殺し屋と女医

 狭い路地にごちゃごちゃと並ぶ小汚ない建物。外はとても閑散としており、たまに会う人間の顔はどことなくくすんで見える。そんなスラム街を、シエル・ボーネットは紙袋を抱え、歩いていた。
 一件の建物の前で足を止める。周りと同じく壁にヒビが入り、薄汚れていた。ただ、その建物だけ看板が立てられている。
 「Dr,ジョセフ診療所」という文字を確認し、シエルは建物の中へと入っていった。

 中は外観と違い、綺麗にされていて、さまざまな器具や薬品が並ぶ様はまさに診療所という雰囲気だ。
「ジョセフ、いるか?」
「はーい、ちょっと待ってね」
 シエルが呼びかけると、奥の部屋から女性が出てきた。長い黒髪に眼鏡をかけ、白衣をきたその出で立ちは女医と呼ぶに相応しい姿である。彼女こそがDr.ジョセフ。この診療所の医師だ。ジョセフという名のせいで男性と間違われることが多く、シエルも彼女と会うまではDrを男性だと思い込んでいた。諸事情で偽名を名乗っており、本名は別にあるらしいが、シエルは特に気にすることもなく、普通に彼女のことをジョセフと呼んでいた。
「あら、シエル。久しぶり」
 ジョセフはシエルににっこりと笑いかける。そして、椅子を差し出し、シエルに座るよう促した。
「怪我はしてないようだから、今日はいつものやつ?」
 ジョセフが尋ねると、椅子に座ったシエルが頷く。彼女はここで貧しい人たちに格安で治療を施すとともに、シエルのような普通の病院にいけないような身分の者たちの治療も裏で請け負っていた。
 シエルも度々彼女の所を訪れている。ただ、シエルは怪我というよりも、睡眠薬や精神安定剤を貰いに来る方が多かったのだが。
「いくら、身体が丈夫とはいえ、無理しちゃ駄目よ。健康第一なんだから」
 カルテに書き込みながら、ジョセフがシエルに注意する。だが、それはまず自分が実践すべきだろうと、シエルはゴミ箱に大量に詰め込まれたインスタント食品の容器を見て思った。
 職業柄、ジョセフは器用なのだが、何故か料理は苦手で、加えて忙しいという理由から食生活はむちゃくちゃだった。
 まさに医者の不養生である。
「ジョセフ、これを……」
「あら、なーに?」
 シエルは持ってきた紙袋をジョセフに渡した。紙袋を開けると、香ばしい食欲をそそるパンの匂いが漂ってくる。
「あら、サンドイッチ。いつもありがとう、シエル。丁度、おなか空いてたの」
 ドクターは嬉しそうに微笑むと、さっそくハムチーズサンドイッチを一つ取り出し、頬張った。
 シエルも食べないかと勧められたが、首を横に振って断わる。
 治療のお礼にと、シエルはここを訪れる度、手作りの軽食をジョセフに差し入れをしていた。簡単な料理ばかりだが、味はなかなか美味しい。
「シエルの作る料理。どれも美味しいけど、サンドイッチが一番絶品よね。何かこだわりでもあるの?」
 ジョセフの言葉に、「マリノフスキー家に代々伝わる特製サンドイッチを伝授してあげるね!」と、シエルに作り方を手ほどきするエレナの笑顔が浮かんだがすぐに消えてしまった。
 顔を俯けたシエルに、ジョセフもそれ以上は聞かなかった。
「もうちょっと時間が会ったら、私も自炊するんだどねー。最近は不景気で患者が多くて」
「いつ来ても、ジョセフが料理をする姿は見たことないが」
「だから、もうちょっと時間があったらよ。医者は忙しいものなのよ。おかげで肌も荒れちゃってね」
 べらべらと他愛のないこと一方的に喋るジョセフの話を、シエルは口を挟むことなく聞いていた。
 シエルとの会話はとにかく自分が喋り続けないと終わってしまうことを知っているジョセフは、どんどんシエルに話しかけ続ける。果たして、これが会話と言えるのかは微妙なところだったが、両名とも特に気にもしてなかった。
 シエル自身もドクターと話すのは嫌いではなかった。数少ない心落ち着ける相手だ。
「コスモス……」
 ふと、机に置かれた花瓶が目に入った。必要なもの以外置かないジョセフにしては珍しいものだったから、気になったのだ。花瓶には数輪の秋桜が生けてあった。
「ああ、それ。近所の子供がくれたの。診察のお礼だって」
 シエルの視線に気づいたジョセフがそう説明する。
「だからか。そういうことがないと花なんて飾らないよな」
「まっ、失礼ね。花に興味はあるわよ。使い方によっては毒にも薬にもなるんだから」
 確かにそれは花への興味なんだろうが、自分が考えている方面とは違うとは空気を呼んで、口にしなかった。
 だが、聡いジョセフはシエルの心理を読んだらしい。むうっと膨れ面をし、残りのサンドイッチを口に頬りこんだ。
「どうせ、情緒とは無縁の女よ。それにどうにも苦手なの、花は」
「……? 何故だ?」
「綺麗だけど、あまりに儚いじゃない」
 ジョセフはそっとコスモスを撫でた。さっきは気づかなかったが、よく見れば、少し茎が萎れている。貰ってから大分経つのだろう。
「でも、儚さはある意味で救いなのかもね。自然に終わりを迎えられるから」
 シエルに渡す薬を袋に入れ、ジョセフがぼそっと呟いた。シエルは彼女の顔を見やる。いつもと変らない表情。でも、どこか憂いの雰囲気を感じる。
「まだ、続けてるのか?」
 人は生きている限りお金がかかる。それが例え屍と変らぬ状態であっても。希望などないと分かっていても、生ける屍の周りの人間は必死で支え続ける。その結果、経済的にも精神的にも疲れ果て……そして思うのだ。果たして、この状態の人間に生き続ける意味などあるのだろうかと。
 その問いに決着をつける役目をジョセフは負っていた。彼女は秘密裏にもう助かる見込みのない患者の安楽死を請け負っていたのだ。
 裏の世界では彼女のことをこう呼ぶ。「死のドクター」と。
「さっ、いつものやつ。用意できたわよ」
 ジョセフはシエルの問いかけには答えず、代わりに薬の入った袋をシエルに渡した。シエルもそれ以上は追求しなかった。別に彼女を責めたいわけじゃない。その権限もかれにはなかった。
「ああ、ありがとう」
 薬を受け取ると、シエルは席を立った。
「治療や薬目的じゃなくてもたまには遊びに来なさいよ、息抜きに」
「忙しいんじゃなかったのか?」
「こっちも息抜きが必要なの」
 いつも通りの人懐っこい笑顔で、ジョセフが軽口を叩く。その様子にシエルはすこしほっとした。
「それにシエルが来ないとカップ麺ばっかになっちゃうから」
「……考えておく」
 いつもよりほんのちょっとだけ穏やかな表情を浮かべ、シエルはその場を後にした。