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殺し屋の話

 あれは初夏の爽やかな風が優しく吹きぬける、とても穏やかな日のことだった。

「じいさん。昼飯にしないか?」
 ランチバスケットを手に、色とりどりの花たちが咲き誇っている広大な花畑に向って呼びかける。
 ご自慢の花達を丹精に愛情を篭めて手入れしている爺さんに、孫娘特製のサンドウィッチとカップケーキを彼に持っていくのがおれの日課だ。
 もう若くないのに張り切るものだからいつも痛む腰をさすり、ドロだらけの顔でこっちにやってきて、今日の花の機嫌はどうとかをおれに語る。
 それをおれは話半分に聞いて頷きながらサンドウィッチを頬ばり、自家製レモネードに口を付ける。
 そんな態度に爺さんは真面目に聞いているのかと怒ったふりをするが、表情はとても楽しそうで……それが日常の光景だった。

 しかし、今日はどういうわけか、じいさんがやって来なかった。

「じいさん? おーい、とうとう腰でもやったのかー?」
 もう一度呼んでみるが、姿はおろか返事すら返ってこない。
 妙な胸騒ぎを覚え、気づけばおれは走り出していた。
「じいさん! どこだっ。返事をしろ!」
 広大な花畑をかき分けながら、必死でじいさんを探す。
 胸の鼓動はどんどんと大きくなっていた。嫌な予感が頭をよぎる。迫りつつある黒い影を降り払うかのように、無意識におれは首を横に振っていた。

「!?」
 数分探し回ったところで、さらなる異変に気づいた。花が踏み荒らされている。その無残な跡は獣道が作られたかのごとく、とある方向にむかって伸びていた。
 花をこよなく愛していたじいさんが花を踏むなんてことは絶対にありえない。
 胃がムカムカし、こみ上がる吐き気を口元を抑えることで何とか耐える。背筋に寒気を感じながら、おれは荒らされた花畑の跡を辿った。
 だが、足が重石を付けられたように動かない。まるで、この先にあるものを見るのを拒絶しているように。
 それでも、無理やり歩を進める。そして、驚愕の、しかしどこかで予感していた光景がそこに広がっていた。

「――っ!!」
 じいさんが一番お気に入りだった鈴蘭の畑。しかし、その内の何本かが哀れにも折られ地面に横たわっており、別の何本かは白だったはずの花びらが朱色で染められていた。
 あっちこっちに散らばった鈴蘭たち。まるでその中心で横たわる人物に捧げられた鎮魂の花のように見えた。
 ゆっくりと視界に飛び込んできたそれは、おれの良く見知った人の変わり果てた姿。
 腹から血を流し、ぐったりと倒れているじいさんそのものだった。
「じいさん!」
 慌てて、おれはじいさんの下へ駆け寄り、その身体を抱き起こす。顔から血の気は引き、虫の息ではあったが、じいさんはまだ生きていた。
「しっかりしろ! 今、医者に連れて行くから!」
 傷口を押さえ、必死でじいさんを運ぼうとする。しかし、じいさんはおれの腕を掴み、何かを言いたさげに口をぱくぱく動かした。しかし、言葉にならない。
「しゃべっちゃだめだ! 話は後で聞くから」
「エ、レナが……」
 ヒューヒューと今にも途切れそうな呼吸と共に吐き出された声は、酷く小さくて聞き取るのがやっとだった。
 しかし、告げられた名はおれの心臓を大きく跳ねせた。
 エレナ――じいさんの最愛の孫娘であり、おれの何よりも大切な人。
 じいさんの身体を支える腕が知らず知らずのうちに震える。
 じいさんは懸命におれに訴えかけようと、残された力を振り絞るように喉を震わせ、尚も言葉を続けた。
「エレナが……危な……」
 がくんとじいさんの身体から力が抜ける。瞳孔が開き、目から光が失われていくのを止めようかとするかのように、おれは必死でじいさんの身体を揺すった。
「駄目だ! しっかりしろ、じいさん!!」
 いくら叫んでも、いくら揺さぶっても、何の反応も返ってこない。今、おれが腕に抱いているのはじいさんの魂の抜け殻でしかなかった。
 信じられない思いでおれはただ茫然とその場に座り込む。実際、まだ目の前で起こった出来事に現実味を持てないでいた。
 だって、じいさんの身体はまだ温かいのに……
「エレナ……」
 無意識に出た名前に、急激に頭の中がクリアになっていく。次に涌いてきたのは危機感と底知れない恐怖。

――そうだ、エレナが危ない――

 次の瞬間には、じいさんの遺体をその場に残し、一目散にエレナがいる小屋へと走り出していた。



 小屋へ向う最中、おれはどうしてこのような事になったのか、そればかりをぐるぐると考えてきた。
 強盗か通り魔か。それとも…… 
 腹の中に灼熱の石を詰められたような感覚がおれに襲う。じいさんとエレナ、彼らが狙われる理由に一つ心当たりがあったのだ。
 無論、彼らは人に恨まれるような人間ではない。原因は紛れもないおれにあった。
 もし、そうだとするならば……
 そうこうしているうちに小屋が見えてきた。エレナはあそこにいるはずだ。
 どうか無事でいてくれと信じてもいない神に祈る。しかし、おれごときの存在が今更救いを求めたところで、全ては手遅れだったのだ。

 木の枝で羽を休めていた鳥達が、慄くようにいっせいに飛び立つ。
 一発、二発、三発。
 空気を切り裂くかのような破裂音が鳴り響く。途端に足が止まり、氷水を浴びせられたかのごとく、身体の底からぞくっとした寒気が全身に駆け巡った。
 あの音には過去、嫌というほど聞き覚えがある。
 あれは銃声だ。そして、それは無常にも今まさにエレナがいるであろう小屋から聞こえてきた。

「そんな……」
 よろよろと小屋の方へ一歩ずつ足を進める。もはや何も考えられなかった。いや、考えたくなかった。
 昨日までの些細な日常が足元からがらがらと音を立てて崩れていく。真っ白な頭でも、もうあの日々は帰ってこないことだけは察していた。
 重い足取りでドアの前まで辿りつく。現実を、己の忘れていた罪を突きつけられるのが怖くて、恐ろしくて。扉を開くのを一瞬躊躇した。
 しかし、意を決し、おれはドアをゆっくりと開けた。


 まず目についたのは、花が飾ってあった花瓶が壊され、無残な残骸と成り果てた欠片だった。
 生けてあったマリーゴールドはぐゃしゃぐしゃに踏まれ、元の綺麗だった姿が見る影もない。
 相当争ったらしく、花瓶だけでなく食器やら何やらがあちらこちらに散乱していた。
 そして、部屋の中央。真紅の水溜りの上に浸かった、見覚えのあるハニーブラウンの髪。
 ほんの数十分前には、じいさんとおれのお昼と作っていたピンクのエプロン姿。
 血の気のない顔。
「エレナ!!」
 泣き声に近いような叫び声が部屋に響き渡った。即座に彼女の元へ駆け寄ろうとする。
が、出来なかった。
 なぜなら、この空間にいたもう一人、招かれざる来訪者の存在に気づいたからだ。

「今の気分はいかがかしら? この人殺し」
 今のこの状況にまったく似つかわしくない穏やかで綺麗な響きを伴った、しかし裏に恐ろしい程の冷淡さが篭った声だった。
 緩くウェーブのかかった金髪で華奢な体格。歳は20代前半。大きな瞳に目鼻立ちのはっきりした顔。町で見かけたなら、多くの人が見惚れるであろう、とても愛くるしい容姿の女性。
 しかし、おれを睨みつける今の彼女の美しい顔は憎しみと侮蔑で歪んでいた
 右手に握られた拳銃に嫌でも目がいく。目の前にいる女性がこの惨劇を起こした張本人であることは疑いようがなかった。
 その瞬間、おれが感じていたのは憎悪でも、何故こうなったのかという疑問でもなく、ただ純粋なる恐怖だった。
 だが、それは目の前の彼女に対してでも、自分が殺されるかもしれないという事に対してでもない。逃れられない罪が暴かれようとしていることを何よりも恐れていたのだ。
「どうしてこうなったのか、分かってるわよね?」
 彼女はそう言いながら、ゆっくりとこちらに銃を向ける。おれは口を開きかけたが、言葉が喉に張り付いて何も言えなかった。
 皮膚に突き刺さるような緊張感がその場を支配する。
 トリガーに指をかけ、彼女はゆっくりと口角を吊り上げた。
「私の名前はアレッサ・ボーネット。あなたが殺したジョージ・ボーネットの娘よ」
 告げられた言葉に顔を彼女から背ける。この凶行の原因は彼女を、いやじいさんが倒れているのを見た時から予感していた。
 過去、幾人もの命を奪ってきた殺し屋としての業が、いまこの場で己に突きつけられる。
 歩いてきた道にいくつもの死体の山を築き上げた。そこに今、新たに二つの亡骸が追加されたのだ。いくつのも怨嗟の手がじいさんとエレナを連れ去った。
 他の誰でない、おれのせいで。
「あなたは覚えてもいないんでしょうね。こっちはあなたのこと一日たりとも忘れはしなかったのに」
 口調こそ淡々としていたが、アレッサの言葉の端はしから血反吐を吐くような思いが伝わってきた。
「父のことなんかあなたにとっては、単なるごみのような存在でしかなかったんでしょう?」
 違うと叫びたかった。しかし、出来なかった。
 確かにアレッサの父親のことは覚えていない。というより、覚えていられなかったのだ。顔も存在も記憶に残らないぐらい、多くの人間を葬ってきた。
 手に掛けた人間に対して何も想わないわけじゃない。だが、彼らに対しての余計な感情を徹底的に意図的に排除してきた。そうでないと他人を壊してしまう前に自分が壊れてしまいそうだったから。
 誰かを殺めることで奪われるのはターゲットの命だけじゃない。その事実を、目の前にいる彼女が痛切におれに知らしめていた。
「父が死んだ後、母も苦労して苦労して惨めに死んでったわ。その後、私がどんな風に生きてきたかあなたに想像つく?」
 聞き返さなくても、まともな生活ではなかっただろうことがアレッサの服で容易に想像ついた。
 血で汚れていなくとも、すでにあちらこちらぼろぼろの服。しかし、作りはしっかりしていて、布も上物だ。元はかなり高価なものだったことを示していた。
「だから、私はあなたに復讐する権利があるのよ」
「だったら、おれを殺せばよかっただろう。何でじいさんとエレナまで……」
 おれ自身がどんなに痛めつけられようが、殺されようがまったく構わない。彼女にはその権利がある。でも、エレナとじいさんには何の罪もなかった。ただの善良でごく普通の一般人だ。
 こんな風に殺されていい人間じゃなかったはずなのに。
「……最初はあなただけを殺すつもりだったわ」
 アレッサはぽつりと呟いた。先ほどとは違い、その目はどことなく虚ろで遠くを見ているようだった。
「偶然、町であなたを見かけたの。この女と一緒だった」
 床に倒れているエレナに視線をやり、アレッサは喋り続けた。
「とても楽しそうだった。どこにでもいる仲のいいカップルにしか見えなかったわ。知らない人にはとてもあなたが殺し屋だったなんて考えもしないでしょうね!」
 徐々に口調がきつく早口になっていく。怒りのせいか、拳銃を持つ手がかすかに揺れ動いている。
「何でそんな幸せそうなの? 何で普通に暮らしてるの? ただの薄汚い人殺しの癖に!
父を殺したのに! 過去なんか忘れたみたいな顔して!」
 わなわなと全身を身震いさせ、おれを責めるアレッサの顔はまさに般若と相違ないものとなっていた。
 しかし、彼女をここまで貶めたのはおれ自身だ。
 過去が消せるものではないことぐらい分かっていたはずだった。おれに平穏な生活を送る資格がないことも。
 でも、エレナとじいさんとも暮らしはおれに夢を見させた。懐かしい忘れていた温かい日々を。
 だが、それはけして見てはいけない夢だったのだ。
 その代償がこのざまだ。
「私がこんなに不幸なのに。あんただけ幸せになるなんて、そんなの不公平じゃない? だから殺してやったのよ。あのじいさんもこの女もね!」
 アレッサの高笑いが部屋中に木霊した。しかし、頬には一筋の涙が伝う。彼女は笑いながら泣いていた。
「それでおれは殺して終わりにするのか?」
「いいえ。殺さないわ。そのかわり、あんたは苦しんで苦しんで、そして惨めに死ぬのよ。そうでないと絶対に赦さない!!」
 ほとんど絶叫に近い声で、呪詛のようにおれに向かって吐き捨てる。そして、その後アレッサは自分のこめかみに銃口を当てた。
「よせっ!!」
 何をする気か察し、アレッサに手を伸ばし止めようとする。だが、到底間に合うはずがなく。

 全ての終わりを告げる音と共にアレッサが倒れる光景が、スローモーションのようにおれの瞳に焼きつけられる。
 アレッサはエレナのすぐ側に横たわり、おれだけが残された。
 全身の力が抜け、その場にへたれこんで両手を床につく。べしょりという音と共に手にぬるついた感触を感じた。
 アレッサから新たに流れ出たものがエレナのものと混ざり合い、辺り一面が血の海と化す。
 おれはゆっくりと両手を眼前にかざした。
 赤、紅、朱、緋、あか……。
 両手にべっとりとついた血は、けっして消えることのない罪の刻印のようだった。
「あ、あぁ……」
 もう、おれに残されたものは何もない。
 あるのは一生背負っていけなければならない十字架と絶望だけ。
「アァぁああああ!!!」
 獣のような叫び声が辺り一面に響く。
 しかし、それを聞くものはもう誰もいなかった。









 ベッドの上で上半身を起こし、顔を両手で覆う。この悪夢を見るのはもう何度目になるだろうか。

 結局、おれはこの世界でしか生きられないと殺し屋の道に舞い戻ってしまった。
 だけど、せめてクズがクズを殺すことで、どこかで嘆く人間を減らせればいいと思った。
 そして、いつかおれもクズとして、クズに殺される。そうなればいい。そうすれば誰も悲しまずに済む。
 その日のためにおれは生きていた。だけど、それは償いではなくて、ただの自己満足に過ぎないことも知っていたけれども。

 上着を羽織り、部屋を後にする。
 エレナとじいさんと共に住んでいた小屋を出た後、特定の住居は持っていない。宿から宿へ。その日暮らしの生活をもう何年も続けていた。
 宿から出ると、ある場所へと足を運ぶ。
 見渡す限り、古く似たような建物が延々と並ぶ、どこにでもあるような小さな町だった。
 ただし、最近ではちょっと状況が違うらしい。一人の町の権力者が私財をなげうって、町の発展を進めようとしているとのことだ。
 そのおかげか、町を歩く人々はどことなく活気づいているように見えた。今や、その男はちょっとしたヒーローになっている。
 今回の仕事のターゲットは他でもないその権力者だ。表向きはとある企業の経営者。だが、裏ではこの辺り一体のドラッグを牛耳る麻薬王だった。
 男の存在はこの町の人間に恩恵を与えていたが、一方でその何倍の人間を不幸にしていた。
 一先ず、おれはここ数日ターゲットの行動を監視していた。裏社会でのさばっている連中は、己が命を狙われていることぐらい常に想定しているが故に非常に用心深い。当然の如く、警戒心が強くて近づくことのままならなかった。
 だが、人間である以上、どこかに絶対に隙はできる。その数少ない機会を見つけ出し、確実にしとめなければならない。
 基本的にチャンスは一度きりだ。失敗してしまうと、相手はさらに警備を固めてしまい殺すのはほぼ不可能となってしまう。
 今回はいつも以上に慎重になっていた。どうしても、この依頼を成功させなければならない理由があったのだ。
 だが、これだけの時間がかかっているのにはもう一つ別の理由もあった。ターゲット側の事情じゃない。おれ自身の問題だ。
 相手の事情を調べつくすのは殺し屋としての職務を果たすのに必要だ。しかし、決して深入りして私情を挟んではならない。
 それが殺しの鉄則であると幼い頃から叩きこまれていた。命の奪い合いを幾度となく繰り返すこの世界では、相手への余計な思いは一切排除しなければ死ぬのは自分。分かっているはずなのに……
 無駄な感情を排除するかのように目を瞑る。辺り一体が黒一色に塗りつぶされる。

――おれはただの殺し屋。殺人マシーンだ。余計なことは考えるな――

 何度も自分に刷り込むように言い聞かせる。
 昔からの癖だった。こうすると、まるで心を持たないロボットのような感覚を得るのだ。ただの錯覚に過ぎないとしても、おれには必要な儀式だった。
 あまり、長居は出来ない。向こうに勘付かれてしまうリスクが上がってしまう。数日で決着をつけると決め、おれはコートを靡かせ、歩き始めた。・




 酒場「エスペランサ」――どこにでもあるような小さな酒場だが、内装はどこか家庭的な温かみがあって、印象は悪くなかった。
 昼時を過ぎていたので、店内の客は少なく閑散としていた。隅のテーブルに座り、注文していたサンドウィッチに手をつける。
 手作りのマスタードを効かせたどこか懐かしい味のそれは、頭の片隅にしまわれた過去の幸せの欠片を引っ張りだしかけたが、再び底の方へと仕舞いこむ。
 今はあまりエレナ達の事を思い出したくない気分だった。
 腕時計に目をやる。時間を気にしつつ、窓から外を眺め様子を伺っていた。周りの人間に不審がられないようにさりげなく。
 だが、注意を怠らないようにしたつもりでも、外に気を取られたせいで一瞬の隙ができてしまったらしい。近づく気配に気づくのが一瞬遅れた。

「発射!」
「!?」
 いつの間にやら、目の前にいた少年が銃の形を模した手をこちらに向け、何かを飛ばす。反射的に飛んできたものを掴んだ。
「わっ、すげ!」
 少年は感嘆したような声を漏らす。
 掌を開けば、輪ゴムが乗っかってきた。先ほど少年が飛ばしたモノの正体だ。
「兄ちゃん、カッコいいなー。スーパーマンみてえ」
 突然のことに困惑しているおれのよそに、少年はきらきらした目で話しかける。
「……人に向けてこんなものを飛ばしたら危ないぞ」
 ぐいぐいと迫ってくる少年の勢いに押されつつ、一先ず輪ゴムを少年へと返した。
「顔には当てないから大丈夫だよ。いつもやってるけど怒られないしね。まあ、みんな顔馴染みだからだけど」
 満面の笑みで笑う少年に対し、どうしてよいものやら困ってしまう。あんまり目立ちたくないのだが、どうあしらってよいものか。
 どこかに行ってくれないものかと願ってみるも、残念ながら向こうはおれに興味津々のようだった。
「でも、兄ちゃんは初めて見るなー。この町の人じゃないの? どこから来たの?」
 質問攻めにどう対処していいのやら分からず、おれは黙り込んでしまった。こういう場面での対処は非常に不得手だ。上手い切り替えし方が思いつかない。
 弱り果てていると、突如救いの声が降ってきた。

「コラ、ジョン! また悪さして!」
 カウンターにいたエプロン姿の女性が少年の頭をはたいた。恐らく、この店のオーナーだろう。
「イッテ! 母ちゃん。いきなりぶつなよー」
 ジョンは頭を手でさすりながら、母親であろう女性を見上げて文句を言った。すると、女性は少年の背中をぐいっと押し、出入り口方面に行くように促す。
「ほら、営業中はお店に入っちゃ駄目って言ったろ?」
「だって、暇なんだもん」
 頬を膨らませ、ジョンが不満そうに抗議する。しかし、母親に睨まれると、ぶつぶつ文句を言いつつ、出入り口へと向かう。
「母ちゃんのケチ!」
 舌を突き出し、大声で叫んだ後、ジョンは外へと出て行く。その様子を見て、母親はやれやれと肩を諌めた。
「ゴメンなさいねお客さん。煩い子で。普段あまり構ってしれなくて」
 母親がぺこりと頭を下げ、謝罪した。
「いや、気にしてない。元気なのはいいことだ」
「元気過ぎちゃうのも困りものだけねー」
 誰に似たんだかと母親は笑う。多分、母親似なのだろうと何となく思った。そして、いい親子だとも。
「お客さん、初めて見る顔だね。よそからきたの?」
「ああ」
「名前は?」
「……アレックス」
 適当に思いついた名を口にする。シエルという名も偽名ではあるが、裏では殺し屋としてそこそこ知れ渡った名だ。あまり、一般人には知られたくなかった。
 時計に再度目をやる。もう、そろそろだ。外はまだ誰もいない。財布を取り出し、彼女に代金を渡した。
「あら、帰っちゃうの? 良かったら、また来てよ。お兄さんかっこいいからサービスしちゃうよ」
 彼女はにかっと笑い、悪戯っぽくウインクする。この店の暖かい雰囲気はきっと彼女が作り出しているのだろうなと、少しだけ頬が緩んだ。
「そうだな。サンドウィッチが美味しかったから、今度来たときはお土産でも作ってくれ」
「あら、嬉しい。サンドウィッチが「エスペランサ」のオーナーである私、ジュリスの一番のお勧めなのよ。ウォーレン家に代々伝わるものなの。ぜひ、用意するわ」

――美味しいでしょ! マリノフスキー家に伝わる特製サイドウィッチなの――

 ピンクのエプロンを着て、得意げに言いながら破顔した彼女の姿がジュリスと重なった。
幻想を振り笑うかのように、一瞬ジュリスから目を逸らす。エレナはもうどこにもいないと改めて自分に言い聞かした。
「そうか、楽しみにしとく」
 それだけを口にし、おれはエスペランサから出る。
 おれが店を出た直後、背後でまた新たな客が見せに入る気配を背中で感じ取る。後ろを見ることはせず、その場を後にした。




 ターゲットを観察し続けた結果、出た結論はやはり暗殺できるチャンスは非常に限られているということだった。あの権力者はことさら用心深い男のようで、自宅の警備はかなりがちがちに固めており、外出する際も常に複数の護衛を引き連れている。
 だが、そんな用心深い男でも、ほんの僅かだけ隙を見せる瞬間があった。狙うならそこしかない。
 だが……
 思考がまた迷走してしまう前に、狙撃を行うのに適当な場所を探さなければという考えに無理やり切り替える。
 ただ、それを今の時間にやるのは人目につく恐れがあったので、人気の少ない深夜にやろうと決め、取りあえず宿へ戻ろうかとした時だった。

「あれ? 昼間店にいた兄ちゃんじゃん!」
「あっ……」
 エスペランサで出会った少年が目の前に立っていた。名前は確かジョンといったか。まさか、こんな所でまた会うことになるとはと少し困惑する。
 一方、ジョンは嬉しそうにこちらに駆け寄ってきた。
「兄ちゃん、これから何か用事あるの?」
「いや、宿に戻るだけだが……」
「じゃあ、暇なんだね?」
「え?」
 瞳を輝かせ、何か期待するかのように見つめてくるジョンに、心底しまったと感じた。何故、彼の問いに馬鹿正直に答えてしまったのだろうか。誤魔化すことなどいくらでも出来たはずなのに。
「おれも暇なんだ! いつもの友達用事で遊べなくなっちゃってさー。兄ちゃん、遊んでよ!」
 案の定、予想通りの言葉を口にしたジョンに、おれは頭を抱えた。殺し屋が子供と遊んでどうするんだと、常識的(と言ってもよいものか……)にもありえないだろう。適当に理由をでっち上げて誘いを断わることも出来たし、そうすべきだとは思う。
 しかし、無邪気に接してくる子供の期待を裏切ってしまうのはどうにも気が引けた。
「ねー、兄ちゃん、遊ぼうよー」
 ジョンはおれの腕を掴み、尚もせがんでくる。
「……分かった」
 少年のなすがまま腕を引っ張られ、どこかへと連れて行かれながら、そういえば、おれが押しに弱いと指摘したのはじいさんだったか、エレナだったかとそんな事を考えていた。



「おれと母ちゃん、元々この町の人間じゃないんだ。三年前ぐらいに父ちゃんが死んじゃって、そんでこっちに来てあの店建てたの」
 川べりの草むらでジョンはプラモデルの銃を構え、ダンボールの上に置かれた四つの空き缶に標準を合わせながら、自分の身の上を語った。
「最初、大変だったんだぜ。こんなちっちゃな町じゃん? お客さんぜんぜん来なくてさー」
 引き金を引くと、玩具の銃から発射されたプラスティックの弾が缶を倒す。四本中二本に命中した。
「ちえっ、外れた」
 ダンボールの側へと足を運び、ジョンは倒れた缶を再び箱の上に乗せて並べた。
「でも、うちを気に入ってくれた客がだんだん増えてきてさ、何とかやってけてるわけ。母ちゃんの料理うまいしね。アレックスも食べたんだろ?」
「ああ、確かに美味しかった。常連がつくのも分かる」
 おれが頷くと、ジョンは誇らしげに笑う。
 ちなみに彼にも名を聞かれたので、取りあえずジュリスに名乗ったのと同じ名を告げておいた。
「へへっ、だろ! あ、次、アレックスの番な」
 ジョンが自分の銃をおれに渡す。ここから撃つんだぞと彼の指示した場所に立ち、銃を構える。
 そして、狙いを定め、並べられた四つの缶を順番に命中させていく。全部の缶を倒し終えると、ジョンが感嘆の声を上げた。
「アレックス、射撃上手いなー。じゃあ、これはどう?」
 倒れた缶を掴むと、ジョンはそれを空中高く放り投げた。銃を上空に向け、引き金をひく。空中の缶は音を鳴らし、落ちる軌道を変え、草むらに転がった。
「すっげえ。どうやったら、射撃上手くなんの? やっぱ練習?」
 憧れの視線をおれに向けるジョンに、後ろめたい思いが胸に重く圧し掛かった。確かに血が滲むぐらいの練習はした。というより、させられた。おれに殺しの業を教え込んだ男から。人を殺すために。
「ジョンもその内うまくなるさ。センスがある」
 誤魔化すようにそう口にする。それでも、ジョンは嬉しかったようで「やった!」と両手を上げて、叫んだ。
「おれ、将来警察官になりたんだ! だから、射撃の練習してんの。そんで母ちゃんと店とこの町を守るんだ」
 高らかとジョンはそう宣言した。
「そうか……。お前ならいい警察官になるだろうな。ジュリスも安心だ」
 本当にそうなって欲しいという願いを密かに籠める。ジョンは守るために銃を持つ。その心意気が他人なのにどことなく嬉しく思い、敬畏の念を持ったのだ。自分には奪うことしか出来ないから。
「おう! まかせとけってね。よし、もう一丁練習」
 ジョンは力強く自分の胸を拳で叩く。どこまでも明るく真っ直ぐな少年だ。
「しかし、ジョン。もうそろそろ帰った方がいいんじゃないか。もう暗くなる」
 空を見れば、日が暮れかけていた。ジョンもおれの言葉に「あっ」という声を出す。
「もう、こんな時間かー。さすがに帰らなきゃ怒られるよな……。ねー、アレックス」
「何だ?」
「明日もこの町にいる?」
「ああ」
「だったら、明日もうちの店来いよな!」
 にかっと笑うジョンに、少しだけ表情が曇った。しかし、それに気づかないジョンは「約束だぜ!」と言うと、手を振りながら家路へと急ぐ。
 走り去る背中を見送りながら、おれは自分の銃を服越しに掴んでいた。





 翌日。
 昨日と同じ時間、おれはエスペランサの扉に手を掛けた。

「おっと、失礼」
 すれ違いざまに外へ出ようとした老人と肩がぶつかる。こちらも謝罪しようとしたが、その前に老人はすでに姿を消していた。

「あら、アレックスさん」
 外へといっていた意識が、カウンターから聞こえてきたジュリスの声で中へと向く。
「あ、来たんだアレックス! ここ、座りなよ」
 母親の声でカウンター席に座っていたジョンがおれに気づき、手招きする。ジョンに促されるまま、彼の隣に座るとジョンはまたあの無邪気な笑顔を向けてきた。どうやら、店でお昼を取っていたらしい。ジョンの目の前にはオムライスが置かれていた。
「ごめんねー。昨日ジョンに付き合わされてたんでしょ。迷惑じゃなかった?」
 ジュリスが忙しそうにあっちこっち動きながら、おれに声をかける。
「いや、こちらも楽しかったから」
「だろー。アレックス射撃うまいもんな!」
 身体を乗り出し、はしゃぐジョンに、ジュリスは「調子乗らないの」とたしなめる。
「本当にすいませんねアレックスさん。この町子供が少なくて、なかなかジョンと遊べる人がいないの。さて、ご注文は何にします?」
「そうだな……」
「オムライスにしなよ。おれ的に一番のお勧めだぜ」
 メニューに目を通していると、横からジョンが口を挟む。
「それはあんたが好きなだけでしょ」
 ジュリスの呆れたような声がカウンターから飛ぶ。思わず、顔が綻んだ。
「じゃあ、オムライスで」
「了解」
 クスクスと笑い、注文を受けたジュリスはさっそく準備へと取り掛かる。その様子を見ながら、おれはある事について暫し考えていた。
「今の時間は静かでいいよなー。お昼時は騒がしくてさ」
 もくもくとオムライスを口に運んでいたジョンに話しかけられ、思考が中断する。
「お昼が忙しくなくて、どうやって店やっていくのよ。最初はお昼時もこなかったのに」
 卵を溶きながら、ジュリスがそう呟いた。
「そういえばジョンから聞いたが、たった一人でこの店を盛り上げてきたんだな。大変なんてものじゃなかっただろう?」
 おれの言葉にジュリスはきょとんとした顔をした後、照れくさそうに笑った。
「ジョンたら、そんな事まで話したの……。うん、まあ、そうね。一時はどうなることかと思ったよ。赤字続きだったから。でも、約束だったしね」
「約束?」
「元々は父ちゃんの夢だったんだ。店を開くの。それで母ちゃんといつか二人で店をやるぞって約束してたんだって」
 ジョンが横から説明する。
「それで店を……凄いな」
「いやいや、そんな大層なもんじゃないって。やっぱり料理に多少腕があるだけの素人じゃなかなか上手くいかなかったしね。ここまでやれてきたのは色んな人のおかげさ」
 じゅうじゅうと食欲のそそる音を出すフライパンを火から下ろし、出来上がったオムライスを皿へ盛り付けながら、ジュリスは話を続けた。
「自分も母子一人でやってきたからと家の家賃を安くしてくれた大家さんとか、店の内装を格安でやってくれた人とか、うちの味が気に入ったからってことで経営資金を援助してくれたお客さんとかね。本当に感謝してるよ。はい、オムライスお待ちどうさま」
 ジュリスがおれの前にオムライスを差し出す。さっそく手をつけると、ふんわりとしたやさしい卵の味が口いっぱいに広がった。
「うち、熱狂的な常連さん多いんだぜ。中には毎日のようにくる人もいるだっているんだぜ」
 自慢げなジョンを見ながら、何度もここへくる客の気持ちは分かるような気がするなと考えていた
 料理の美味しさはもちろん、店の暖かな雰囲気やこの親子の人柄はどこか人を惹き付けるものがあった。
 彼らによくしてくれる人が大勢いるのも、きっとそのおかげなのだろう。

 ジュリスやジョンの談笑に耳を傾けながら、黙々とオムライスを食していると、店の入口からジョンを呼ぶ子供の声が聞こえてきた。
「あっ、やべ! 遊ぶ約束してたんだった」
 ジョンが慌てて立ち上げる。
「じゃあ、母ちゃん。おれ遊び行ってくる!」
「あまり遅くならないうちに帰ってくるのよ」
「分かってるよ。じゃーなアレックス! また、会ったら遊ぼうぜー」
 元気よく入口まで走ると、おれに手を振り、ジョンは外へ出て行った。
 おれは腕時計に目をやる。時間を確認すると財布を取り出した。
「ジュリス。おれももうそろそろ帰らなくちゃならない」
「あら、そう。ちょっと待ってね」
 ジュリスは側に置いてあった紙袋をおれに差し出す。
「はい、お約束のサンドウィッチよ。うちのは冷めても美味しいからね。好きな時に食べて」
 そういえばそんなことを言ったなと昨日のことを思い出す。わざわざ用意してくれていたのか。
「ありがとう。夕食にでもするかな」
 礼を言い、代金を渡した後、サンドウィッチの入った袋を受け取った。
「明日も来てくれると助かるなーなんて」
 悪戯っぽくウィンクして微笑むジュリスに、本当に楽しい人だとお僅かに口元を緩む。
「考えておく」
 それだけ言うと、おれは店を後にした。






 真っ直ぐ宿に戻ったのち、おれは部屋で仕事につかう道具の点検をしていた。決着の時はもうすぐ側まできている。準備は何の問題もなく首尾よく言っていた。
 後はおれの気持ちしだい。

 ふと、外を見やれば、すっかり日が暮れていた。ジョンはもう帰っただろうかと思い、即座に頭を横に振る。今はあの親子の事を考えてる場合じゃない。
 机の上に置かれたサンドウィッチの入った紙袋はいまだ手付かずのままだった。
「!?」
 突如、部屋に備え付けられた電話が鳴った。
 周りを警戒しながら、一瞬迷った後電話を取る。電話の相手はこの宿の従業員からだった。彼から告げられた言葉に、おれは奥歯をきつくかみ締める。

――あなたを呼んでくれといっている人がいるんです――

 電話を切ると、おれはコートを纏い、足早に部屋を出て行った。




 宿の外を出ると、道の向こう側に見覚えのある人影が視界に飛び込んできた。
 煙草を口に咥えた見覚えのある黒スーツの男。
「よお、偶然」
 至極、楽しげに下衆な表情を浮かべ、リアがゆっくりこちらに近づいていた。
「昼間、一度会っているだろう」
 エスペランサですれ違った老人の姿が頭に浮かぶ。
 苦々しく吐いた言葉に、リアは至極愉快そうに喉を鳴らした。
「あっ、気づいてたか。 せっかく変装していったのにな」
「すれ違った時に煙草の匂いがしたからな。お前がよく吸っている銘柄の」
「なーるほど。煙草吸わねえわりにはよく区別付くなー」
 軽口を叩くリアを一瞥し、深くため息をつく。放っておくと、いつまでもくだらない事を喋り続けるだろうと予測が付いたので、さっさと本題を切り出した。
「なぜ、お前がここにいる」
 その問いにリアは口角を吊り上げ、煙草を口から離し、白い煙を吐き出した。
「別にお前を追ってきたわけじゃねえさ。そこまでおれも暇じゃねえしな。ただ、ターゲットが被ったってだけのこと。ま、これこそ、ものすごい偶然なんだけどな」
 言っている事は嘘ではないのだろう。ならば、リアも標的であるあの男について調べ上げているはずだ、当然おれ以上に。
「お前に頼もうとしたのに連絡とれねえからさー。別の奴に頼もうかと考えてたんだが、まさか別の奴がお前に依頼してるとは思わなかったな」
 悪意の篭った薄いグレーの瞳がおれをねめつける。いたぶれる隙を見つけ出そうかとするような視線が酷く気持ち悪い。
「でもまあ、殺る対象が一緒なら、この件はお前に任せてもいいよな?」
 そうくるだろうと思っていた。事情を知っているだろうリアがおれにあの男を殺させようとしないはずがない。おれがこの暗殺に対し、葛藤を抱いていることなどすでにお見通しなのだろう。
 沈黙を了承と受け取ったリアは「じゃ、任せたぞ」と、見え透いた馴れ馴れしい口調で言った。
 これで用は済んだはずだ。ならば、さっさとこの男の前から消え去りたい。おれは無言のまま、歩き始める。
「お前に殺されるのに都合のいい人間なんざ、そうはいねえもんだろ?」
 背中越しに投げかけられた言葉に、おれは足を止めた。振り向くことはしなかったが、おそらくリアはいつものいけ好かない笑みを浮かべているのだろう。
「何かしらの拠り所が欲しいもんだ。人ってやつはさ。悪人が悪行だけに徹してくれれば、殺るのも楽なんだがな。残念ながらそうとうは限らないのが現状だ。あの男もそう」
 リアが言っていることが何を指すのか。問われなくても分かっていた。ターゲットの大きな弱点であり、おれが今の今までこの暗殺を躊躇していた理由。
「悪党が愛したい者を見つけちゃいけないって決まりはないしな。そして、その対象を守りたいと思い行動するのは、当然で自然な事だ。それ自体は悪ではない。 一人で生きていられる人間って驚くほど少なくてな」
 鋭く磨かれた刃を突き立てるかのように、リアは喋り続けた。だが、それに対し、おれが出来ることといえば、口を閉ざししたまま、拳を握りしめる事ぐらいしかない。
 リアは確実に事の確信を付いてくる。逃げさるという手段も取れたかもしれないが、敢えて心に刻む事を選んだ。
 自分がこれから奪うことに対して。
「それ故に悲しいかな。万人がハッピーエンドになれるエンドなんか存在しえないのが現実だ。特にそれが殺しとなれば尚更な。でも、それぐらい承知の上で、覚悟して上で、この道を歩いてきてるんだろ? 殺し屋シエル・ボーネット」
「……ああ」
 リアへというよりは、自分自身に言い聞かせるように、その言葉に頷いた。おれは殺し屋、求められるのは確実に標的をしとめる事。
 リアの戯言も余計な迷いも振り払うかのごとく、再び歩き始めた。空は見れば、太陽が沈みかけ、辺りの建物が夕焼けで真っ赤に染まる。

 お前が歩く道に丁度いい光景だなと、かすかにあざ笑う声が聞こえた気がした。




 それから一日経って、おれはエスペランサへと足を運んでいた。この店を訪れる必要はもうなかったのだが、どうしてもあの親子に会っておきたかったのだ。
 深入りして私情を挟むな、それができないから、おれは殺し屋として致命的だと言われるのだろうなと、自嘲気味に笑みを浮かべると、扉に手に掛けた。

「あっ、アレックス!」
 おれの姿を見るなり、店にいたジョンが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「すっかり懐いちゃって」
 その様子をカウンターから見ていたジュリスが思わず苦笑する。
 ジョンが昨日見つけたらしい秘密基地を作るのに絶好な場所の話を聞きながら、おれはカウンター席に座った。
「ご注文はサイドウィッチでいい?」
 朗らかな笑顔で尋ねてくるジュリスに、おれは無言で頷いた。すると、ジュリスは嬉々として準備に取り掛かる。その様子に何とも言えない罪悪感が胸を締め付けた。
「明日からそこに秘密基地作ろうと思ってるんだ。アレックスも仲間にいれてやるよ」
 ちゃっかりと隣に座ったジョンが無邪気な笑顔をおれに向ける。
「だから、絶対に明日も店に来いよ! 案内してやるから」
「……ああ」
 ジョンの言葉に頷くことはしなかった。約束した所で守れないことを知っていたからだ。ここへ来るのも、この親子に会うのも今日が最後になるだろう。
 ふと、隅に置かれている花瓶に目がとまった。昨日はなかったはずだ。花瓶には純白の花達が飾られていた。
「ああ、それ。昨日常連さんがプレゼントしてくれたのよ」
 花を見ていることに気づいたジュリスは、調理をしながらそう口にする。その口調にはどことなく嬉しそうな響きを伴っていた。
「ほら、例のうちの超ご贔屓さんからなんだぜ。あのおじさん、絶対に母ちゃんのこと好きだよな」
「こら、ジョン。変なこと言わないの!」
 ジョンの言葉に、慌ててジュリスが嗜める。しかし、その頬はかすかに紅潮していて、まんざらでもなさそうだった。
「だって、絶対そうじゃん。じゃないと金持ちなのに、こんなちっちゃい店に毎日のように来ないって!」
「ちっちゃいくて悪かったわね! ジョン、あの人に変なこと言って困らせないでよ」
 出来上がったサンドウィッチを片手に、ジュリスがジョンに釘を刺す。ジョンは「分かってるよー」と少々むくれ顔で言った。
「まったく、この子ったら。ごめんね煩くて」
 出来上がったサンドウィッチを目の前に置くと、ジュリスがかるく頭を下げた。しかし、おれはそちらには目を向けず、ずっと花瓶の方を見つめていた。
「カサブランカだな」
「え?」
 ジュリスは一瞬目を丸くしたが、すぐに花の種類を言っているのだということに気づいたらしい。自身もカサブランカを見つめた。
「ああ、そうそう。そんな名の花らしいね。私はあんまり花には詳しくないんだけどさ。アレックスさんはもしかして花好きなの? 男性にしては珍しいわね」
 ジュリスの話はほとんど耳に入ってこず、漠然とおれはカサブランカを見ていた。悠然と咲き誇る、純白の穢れのない花びらをもったそれは、まるでこの親子を現しているようだ。贈り主ももしかしたらそう想ったのかも知れない。
「アレックスさん? どうかした?」
 心ここに在らず状態になっていたおれに対し、ジュリスは少しばかり心配そうな面持ちで声をかけてきた。
「あっ、もしかして男性なのに花が好きって言ったの、女々しいって意味に取った? いや、違うのよ。むしろとても素敵でいいなあって思ったの」
「いや、そうじゃない。ちょっと考えごとをしていたんだ。だから、気にしなくていい」
 勘違いで謝罪するジュリスを制すと、サンドウィッチを手に取り、口に運ぶ。しかし、今日のサンドウィッチはやけに味がないように感じた。


 外へ出ると、道の向こう側から男が一人でこちらに向っているのが見えた。おれは無言でその男とすれ違った。




 警備をつけず、一人で出歩く危険性は言われなくたって、きっとあの男にも分かっている。それだけの修羅場を経験してきているはずだ。それでも命を狙われやすいリスクを背負うのは、あの店の経営を邪魔したくないという純粋な配慮か。それとも、ただ一人の人間として彼女達に会いたいからか。
 どんな悪党だって常に悪なわけじゃない。そして、誰も愛さないでもない。リアの言葉が頭をよぎる。
 ふと、白いカサブランカの花に思いを寄せる。あの男が意識していたかどうかは知らない。ただ、あの花の花言葉は確か「雄大な愛」だった。


 近々取り壊せる予定となっている建物の屋上。これ以上ない狙撃ポイントだった。準備はすでに済ませてある。後はターゲットが現れるのを待つだけだ。
 スコープ越しに地上を除く。視界の端に見えるもうすっかり見慣れてしまった看板が映る。希望の名をもつ小さくも暖かな雰囲気を持つ店。
 本当は出来るだけ彼女らに気づかれないようにしたかった。しかし、あの男が隙を見せるのは、店からほんの数メートル離れた距離までの間だ。店を出るとすぐにボディーガードが男の周りを囲んでしまう。
 おれは両目を瞑り、幸せそうに笑う親子の残像を振り払う。次に目を開けたときには、ただ依頼を遂行するためだけに意識を集中する殺し屋シエル・ボーネットとして、姿を現したあの男に標準を合わせていた。
 何も考えず、何も感じず、ただ引き金を引く。
 そうして、全ての終わりは訪れた。




 月明かりすら分厚い雲に覆われて届かない、真っ暗な深夜の道を一人歩く。周囲には人の姿も見えず、靴音がやけに大きく響いて聞こえた。
 目的はもう果たした。明日にはこの町を去る。
 だが、その前にまだ片付けなければならないことがあった。

「いい加減出てきたらどうだ。ずっと、おれの後を追っていても何もならないぞ」
 足を止め、背後にいる先ほどからずっと尾行していた追跡者に向って声をかける。本人なりに慎重に気づかれないよう行動していたらしいが、素人やることだ。最初からバレバレだった。
 建物の陰からゆっくりと追跡者が姿を現す。薄暗い中、街灯の光がその顔を照らし出した。
 ジュリス・ウォーレンが震える腕で銃を構え、おれを見つめていた。
「殺し屋だったんだね、あんた……」
 ゆっくりと、しかしはっきりとジュリスが喋る。おれの正体を知られた事に驚きはなかった。むしろ、こうなる事を予期していた。
「本当にあんたがあの人を殺したの……?」
 喉から搾り出すような声でジュリスは尋ねる。もう、確定事項であるにも関わらず、でも彼女からは信じたくないという気持ちが伝わってきて、その事に一番胸が締め付けられた。
「そうだ」
 彼女をまっすぐ見据え、肯定する。途端に彼女の身体がびくりと動いた。
「どうして……」
 ジュリスの頬に一筋の涙が伝う。彼女の銃を握る手にぐっと力がこめられた。
「理由は……知っているんだろう?」
 彼女は聞いたはずだ。おれの正体を、おれがあの男を殺したことを、彼女に告げた者から。
 リアがジュリスにあの男の本性を話さないわけがなかった。愛する者を奪われた憎しみとあの男が犯した罪。混乱し、葛藤するジュリスに銃を渡し、おれの居所を伝える。
 その結果、ジュリスがどう動くのか。
 ほくそ笑むリアの顔が目に浮かぶようだった。
「ああ、知ってるよ。聞いた。あの人が裏で何をやってるのか」
 つらそうな表情を浮かべ、ジュリスはきつく奥歯をかみ締める。言いようのない激情が彼女の中を駆け巡っているのだろうか。
「でも、どうして殺さなければならなかったの? 警察に任せればよかったじゃない! どうして!!」
 悲しみと憎悪がごたまぜになった絶叫が、閑散とした夜の街の静寂を切り裂いた。そうだ、おれは答えなければならない。ジュリスの問いに。
 彼女にわざと尾行させていたのはそのためだった。
「あの男は町の権力者だ。警察とも癒着してる。その状況じゃ、大抵のことは黙認されてしまう。並大抵のことじゃあの男は捕まえられない。そうやって時間を掛けていく内にさらに不幸になる人間は増えていく」
「それで、殺してもいいと?」
 じっとおれの話に耳を傾けていたジュリスは冷ややかに反応を返した。
 尚もおれは話を続ける。
「今回の暗殺はおれが直接依頼を受けた。依頼主はどこにでもいる普通の中年女性。依頼内容はこうだ。息子を殺した者を殺して欲しい」
 ジュリスの目がかすかな動揺で揺らいだ。彼女も子供を持つ身だ。依頼主の心情はおれ以上に分かるだろう。
「彼女の息子はたまたまあの男が麻薬の取引をしている現場を目撃してしまった。そのため口封じに殺された。息子は母親に真実を告げ、息を引き取った。当然、彼女は息子の無念を晴らそうと警察に訴えかけた。だが、さっきも言った通り、あの男は裏で警察と繋がっている。まったく相手にされなかったそうだ。それどころか、彼女自身も命も狙われた」
 依頼主は身一つでこの町を出でいかざるを得なかった。そこから、彼女の長くつらい生活が始まった。最愛の息子を失い、ろくに金もない、いつ殺されるかも分からない。そんな中で彼女はあの男への殺意だけを生きる糧としていた。
 依頼主に初めて会った時を思い返す。頬はやせこけ、服は薄汚れ、心身の苦労が刻まれた顔は年齢よりもずっと老いて見えた。しかし、その瞳だけは灼熱の憎悪の炎でぎらぎらと暗く輝いていた。
「そんなどん底の状況でも彼女は息子の無念を晴らすことを諦めなかった。あらゆる手段を使い、最終的におれも元へとたどり着いた」
 裏の世界でもおれの存在を知るものは少ない。ただの一般人であった彼女がおれを見つけ出したのは驚嘆の事実だった。まさに母親の執念としかいいようがない。時に人間は想像もつかない力を発揮する。だが、それはあまりにも悲しい強さだった。
「彼女はおれに全てを話し終えた後、こう最後に付け加えたよ。あなたでも駄目なら、私があの男を殺しに行きますと」
 ジュリスはおれの話はおれの話を黙って聞いていたが、何かを振り払うように一度目を瞑ると、ゆっくりと口を開いた。
「だから、あんたを憎むなと?」
「いいや」
 自分のやった事を正当化するためにこの話を聞かせたわけではなかった。ただ、ジュリスには全てを説明する義務がある。それだけのことだ。
「おれのことを許す必要なんてない。だが、悪いが、あなたに撃たれるわけにはいかない」
「復讐なんて無駄だからやめろってこと? 殺し屋のくせに随分な綺麗ごとを言うのね」
「あなたにおれは撃てない。撃つつもりなら、おれをつけている間に撃たなければならなかった」
「チャンスを伺ってただけさ。怖気づいたわけじゃない。何なら今ここで撃って見せようか!」
 叫ぶジュリスにおれはゆっくりと近づく。途端に彼女の身体がびくりと跳ねる。
 銃を構え直し、ジュリスがおれの動きを牽制するかのように凄みを利かせた。しかし、銃口は揺れ動き、焦点が定まっていなかった。
「やめておけ。後悔することになるぞ」
「そんな事、なぜあんたに分かる!」
「分かるさ。あなたは優しい人だから……」
 皮肉なことに善良である人間ほど、人を殺めた事実は重く圧し掛かってずっと苦しみ続けるのだ。たとえ、殺した相手がどうしようもない極悪人でも。どうしようもないクズほど、人殺しになったとしても明日には忘れてしまうくらい平然としているのに。
 ジュリスもそして依頼人の母親も本当に望んでいるのは復讐相手の死ではない。欲しいのは、取り返したかったのは二度と戻らない愛しい人との日々だ。
 だけど、それは何を引き換えにしたって戻らない。命ですらも。
 彼女達はきっとその事を分かっているはずだ。だからこそ、おれはジュリスに殺されるわけにも、依頼人にあの男を殺させるわけにもいかなかった。
 ジュリスの持っている銃を掴む。そして、それをおれの心臓に当て、彼女にこう問うた。
「血で汚れた手で、あなたはジョンを抱きしめられるのか?」
 息を飲む音がすぐ側で聞こえた。銃を握る手の力が弱まる。おれはそっとジュリスから銃を取り上げる。彼女は特に抵抗する様子もなく、拳銃から手を離した。
 顔を両手で覆い、両肩を振るわせるジュリス。かすかな嗚咽が耳に届いた。
 おれは彼女に手を伸ばしかけ、止めた。ジュリスに背を向け、ゆっくりとその場を後にする。

 空を見上げれば、真っ黒な雲の隙間から柔らかな月光が覗いていた。




 宿へと戻る途中、ふと足を止める。鼻腔を掠める覚えのある煙草の匂い。
「茶番劇、ごくろうさん。まあ、なかなかの見世物だったぜ」
 壁によりかかり、リアが楽しげに喉奥で笑っていた。
 どこかで見ていただろうことは予想ついていた。相手にする価値もないと不愉快な男を素通りする。
 向こうもそんなおれの反応などお見通しであったのだろう。人の神経を逆撫でするかのごとく、軽やかな足取りでおれの後を追ってきた。
「可哀想にな。あの親子の店はあの男の多額の援助のおかげもあって、今までやってこれたんだ。これからどうなることやら」
 わざらしく心配するような口調で誰に聞かせるわけでもなく、リアはべらべらと喋る。胸くそ悪い思いがはらわたを廻るようだったが、反応を見せればさらにこの男が喜ぶだけだ。おれはリアのほうに一切顔を向けず、ただひたすら歩き続けた。
「まー、客入りの方も悪くはなかったから今後もそうならやってけるんだろうけど。人ってのは勝手だからなー。町の奴らもみんなあの男が親子に目をかけてた事を知ってる」
 こちらの様子を伺うためかリアをおれの顔を覗き込む。そして、一息いれるかのように煙草の煙を吐き出した。
「あの男の死はこの町にとっちゃ大打撃だ。死んだこと事態もそうだが、それにより奴の裏の顔が暴かれることになったからな」
 自分の方にあの男の暗殺を依頼していたのは、警察関係者だったとリアは話して聞かせた。あの男と警察とは癒着していたのだが、最近揉めていたらしい。ようは口封じだった。
 死んでさえしまえば、警察もあの男を庇い立てする必要もないわけだ。
「そうなっちまうと、町の連中は少なくとも表向きは散々世話になった癖に、今度はあの男を恨み始める。その対象は男だけじゃなく、奴が贔屓してたあの親子にも及ぶだろうな。
本当に可愛そうに。彼女らはこの町を追い出されることになりそうだぜ?」
「……それで、お前は何が言いたい?」
「んー? 別にお前を責めたいわけじゃねえよ。確かにお前のやったことでこの町の発展とあの親子の幸せぶっ壊したけど、それ以上に救われる人間のが多いもんな。ダークヒーロの働きとしては上々だろ」
「……っ!」
「おっと。返却どーも」
 苛立ちに任せ、おれはリアに先ほどジュリスから受け取った銃を投げつける。リアは瞬時に両手を出し、何とかそれを受け取った。
「でもなあ、シエル。お前がいくらゴミを掃除したところでゴミが減ることはねえんだよ。残念ながらな。確かにあの男はいなくなったが、あの男のポジションにはまた誰か別の悪党が付くだけだ」
 ポンとまるで友人を気遣うような手つきで、リアがおれの肩に手を置いた。払いのけようかとも思ったが、しなかった。露骨に挑発に乗るようなマネはしたくない。そんな些細な意地など、この男には無意味だと知っていても。
「まあ、これはおれ個人の意見なんで、お前のやった事が無意味だとは言わねえよ。それはお前が決めることだしな。なあ、シエル?」
 悪意を煮詰めたような笑みを浮かべ、リアはおれから離れた。
「じゃあな。背後には気をつけて帰れよ!」
 おれに背を向け、片手を上げながらリアは去っていく。

 その後姿を見ながら、おれは唇をかみ締め、その場に立ち尽くしていた。




 数日後、おれは再度エスペランサを訪れた。扉を明けると、あれだけににぎやかだった店ががらんどうになっている光景がまず視界に入る。かすかに胸が疼いた
 奥の方で物音がし、そちらに目をやる。ジュリスがせわしなく動き、食器などを片付けていた。
 恐らく、ここを出て行くための準備だろう。彼女の足元には旅行カバンがいくつか置かれていた。

「あんた……いつの間に」
 おれの存在に気づいたジュリスが目を細め、こちらを睨む。怒りと警戒感を彼女からひしひしと感じた。
「自分を殺そうとした相手の所にまた現れるなんて、あんた馬鹿じゃないの?」
 強い口調だが、どことなく戸惑っているのが感じられた。おれがここに現れた真意を測りかねているのだろう。
「これを……」
 おれは持っていたバッグを床に放り投げた。
 ジュリスは怪訝な顔をして、おれを見つめる。しかし、こちらの意図が伝わったのか、おそるおそるバッグのチャックを開ける。
 中を見た途端に、彼女の目が見開かれた。 
「何の真似?」
 バッグの中身は大量の札束。
 眉間に皺を寄せ、ジュリスが鋭い眼光でおれを射抜く。
「罪滅ぼしのつもり? それとも同情?」
 早口で捲くし立てながら、おれに詰め寄る。勢いよく胸倉を掴み上げられれば、彼女の憤怒にわななく顔が目に入る。けれど、何を言うでもするでもなく、ただ彼女の動向を傍観していた。
「馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
 ジュリスは憎しみと痛憤と悲しみをまぜこぜにしたような表情を浮かべ、何度も何度もおれの胸に拳を叩きつけた。
 大して痛みは感じなかった。ただ、なりふり構わずない激しさが彼女の心情を物語っていて、やりきれない思いにおれはゆっくりと目を閉じる。
「あなたのためではなく、ジョンのためと言ったら、これを受け取ってくれるか?」
 その言葉に彼女は弾かれたようにおれを見上げた。
 唇が何かを言いたげにかすかに震える。葛藤しているのだろうということが見て取れた。
 卑怯な言い分だ。だけど、それでもこの親子には先立つものが必要だった。こういえば、彼女は金を受け取る。金だけあっても幸せを手に入れられるとは限らないとしても、彼女は母親だから。子供のためになら、いくらでも自分は犠牲に出来る人種なのだという事を知っている。依頼主のように。
「受け取りたくないのは分かる。だが、金がないことでやってくる不幸をおれは何度も見てきたから……」
 あなた達には不幸になってほしくないんだとは言えなかった。言えるはずもなかった。彼らから大事な人を奪ったのはおれだ。なのに、そのおれがこの親子の幸せを祈るなんてあまりにも滑稽な話だろう。そんな権利すらありもしない。
「……確かにそうね。でもね、お金では命は買い戻せないのよ、殺し屋さん」
 こんな事をするぐらいなら、どうしてあの人を奪ったの?という声にならない声が聞こえてくるようだった。容赦ない言葉を投げかける彼女に、返せる答えなど持っていない。
 おれとジュリスはお互いを見やったまま、どちらも口を開くことなく、ただ時間だけが過ぎていった。沈黙が重く肩にのしかかかる
「あなたには大事な人とかはいないの?」
 小さな声でジュリスが尋ねた。
 脳裏に風で揺らぐ色とりどりの花たちが浮かぶ。今はもうどこにもない花畑。おれが壊してしまったもの。
「かつてはいた。でも、死んだ」
「そう……」
 ジュリスは顔を背け、そう呟く。どんな表情をしているのかうかがい知る事は出来なかった。
「あの人は確かに悪人だった。彼によって不幸になった人がいるのも知ってるわ。ただ、私とジョンにはとても優しかったの。本当に……」
 ジュリスの肩が小刻み震える。もしかしたら、泣いているのかもしれなかった。
「彼のやったことが許されるとは思わないし、罪を償わなければいけないとも思うわ。でも、死んでほしくなかったの。生きていて欲しかったのよ」
 それは彼女の心からの叫びだった。人が人を想う思いに理屈も善悪も存在しない。人は一人で生きてるわけじゃない。当たり前のことだ。当たり前のことをジュリスはおれにあ改めて教えた。
「それを忘れないで……」
 消え入るような声は彼女から流れた一滴の涙と共に拡散した。
「ああ……」
 おれは頷き、彼女に背を向ける。もう、ここに用はなかった。この親子とも二度と会う事もない。

 扉に手をかける。すると「あなたは悲しい人ね、殺し屋さん」という声が背中越しに聞こえてきた

 だが、それに返事を返すことも振り向くことせず、おれは店を出て行った。






 廃墟と化した小屋。そこにただ一人、おれは立ち尽くしていた。
 何もない荒れ果てた空間はむしろ今の自分には有難かった。今は誰にも会いたくなかった。

 壁に寄りかかり、ずるずると座りこむ。特に何をするでもなく、おれはただ漠然と今回のことと、それに関わった者達について思い起こしていた。

 依頼主とはその後、依頼が完了したことを報告するために一度だけ会った。ターゲットが死んだことを知ると、「ありがとうございます。これで息子を浮かばれるでしょう」と頭を下げ、微笑んだ。しかし、その笑みはどこか乾いているように見えた。
 彼女はその後息子の下へ報告へ行くと言っておれと別れた。
 何となくだが、息子の墓の前で彼女はまた泣いているような気がした。

 今回の件で一体何が救われたのだろうか。少なくともあの男によって不幸になる人間はもう出ない。しかし、リアが言っていたように麻薬王だった男のポジションにはまた新たな人間がつき、それによってまた不幸になる人間が生まれるだろう。どんなに血で血を洗った所で汚れは消えない。
 結局の所、女が泣く姿しか見ていなかったのではないだろうか。

 ただ、漠然と人を殺し続ける先に何がある? その意味は? もう、幾度となく繰り返してきた答えのない問答が頭の中を廻る。

――あんたは苦しんで苦しんで、そして惨めに死ぬのよ――

 ふと、アレッサ・ボーネットの言葉が甦った。せめて、彼女の望みどおりの結末を迎えたのなら、最後に泣いていた彼女の涙は止まるんだろうか?

――っ……

 また、誰かの声が聞こえる。どことなく悲しそうな声。アレッサじゃない。あれは……エレナの声だ。

 エレナ……君の事は1日たりとも忘れたことはないはずなのに。だけど、どうしてだろうな? 今は君の笑顔が上手く思い出せないんだ。