男が窓を乗り越え、部屋へ侵入してくる。一見すると泥棒か強盗かとも思うが、リアはそうではないと知っていた。むしろ、その類の連中の方がまだ面倒ではなかったと、軽くため息をつく。
「何でいつも窓から入ってくるんかねぇ。お前は」
「玄関から入るより、こっちの方が早いじゃない」
 チェック柄のスーツの男はそう言うと、家主の了承も得ずに近くにあったソファーに勝手に座る。
 ちなみにリアの拠点のひとつであるこの部屋はアパートの五階にあり、男が入ってきた窓の周りには階段もろくな足場もないのだが、リアは敢えてそこには突っ込まなかった。
「で? ご用件は?」
 邪険にするような物言いでリアが問う。
「えーとね、か、」
「あ、金なら貸さねぇからな」
 男が言い終わらない内から、リアは釘を刺した
「自分から聞いといてそれは酷くないかい? ボクのガラスのハートが砕け散った」
 男は両手を広げ、オーバーリアクションをとり、リアを非難する素振りをするが、その口調はまったく抑揚のない棒読みで、顔には一切の表情を浮かべていなかった。
 そんな男の態度にも慣れていたので、リアは別にムカつきもしなかった。ただし、「厚さ50cmの防弾ガラスのハートだろ」と皮肉は返したが。
「まず、今まで貸した金を返してからモノを頼みやがれ。今までお前にいくら貸してっと思ってんだオル」
 リアがそう冷たく言い放つと、オルと呼ばれた男が両手を組んでう〜んと唸る。
「いくらだっけ? 忘れた。 ま、今度ギャンブルに勝ったら返すよ」
「弱い癖にギャンブルするから、借金する破目になるんだろうが」
 オルが金欠に陥る大きな要因として、彼がギャンブル癖を持っていることが挙げられた。
 運命の女神にそっぽ向かれているためか、オルに金運はまったくない。それなのに大金をかけるから、財布はすぐにすっからかんになってしまう。ごく稀に馬鹿勝ちすることもあるが、結局得た金も次のギャンブルにつぎ込むので、当たり前の如く金欠からは抜け出せなかった。
「だって、うちの会社給料が安いんだもん」
「安月給なら、尚更ギャンブルするんじゃねぇっつーの」
「ギャンブルと借金って麻薬みたいなもんだよね。とめられない、やめられない」
 ああ言えば、こう言う。オルという人間は柳に風を受け流すような男だった。要するにまともに相手するだけ無駄だ。
 常に金がなく、多数の借金取りと仲良くしているオルは、リアにも多額の借金があった。
 何故、リアがただのビジネスマンに金を貸しているかといえば、それはリアがオルに一応の利用価値を感じているからだ。

 オルのスーツの胸ポケットから突如振動音がなる。オルは携帯を取り出すと、画面を見ずに携帯を切った。
「今月まじしんどくてさー。人命救助と思って。 あっ、これ食べる。近所の日本人が通販で買った大判焼き」
 携帯を再びポケットにしまい、オルはカバンから包み紙を取り出した。包装を外すと、小麦色の美味しそうな菓子が姿を現す。
「人命救助なら、もっと世の中の役に立つ奴を助けるね」
 リアは大判焼きを一つ手にとり、かぶりついた。
「ボクだって何かしらの役には立ってるでしょ。多分」
「むしろ、消えた方が世のためじゃね?」
 特に興味なさげにそう言い放つと、口に残った大判焼きを喉に流し込み。リアは煙草の箱を手に取る。
 そして、煙草ケースから一本取り出すと、口へと咥えた。
「甘党にヘビースモーカーって、健康志向の世と逆走してるよね。せめて、煙草止めたら?」
「お前だって喫煙者だろ」
「いや、禁煙してる」
 健康のためにねとオルが威張るように言った。表情は相変わらず無表情だが。しかし、オルは西へ走れと言われたら、一直線に東に走るような性格をした男であり、一言で言えば捻くれ者である。
 煙草を止めているのは健康のためではなく金がないからだろと、心の中でリアは指摘する。さらに減らず口が返ってくるのは勘弁して欲しかったので、声には出さなかった。
 煙草の箱をテーブルに置くと、リアはポールハンガーから上着を取る。そして、そのままドアへと向った。
「あれ、出かけるの?」
「ああ、ちょっと野暮用があってな」
「ボクの用事はー?」
 もくもくと大判焼きを食べながら、オルが気の抜けるような声で問う。リアはそちらを見もせず、渋い顔でドアノブを回した。
「知るか。つか、お前まだ仕事中だろ。さっさと帰れ」
 バタンと扉が閉まる音がした後、辺りは静寂に包まれる。
 オルはドアと空になった大判焼きの包み紙を交互にみやり、その後大きなあくびをして背を伸ばした。
 胸辺りに何かが震えているのを感じる。オルは携帯を取り出し、切った。
「寝るとするかな」
 携帯をテーブルの上へおく。そして、ソファーへと身体を横たえた。


――午後2――

 鼻歌を交えながら、ディアスはかろやかにアパートの階段を上っていた。行き先はリアの拠点。今回はディアスが勝手に押しかけたのではなく、向こうからの呼び出しだ。
「おーい、リア。来たぞー」
 チャイムを鳴らし、己の来訪を伝える。返事は返ってこなかったが、気にすることなくディアスは玄関のドアを開ける。
「でっ!?」
 部屋に足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできた光景にディアスは驚愕した。紐でつながれた鉄のダンベルが振り子のようにこちらに向ってくる。このままでは顔面直撃コースだ。
 ディアスは咄嗟にスーツからナイフを取り出し、素早く紐を切断した。鈍い音を立て、ダンベルが床に落ちる。ダンベルと正面衝突する悲劇は逃れたが、実はまだ危機は去っていなかった。
 ディアスからは見えなかったのだが、実はダンベルを結んであった紐は天井に取り付けられたフックを通して、宙に吊り下げられているバケツと繋がっていた。
 そんな状況で紐を切ったらどうなるか。ダンベルという重りを失ったバケツは、ニュートンが重力という存在を発見する切欠となった林檎と同じように下へと落下した。
 その落下地点にあったのはディアスの頭。
「だっ!」
 さすがに今度は避けきれず、見事頭上にバケツが直撃した。
 衝撃や痛みはさほどではなかったのだが、バケツには大量の液体が入っており、ディアスは頭からそれを被る破目となってしまった。さらに悪いことに、液体は水ではなかった。
「うえー、何だこれ」
 ぬるぬるとした液体がディアスの上半身をしとどに濡らす。顔にかかった透明な黄金色の液体をディアスは手で拭うと、ぺろりと舐める。
 わりと料理に精通している彼は、瞬時にその正体に思い当たった。
「オリーブオイル……?」
 こんなふざけた真似が出来るのは、この部屋の持ち主しかいない。何かリアの気に触ることをしたかなーとディアスは記憶を辿る。
 心当たりはない……わけではなかったが、こんな子供じみた嫌がらせをリアがするのかといえば、甚だ疑問だった。
 首を捻りながら、ディアスがリビングに入ると、ソファーから覗く黒髪が目に入った。
「おい、リア! これどういうことなんだ……」
 ディアスが大また歩きでソファーに近づいていったが、そこで寝ていた人物の全体が目に入った途端、足が止まった。
 その人物はリアと同じ髪の色・体格をしていたが、その顔立ちはどう見たってリアのものとは違っていた。
「誰だよ、こいつ……」
 怪訝そうな表情をして、ディアスは腰を落とし、正体不明の男の顔をじっと見つめる。
 顔立ちは東洋系。年はディアスよりも下に見えるが断定は出来ない。実年齢と外見が解離しているこの家の持ち主という例をディアスは知っていた。
 そうでなくても、向こうの人間は歳より幼く見えがちだ。
 リアの依頼主辺りだろうかと考えていると、テーブルが微かに震動する。ディアスが後ろを振り替えると、テーブルの上にあった携帯が震えていた。暫く携帯は音を立てていたが、やがて静かになる。
 ディアスは再びソファーの男に視線を戻した。

 先程まで寝ていたはずの男の目が開いている。出口の見えないトンネルを思い起こさせる漆黒の瞳がディアスの姿を捉えた。
「お休み」
 男はそれだけ口にすると、再び目を閉じた。
「……おい」
 安らかな寝息を立て始めた男に、ディアスは思わず眉を顰める。
「だって、別に目の前に殺人鬼がいたら慌てなくちゃいけないという法律はないし」
「はっ?」
 目を瞑ったまま、ぼそっと呟かれた男の言葉に、ディアスは目を丸くした。
 男が言ったことは間違ってはいない。しかし、重要なのは言葉の真偽ではなく、男がその事を知っていると事実だ。
 ディアスの本性を知る人間はごく限られている。普段の血まみれのスーツを見れば、ディアスを知らなくてもその本性はまる分かりだ。しかし、今の服は血ではなく、油で濡れていた。
 その姿から読み取れるのは変人であるか、何か災難に巻きこられた不幸な人という程度だろう。
 ディアスの疑念を感じ取ったのか、男は相変わらず瞼を閉じたまま、ゆっくりと口を開いた。
「ファン・ディアス。歳は30。南イタリア出身。親は農場経営者で五人兄弟の末っ子……」
「なっ……」
 男はべらべらとディアスの素性について語り始めた。呆気に取られるディアスに構わず、男はさらに話を続ける。
「表向きの職業は無職。裏では殺し屋。殺人癖がある。そして、やり手青年実業家サルヴァトーレ・バルディーニ氏とは幼馴染みの間柄」
「……っ!」
 最後に出た名にディアスは驚愕に顔を歪め、ナイフを手に取った。
「なにもんだ、テメェ」
 低い声で威嚇しながら、ナイフを男に向ける。じわりと滲み出る殺気を感じ取りつつも、男は顔色一つ変えずにゆっくりと起き上がった。
「オル・ディッカー。29歳。身長は174.2cm。会社に出した履歴書ではそうなってたはず。詳しくは覚えてないけど。あっ、身長はこの前健康診断で測ったばっかりだから合ってるよ」
 再び、テーブルの上の携帯が震動する。オルは機械的な動作で電話を切ると、携帯を胸ポケットにしまった。
「弱小企業に勤めるただのビジネスマンさ」
「ただのビジネスマンが何でここにいるんだよ」
 ディアスは訝しげな視線をオルに送る。
「ああ、それそれ。金貸して貰おうと思ったのに、薄情でさぁー。貸してくれなかったのよ」
「金ぇ? あいつがお前にか」
「うん。逆はないからそうなるね」
オルはこくんと頷く。ディアスはオルの話をどう捉えていいのやら分からず、困惑した表情を浮かべた。
「一般人らしきお前に、あいつが金を貸すのか?」
 リアは用心深い男だ。趣味のため、一般人に近づくことは合っても、普段は闇に隠れ、姿を見せない。ましてや、自分の拠点の一つに侵入を許すなんて……
「そこはまあ、一応ボクも裏の顔があるのさ」
 ディアスの疑問の答えるかのように、オルが喋った。
「自称情報屋なんだよ」
「情報屋ねぇ……」
 なるほど。これでオルがやたら自分の素性に詳しかった訳が分かったと、ディアスは合点する。
 が、同時に別の疑問が浮かんだ。
「なら、別に金借りなくても、情報売ればいいんじゃねえの?」
「だって、情報売らないもの」
「はい?」
 情報屋の商品は言うまでもなく情報だ。それを売らないとはどういうことかと、ディアスは不審の目でオルを見た。
「あっちこっち歩き回って集めたんだよ。金ごときで売ってたまるか」
「……それでよく情報屋名乗ってるな」
「あくまで自称だし、副業だから。本業はリーマン」
 ディアスの当然のツッコミにも、オルは涼しい顔で受け流した。
「でも、例外的にリアには情報流すよ。金借りてるから」
「ああ、そういう事……」
 疑問は解けたものの、ディアスはどうにも釈然としない気持ちだった。リアとは違った意味で、目の前の人物がよく掴めない。
「だから、ギブ&テイク。持ちつ持たれつなんだけど、今日は貸してくんなかったのさ」
 オルはわざとらしく頬を膨らませて不満げに言うが、顔は無表情のままなのでアンバランス極まりなかった。

「当たり前だろ。馬鹿」
 玄関方面からオルとディアス以外の声が割り込む。この家の主のものだ。
「おっ、リア。帰ってきたのか」
「お帰りー」
「……何だディアス。その格好」
 リビングに入ってきたリアは、オリーブオイルまみれのディアスを見て眉を寄せた。
「どっかの薄情な人が金貸してくれなかったから、ちょっと仕掛けしてたんだけど、別の獲物がかかっちゃった」
 ディアスの代わりにオルが答える。
「これ、お前の仕業か!」
 自分に降りかかった災難の元凶を知り、ディアスがオルに食ってかかる。しかし、オルはもう数えるのも面倒になる再三の電話の呼び出しを切っており、ディアスの方にそっぽを向いていた。
「だから、まず金返せ。あと、何がギブ&テイクだ」
 リアの言葉に、オルはきょとんとした表情を作る。
「ちゃんと情報渡してるでしょ」
「気が向いた時に、真偽の分からない情報をな」
 しかも、情報がガセかどうかはリア自身が確かめなければならない。リアは乱暴な手つきでハンガーに上着をかける。
 まったくふざけているとしか言えない自称情報屋とそれでも付き合いを持っているのは、自身も情報通であるリアの知らない情報をオルが握っているからだった。
「あいつ、一体何なの?」
 ディアスがリアの側により、そっと耳打ちした。
「おれの方が聞きてえ」
 リアとディアスが会話しているのをよそに、オルの携帯の振動音が部屋に響いた。例によってオルは即座に切る。
「いい加減、電話取れ! 耳障りなんだよ、何度も何度も!」
 リアがオルに向って怒鳴った。
「だって、どうせ誰からかも用件も分かってるし……」
 言っている傍から、携帯がまた震える。とうとうオルはしぶしぶ電話を取った。
「はい、もしもし……」
「オル、テメーー!! 何度電話かけたと思ってんだーー!!!」
 通話口から中年男性のもの凄い怒鳴り声聞こえた。リアとディアスの所までその声が耳に入ってきたことからして、通話相手が相当怒っていることが分かる。
 オルはといえば、平然な顔して携帯の画面をみたあと、再びそれを耳に当てた。
「履歴によると32回ですね」
「数を聞いてるんじゃねー! 今、どこにいる?」
「えーと……」
 オルはリアとディアスを見やった。
「猟奇殺人者と元爆弾犯とで談笑してます」
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと会社に戻って来い!! いいなっ」
 話し相手は一気に捲くし立てると、一方的に電話を切った。
「嘘は言ってないのにね」
「良いから、早く会社戻れよ。社会人」
 リアがうんざりした様子を隠そうともせず、オルに言う。
 しかし、オルはうーんと渋った。
「今から会社戻っても何もする気になれないんだよねー。というか、皆ボクが居ないの慣れてるし……」
「それでよく首にならないなーお前……」
 ディアスが心底呆れたように呟いた。
「社長とさ、婿養子だと外の女性に癒し求めるのもこそこそとやらなきゃ行けないから大変ですねって世間話したら気に入られちゃって」
「脅迫じゃねーか」
 やれやれとディアスは肩を諌め、リアの方に乾いた微笑を向けた。
「リア。お前の知り合いって変なのしかいねーのな」
「お前、筆頭にな」
「ひっでえ! おれ、真面目に仕事こなしてるでしょー」
「真面目なら、余計なトラブル起こすな。依頼やらねえぞ」
 どいつもこいつもと、リアは苛立たしげに椅子に座る。
「そんな事言って。最近はよくおれを指名してくれるじゃん」
「近頃、シエルがつかまらないんだよ。だから、仕方なくな」
 シエルの所在はつかめない上、リアが彼に電話を入れても出ることはなかった。シエルに頼む依頼は必然的に難易度が高くなるので、その代役を探すとなると相当の腕が求められる。
 選択肢はほとんどないも同然だった。
「シエルが? 誰かに殺られちまったとか?」
「んなわけねえだろ。毎年、この時期になるといつもだ」
「実はそのシエルさん。今、驚くほどこの近くにいたりする」
 リアたちの話に突如オルが口を挟んだ。
「なら、こっちに姿を現せばいいのにな」
 こういう時の情報は本当だろうと、リアがそうオルの言葉に返した。
「そこらの埃以下の存在としか思われてないのに、わざわざ彼が君に会いにくると思ってるなんてびっくりだ」
「自覚はしてるが、改めてそれをお前に言われるなんてびっくりだよ」
「まっ、あと一週間は無理だね。諦めな」
「……何か知ってるのかお前」
 リアがオルを見やるが、闇より黒いその瞳は何の光さえ映さず、思考も感情も読み取れなかった。
「教えたら、金くれる?」
「やなこった」
「ケーチ」
 じゃあ、教えないと舌を出すと、オルは壁にかけてある時計をみた。ここに来てからゆうに三時間以上は経過している。
「あっ、もうすぐ就業時間が終わる。じゃー、ボク帰るねー」
「最初から帰れって言ってるだろ」
 オルは鞄を手にとると、急いで玄関の方へ向う。
「アディオス!」
 バタンと扉がしまると同時に、リアは深く息を吐いた。

「わけわかんねぇやつだなー。とりあえず、遠くから見てる分には楽しそうだが、関わるとなると疲れそうだ」
「適切な人間評価だぜ、ディアス」
 リアは先ほどからあちらこちら動き回り、そこらのものを慎重にチェックしていた。
「何してんの、お前?」
「いやな。あいつが来ると、わりと面倒なことになる……」
 リアの目に、外出する際テーブルの上に忘れていった煙草の箱が目に止まった。
 そこから一本取り出すと、口には咥えずに煙草に火をつける。すると、ボンという音と共に煙草が破裂した。
「こんな風にな」
 粉々になった煙草をディアスに見せつけ、リアがうんざりしたように言う。
「うん、なるほど。これはめんどくせー」
 こんな奴を雇っている会社も可哀想にと、ディアスは名もしらない企業に心の底から同情した。




――夕方――

「あ、先輩。お帰りなさーい」
 就業時間ぎりぎりにようやく会社に戻ったオルを、後輩である女性社員が笑顔で迎え入れた。
 オルはそっけなく「ただいま」と返すと、自分のデスクの上に鞄を置く。
「課長が探してましたよ。なんか、すっごく怒ってました」
「ふ〜ん、そう……」
 後輩の言葉に、オルは興味なさげに空返事を返す。後輩が誰かに呼ばれ、その場を離れると、オルは床にしゃがんで何やらし始める。

「オル、テメー! 今更戻ってきやがって」
 自分の名を呼ぶ声にオルは立ち上がった。茶髪の中年男性が怒り心頭の様子でこちらに向って来る。オルの上司であり、何度も携帯でオルを呼んでいた人物だった。
「戻れっていったの、課長でしょー」
 荷物をまとめ、帰る準備を整えながら、オルは返事をした。
「取引が終わったらすぐにって言ってただろうが! それよりお前、何をやらかしたんだ。向こうの担当から苦情の電話がかかってきたんだぞ!」
 課長の言葉で、そんなこともあったねとオルはすっかり忘れていた取引相手の顔を思い出した。
「別にー。ただ世間話はしてただけですよー。あ、もう仕事時間終わったんで帰りますね」
「あっ、てめえ! 待て、このやろー」
 帰宅しようとするオルを、課長は走って追いかける。
「足元見ないと危ないっすよ、課長」
 オルの忠告が終わると同時に、課長が彼の視界から消えた。 視線を下にやれば、盛大にコケ、床にキスをする課長の姿が目に入る。彼の足元の方に目を移すと、オルのデスクと別のデスクの足が紐で結ばれていた。
 当然、オルの仕業である。
「あーあ、遅かった。じゃ、サヨナラー」
 オルはさっさとその場を後にする。後ろから自分を罵倒する声が聞こえたが、当然の如くオルはそれを無視した。




――夜―― 

 ひんやりとした夜道を、シエル・ボーネットは一人歩いていた。彼の表情はいつも暗いが今の時期はことさら重かった。
 ふと、シエルは足を止める。突如現れたスーツ姿の男がすぐ目の前に立っていた。
 今の今まで気づかなかったことにシエルは動揺する。職業柄、人の気配には敏感だ。
 しかし、眼前の人物は確かにそこにいるはずなのに、周りの闇と同化しているかの如く存在感を感じなかった。
「ボン・ソワール、シエル」
 男は抑揚のない口調でそう言うと、シエルの方へ近づいてきた。
 この男にはシエルも一度会っている。名は確か……
「オンルッカー……」
「正式名称で呼ぶ人久しぶりだなー。別に正式ってわけでもないけど」
「何の用だ?」
「別に用はないよ、たまたま会っただけ」
 意図的に表情を消しているシエルとは違い、最初から表情がないかのように、オルはいものぽけーとした顔で返答した。
 オルの真意がつかめず、シエルは怪訝そうに眉を顰める。いまひとつ、オルの正体も掴めずにいた。情報屋だったようなそうではなかったような……彼を紹介したリアの説明もかなり曖昧だったのだ。
「用がないのなら、おれは去るぞ」
 あまり人と接したくなかったので、シエルはその場を去ろうとする。
「別にいーよ。あっ、そうそう」
 そんなシエルをわざとらしくオルは呼び止めた。
「何だ?」
「エレナへの冥福は祈り終わった?」
「!?」
 他人の口から出るはずもない名前に、シエルの心臓が大きく跳ねた。驚愕の表情を浮かべ、シエルはオルに鋭い視線を向ける。
 オルは一切表情を変えることなく、さらに話を続けた。
「六年前の今頃。ある小さな町の新聞にある記事が載った。その町で起こった殺人事件の記事だ。被害者はヴィタリー・マリノフスキー71歳とその孫エレナ22歳。加害者はアレッサ・ボーネット20歳。二人を殺した後、銃で自殺。新聞に載ってた事実はここまで」
 シエルの脳裏にあの忌まわしい出来事がフラッシュバックする。血で濡れた花畑、横たわるエレナ、アレッサの最後の言葉……
「でも、周りの証言によるとマリノフスキー家には一人の男性がいた。黒髪で緑色の目の端正な顔立ちをした青年。地元警察はその青年を捜したが見つからず、犯人も死亡しているため捜査は打ちきられた」
 淡々とした口調で話すオルに対し、シエルは厳しい表情で黙って話を聞いていた。
「ああ、ついでに言っとくと、ヴィタリーが管理してた花畑。今は荒れ果てた空き地になってるよ」
 きつく奥歯をかみ締め、視線だけで殺せそうな勢いでシエルはオルを睨む
「何が目的だ」
 怒りを伴った地を這うような低い声。しかしオルは動じず、肩をすくめた。
「だから別に何も。ボクはただのオンルッカー、傍観者だから。何をする気もないよ。だから、安心しな。リアに言うつもりもないから。この情報集めるのにかなり苦労したしね」
 珍しく作り笑いを浮かべオルはそう言ったものの、シエルの警戒は当然解けなかった。
「しかし、律儀だねえ。毎年、毎年。命日近くになると一切仕事とらないの」
「黙れ」
「やっぱ、嫌? 恋人が死んだ日に人殺すの」
「黙れと言っている!」
 静かな夜を切り裂くように、シエルの叫びがこだまする。激しい怒りとそこに見え隠れする悲しみを翡翠の目からオルは読み取った。
 仮面を一枚剥げば、目の前の男は泣くに違いない。でも、おそらくシエルは己が泣くことすら許さないだろう。
「幽霊って見たことある?」
「な、に?」
 突拍子もなさ過ぎることをいきなり言われ、シエルは瞠目した。
「天使や悪魔の存在や死後の世界を信じる?」
「何が言いたいんだ、お前は」
 馬鹿にしているのかと苛立ちを隠そうともせず、シエルはオルに詰め寄った。
「人間死んだら何も出来ないものでしょう。だから、死んだ人間がどう思ってるかなんて誰にも分からない。幽霊にでもならない限り。それなのに、人は勝手に恐れるよね死者をさ」
 こつこつと靴音を立てながら、オルは語る。誰に聞かせるわけでもなく、ただの一人ごとのように
「幽霊も天使も悪魔も死後の世界も信じてなかったら、君が感じてる死者の思いは君の頭の中で勝手に作りだされたものじゃないの? ねえ、シエル」
「……っ!」
 オルの言わんとしていることを何となく悟って、シエルは口を開きかける。しかし、何も言えなかった。なぜなら、オルの触れている事はシエルの存在意義そのものだったからだ。それはシエルにとって開けてはいけないパンドラの箱。しかも最後に残されるのは希望ではなく、絶望だ。
「まあ、分からないってことは、それが是か非か判断が下せないということでもある。だから、君が間違っているとは誰にも言えない。そこは君のお好きな通りに」
 そうシエルに告げると、オルは闇へと紛れ姿を消す。
「でもまあ、難儀な生き方してるね」
 最後にそれだけ言い残すと、オルの気配も姿も完全に消えていた。




――深夜――

 くしゃくしゃの黒髪に眼鏡をかけた青年――鈴木は真っ暗な部屋の中、ひたすらパソコンと向かい合い、キーボードを打っていた。
 コミュニティサイトに挑発的な言葉を書けば、あっという間に掲示板が炎上する。人が躍らせられるのはリアルでもネットでも一緒だなと鈴木は漠然と考えていた。
 コンコンと窓ガラスが叩かれる音に、久しぶりにパソコン画面から目を離す。
 無視してもよかったが、それをやると、次に聞こえて来るのはガラスが割れる音だと知っている彼は億劫そうに立ち上がり、窓の側へいくと鍵を開けてやった。
「夜分にお邪魔します」
 夜の闇に溶け込みそうな黒い目と髪をした男が、窓から部屋に入ってくる。鈴木は特に何も言わず、また椅子に座り、パソコンに向かい合った。
「暗い中でパソコンやると目悪くなるよー」
 男はスーツの上着をその辺に放り投げると、鈴木に向って声をかけた。
「視力は遺伝による所が大きいんだよ。目の良さと遺産を残してくれたことについては親に感謝している」
 パソコンから目を離さず、鈴木がそう返した。
「ふーん。何か今日変ったことはあった?」
「おれが買った大判焼きがちょっと出かけた隙になくなってた」
「鼠に食われたんだね。滅多ない外出の時を狙って」
「ああ、でかい上にタチの悪い鼠にな」
「害虫駆除でも頼む?」
「今、駆除しようかと考えてる」
 長時間同じ体制をしているために凝り固まった肩を軽く揉むと、ようやく鈴木は男の方へ顔を向けた。
「で、用件は?」
 鈴木が問うと、男はかすかに笑った。実際はほとんど変わっていないが、鈴木にはそう見えたのだ。
「もう暗くなっちゃて、今から自宅帰るの面倒だから泊めて」
 予想どおりの答えを男が返す。
 この男――オンルッカーこと通称オルは、鈴木の顔なじみである。人間嫌いでほとんど外に出ない鈴木にとって、唯一リアルで交流のある人物だった。
 オルは常に金に困っていて、しょちゅう鈴木の家を訪れる。そして、家にあるものを勝手に使い、生活費を節約しているのだった。
 人間嫌いであるはずの鈴木が何故オルを家にいれているかといえば、彼も彼でオルが役にたっているからだった。
「いいけど。その代わり、何か夜食作れよ」
 オルは手先が器用で家事一般こなす。特に料理はかなりの腕だった。家事が嫌いな鈴木にとっては便利な存在だったのだ。
「パンでいい?」
「米がいい」
「りょーかい」
 オルはそう言うと、台所へと消えていった。

 数十分後、夜食は出来上がった。
 オルはパンとスープ。鈴木には生米が無造作に置かれている。「だって、炊けとは言わなかったじゃないか」ということらしい。腕が良くても、へそ曲がりな性格が全てを台無しにする。それがオルという男だ。
 それを知っているから、鈴木は別に怒らなかった。その代わり、オルのパンを勝手に一つ取り、口へと放りこんだ。




――数日後の朝――


「おはようございます課長」
 この会社の課長である男が出社すると、彼の部下が挨拶をする。ごく当たり前の光景に見えるが、課長はわりと驚きの表情を見せた。
「お前がこの時間に来てるなんて珍しいな、オル」
「そりゃ、ボクだってたまには就業時間前に来ますよ」
「そうか……って、毎日来いよ、馬鹿やろー!」
 この顔からしてやる気のない彼の部下は、遅刻・早退が常日頃当たり前になっている。上司である彼も諦めという慣れを感じつつあったが、本来なら許されないことだ。
 まったくの駄目社員であるこの男――オルが首にならないのはこの会社の七不思議のひとつであった。
 無駄とは分かっているものの、社会人たるものは何かということをオルに説教しようと課長は思ったが、その前に携帯がなってしまった。
 苦虫を噛み潰したような表情をしながら、彼は携帯に出る。
「はい、もしもし。 あっ、先日はすいません……。はい、はい……え?」
 課長は見るからに、困惑した顔をして電話を切った。
「どういうことだ……?」
「どうかしましたか、課長」
「いやな。この前お前が怒らした取引先がうちと取引したいといってきたんだ」
 あれだけ怒っていたのに、どういう心境の変化だと課長は首を捻る。その横でオルはいつもと変らぬポーカーフェイスで課長を見ていた。
「何かお前についても言ってた気がしたが、お前なんかしたのか?」
「いえ、別に。しいて言えば、息子さんの誕生日プレゼントについてアドバイスしただけですよ」
 別にオルは取引を強要したわけではない、向こうがヒミツの発覚を勝手に恐れただけの事である。
 それだけ言うと、オルは自分のデスクへと戻っていった。いまひとつ納得は言ってなかったが、まあ商談が纏まったならいいだろと課長も自分のデスクの椅子に座る。
 そして、何気に引き出しを開いた時だった。
「!?」
 中からぴょんと勢いよく何が飛び出す。驚いた課長はとっさに後ろへ身体をそらす。その結果、椅子がバランスを崩し、豪快に後ろへと倒れこんでしまった。
「イテテ……」
 強打した腰をさすりながら、課長は身体を起こす。すぐ側の床にはピエロの顔が書かれている紙の下にバネがくっ付いている物体が落ちてきた。先ほど飛び出してきたのはこれだったのだ。
 そして、ビックリ箱と同じ原理の仕掛けが自分の引き出しの中に仕掛けられていたことを、課長は理解した。
 犯人も分かっている。こんな幼稚な悪戯をするのは一人しかいない
「オルーー!!」
 部下の名を叫ぶ上司の声が、朝っぱらから会社中にこだました。