猟奇殺人鬼と傷だらけの少女の話 1

 それは今から五年前のことだった。

 どこにでもあるような田舎町。人の気配がほとんどない狭い道で、突如ブレーキ音と何かがぶつかったような音が鳴り響く。
 そこそこ高級そうな黒い車から、ビジネスマン風の中年男性が焦った様子で路上へと姿を現した。身につけている服や装飾品などから、それなりの地位の者であるらしい。
 男は急いで車の前方に倒れこんでいる子供に近寄よった。
 子供は女の子でかなり小柄だった。そのわりにはかなり大きなシャツを着ていて、倒れこんだ時についた砂ぼこりで汚れている。
 ところどころ擦り傷が見えるが、大きな傷は負っていない。その事に男は一先ず安堵した。女の子はやおら立ち上がり、男をじっと見つめる。そして、ゆっくりと口を開いた。

「お金を下さい」

 ディアスがこの町を訪れたのはただの気まぐれだった。仕事を終え、特にあてもなく自由気ままに旅をしていた途中で、偶然知り合いの住んでいる所の近くに来ていることに気づいたのだ。知り合いといっても、向こうは自分に会うことを微塵も望んでいないことはディアスも知っている。なので、こちらから訪ねようとはせず、その人物に会うことを密かに期待しながら、そこらを散歩していた。
 どこからか車の大きなブレーキ音と何ががぶつかるような衝撃音、そして男性の怒鳴り声がディアスの耳に入ってきたのはそんな時だった。
 声のした方へ視線をやれば、スーツを着た中年男性が小さな女の子相手に何やらがなりたてている。
 ディアスは首を捻りつつ、そちらの方へと足を向けた。
「何があったのかは知らねぇけど、そんなちっちゃい子に怒鳴っちゃ大人げないぜ」
 気さくな声と表情で、ディアスがビジネスマン風の男と少女の間に割って入る。その途端、いかにも気難しいな容姿の男がじろりとディアスを睨みつけた。
「他人が口を挟むな。お前には関係ないことだ」
 高圧的に男はディアスに向かって言い放つ。身なりや車から推測するにそれなりの金持ちらしいが、人間としての器量は狭そうだとディアスは肩を竦めた。中途半端なエリートにありがちな性格とみてほぼ間違ってないだろう。
 ディアスはエリートビジネスマンを無視すると、女の子の方に向き直った。
 見知らぬ男の登場に怯えているのか、少女はおどおどとディアスを見上げる。可愛らしい顔立ちをしているが、ボサボサの髪と顔がちょっと汚れているのが惜しいなとディアスは思った。だが、恐らく少女の容姿を他の人間が見て感じる感想は、ディアスとは異なることだろう。まず、ビスネスマンの男もそうだったのだが、彼女の顔の右側に目が引かれるはずだ。少女の右頬の大部分は生まれつきであろう痣に覆われていた。
 ディアスは少女を安心させるかのように、にこやかに笑いかけてやる。
「何があったんだ?お嬢ちゃん」
 優しく問いかけると、少女はびくついた様子を見せつつも、徐にビスネスマンの車を指差した。
「……この車があたしを轢いたの」
 辛うじて聞き取れる声で、少女が答える。だが、その言葉を聞いた途端に、ビジネスマンはこめかみに青筋を浮かべ、少女に詰め寄った。
「こいつの方が飛び出して来たんだぞっ。それなのに慰謝料寄越せとか抜かしやがったんだ」
 ビジネスマンが怒り心頭といった具合にいきり立つ。
 一応、男の話を頭に入れてはいたものの、ディアスの視線は依然として少女に注がれていた。
 そこらの子供と比べると、少女はかなり痩型だ。身体に合わないサイズの服を来ているため、ただでさえ小柄な体がますます小さく見えてしまう。その服も車にぶつかったせいでついた汚れを差し引いても、元から薄汚れており生地もボロボロだ。
 だが、何よりもディアスが気にかかったのは、少女の服から覗く肌についた無数の傷であった。それらは皆どれも昔に出来たもののようだ。
 少女の事情を大体察し、ディアスは悲しみと若干の憤りを混ぜたような表情を浮かべた。
「その上、金を出さなかったら、車のナンバーは覚えたから通報するときやがった。まったくふざけやがって!」
 だが、少女のことなどまったく眼中にないビジネスマンは、己が受けたと思っている理不尽な仕打ちについていまだわめき散らしている。
「まー、気持ちは分からなくもないけどさ。車に乗ってる以上は歩行者を守る義務があることだしねー。ここは大人らしく金ぐらい渡してやったら?」
 いつものような人懐っこい笑みを取り戻し、紙より軽そうな口調で男に提案を示してやる。
 たが、それで事態が解決するわけもなく、ビジネスマンの怒りに対し、火に油を注ぐような結果にしかならなかった。
「なに、馬鹿なことを言ってるんだ。貴様ごときにそんなことを指図される筋合いはない!」
 男はディアスを睨み付け、耳障りな声で叫んだ。あくまでも自分に非はないと考えているらしい。
 それなりの金は持っているのだから、さっさといくらか少女にくれてやった方が面倒にならずに済むだろうにと、ディアスはやれやれとため息をつく。そして、スーツの内ポケットに手をいれた。
 次のディアスの動作をビジネスマンは目で追うことが出来なかった。
 顔の左側に風を感じたと共に頬に伝う赤い液体。
 ビジネスマンが恐る恐る目線を左に向ける。銀色の光が目に入ったとたん、男は「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
「命を失うよりはましだろ?ごちゃごちゃ言ってねぇで有り金全部置いてきな」
 ナイフの刃を首筋に当て、ディアスが囁く。穏やかな笑みと声にも関わらず、言っている内容はそこらの強盗と何ら変わりなかった。
 命の危機を感じ取ったビジネスマンの顔から血の気が引いていく。
 急いで財布をディアスの前に放り投げ、慌てふためきながら車へと乗り込む。そして車を急発進させ、あっという間にその場から走り去っていった。
 金には余裕があるのだろうから最初からいくらか渡してやれば、それだけで済んだことなのに。
 いかにもな小物ぶりを見せたビジネスマンに苦笑いを浮かべながら、地面に落ちた財布を拾い、少女の方へ差し出した。
「ほら」
 ディアスがにっこりと笑いかける。少女は不思議そうな面持ちでディアスを見つめていたが、やがて恐る恐る財布に手を伸ばし、それを受け取った。
「あ、ありがと……」
 非常に聞き取りづらいぼそぼそ声で礼を言うと、少女は小さく頭を下げた。
「なーに大したことじゃないさ。お兄さんは子供の味方だからな」
 笑い声を上げながら、ディアスは女の子の頭を撫でようとする。しかし、手を女の子の頭上にかざしたと同時に、女の子は体をびくんと跳ねさせた。ディアスは一瞬だけ哀憫の表情を浮かべ、手を引っ込める。
 ふと、少女の足に目が止まる。転んだら時に擦り剥いたのか、右の膝小僧から血が出ていた。
「ありゃ、足怪我してんぞ」
 スーツの胸ポケットから白いハンカチを取り出すと、少女の服や足についた泥を軽く払う。そして、怪我をしている箇所にハンカチを巻いてやった。
「よし、とりあえずこれでいいだろ。歩きづらくないか?」
 少女は辺りを歩いたのち、首を振る。だが、ディアスは少女の返事よりも、彼女の怪我していないはずの左足が気になった。
「足引きずってるけど、捻ったのか?」
 その問いに少女は再び首を横に振る。
「これは…前の時のやつだから……」
 伏し目がちに答える少女に、それ以上尋ねることはしなかった。代わりにディアスは彼女を抱き抱える。
「キャッ」
 突然のディアスの行動に、少女はさすがに驚いて目を丸くする。一方のディアスは意気揚々と、少女を抱えたまま歩き始めた。
「なぁ、お兄ちゃんにちょっと付き合わない?」
「えっ……?」
 強引な誘いに、少女は困惑したような声をあげる。ディアスを怖がっているというよりも、どうしていいのか分からないようだ。
「無理にとは言わないけどさ。どうする?」
 その誘いに少女は暫し悩んでいたようだったが、やがてディアスの肩を強く掴む。それを無言の承諾と取ったディアスは、少女と共にどこかへ颯爽と歩き出した。
 若い遊び人風の男が小さな女の子を連れている図は、今のご時世だと通報されてもおかしくなかったのだが、幸いにもディアスが目的地につくまで何の邪魔も入ることがなかった。




 小さな公園へとやってきたディアスたちはベンチに腰を下ろす。
「ちょっと待ってな」
 そう告げると、ディアスは少女を一人残し、どこかへと向かう。
 再び戻って来た時には、その両手にアイスクリームのカップが握られていた。
「ほら、一緒に食べようぜ」
 ディアスは少女にアイスクリームを渡すと、隣に座りアイスを食べ始める。それを見て、少女の方も遠慮しがちにアイスに手をつけ始めた。
 そんな二人の姿はまるで親子のようにも見えた。
「そーいや、名前なんていうんだ?」
 ディアスの質問に、黙々とアイスを頬張っていた少女が顔を上げる。
「……リザ」
 相変わらず自信無さそうなか細い声で、少女は自分の名を告げた。
「リザか……いい名前だなー。おれはファン・ディアスって言うんだ。よろしくな」
「……ディアスさん?」
「ファンでいいぜ、リザ」
 べらへらと一方的に馴れ馴れしく喋るディアスに、少女はこくりと頷く。
「年は?」
「……9歳」
「そっか、9歳か。ちなみにおれは25歳な」
 予想していたよりもリザの年齢は上だった。同じぐらい子供と比べると、リザの体格ははるかに小さく、話し方も幼い。
 心身ともに成長が遅れているのだろう。
「家族は?」
 ディアスは矢継ぎ早に質問を続ける。
「……お母さんがいる」
「お父さんは?」
「分かんない……」
 首を横に振るリザ。これまでの会話でディアスは彼女の境遇を大体掴んでいた。思いきって、ずっと気にかかっていたことを尋ねる。
「なぁ、リザ」
「なに?」
「さっきみたいなこと車にぶつかったの初めてじゃないだろ?」
 リザの肩が大きく跳ね、驚きと恐れが入り交じった瞳でディアスを見た。
「ち、違うの……そ、それはね」
 しどろもどろにリザは誤魔化すように喋る。明らかに彼女は動揺していた。
「あたしがいつもどじでのろまなせいなの……そ、それでお母さんにいつも叱られて……」
 ディアスを見据えるつぶらな瞳は何かを訴えかけるような必死さを伴っていた。リザの手に力が込められ、アイスのカップがかすかに震える。
 彼女が何かを隠しているのは間違いない。
「そりゃ大変だなー。今回は軽い怪我で済んだけど、車は怖いんだぞ。気をつけなきゃな」
 しかし、あえてディアスは事の核心には触れず、リザに対し気遣いの言葉をかけてやった。
自分の言葉にディアスが納得してくれたのだと思ったリザはホッと胸を撫で下ろす。
「うん…分かってる」
 こくりとリザが頷いた。だが、ディアスは確信していた。この子はいずれまた似たようなことを繰り返すと。
「本当に気を付けろよー。せっかく可愛い顔してんだから、傷でもついたりしたらお兄さん悲しいぜ」
 演技じみた、けれど心配そうな口調でリザに言い聞かせる。実際にディアスは彼女が気がかりでならなかった。
 しかし、ただの他人である己に出来ることなど何もないことも分かっている。強引に首を突っ込んだところで、リザは態度を頑なにするだけだろう。
「可愛い?」
 そんなディアスの複雑な想いなど露知らず、リザは別のところで引っ掛かりを覚えたのか、不思議そうな顔して首を傾げた。
「あたしが……?」
「ああ、めちゃくちゃ可愛いぜ。だからこんなに親切にしてるんじゃないか。おれは誰にでも優しいけど、可愛い子には特に優しいのさ」
 大袈裟に両手を開き主張するが、リザはいまひとつ信じていないようだった。
「そんなこと初めて言われた。だって……」
リザの声がだんだん小さくなっていく。顔を俯け、痣を隠そうとするように腕で顔の右半分を覆った。
「みんな、あたしの顔見て気持ち悪いっていうから……お母さんも」
過去のつらい出来事を思い出したのか、リザの目が微かに潤む。ディアスは微笑み、両手をリザの頬に添え、顔を上へと向けさせた。
「それはリザの周りの奴らの目が曇ってたのさ。自信持てよ。こんなに可愛いんだからさ」
リザの顔を真っ正面から覗き込む琥珀色の目は、驚くほど温かく優しい色をしていた。
「ほ、んと……?」
「ああ。本当、本当。おれが言うんだから間違いないっ」
「……うん、ありがと」
ずっと暗かった顔だったリザはようやく嬉しそうにはにかむ。それにつられて、ディアスも心底嬉しそうな表情を見せた。
「なあ、リザ。暇ならもうちょっと付き合わないか? おれと一緒にデートといきましょう。お嬢さん」
リザの肩を抱き、まるで大人の女性を口説くかのように囁く。
 だが、一方で右手はスーツのポケット突っ込み、ぎゅっとナイフの柄を握っていた。さっきまでの屈託ない笑顔とは違い、その瞳の奥にはうっすら暗い光が宿っていたが、リザはそれに気づかない。
「ごめんなさい。もう帰らないといけないの。おうちのことやらないとお母さんに怒られちゃうから」
 リザはそう謝罪し、ディアスの誘いを断った。すると、ディアスは「そっか、残念」とあっさりと引き下がり、リザの見えない所で握っていたナイフから手を離す。
「なら、気をつけて帰れよ。特に車には注意してな」
 冗談まじりの言葉に、リザは「うん」と頷いた。
「あ、あのね……」
 帰る間際、リザが上目使いで何かを言いたそうにディアスを見上げる。
「ん? どうした?」
「明日も今くらいの時間にまたここに来ること出来る?」
 リザの意外な質問にディアスはちょっと目を丸くした。
「来て欲しいなら、喜んで来るけど。何だ、明日こそおれとデートにでも行く?」
「貰ったハンカチ、血で汚れっちゃったから……新しいの渡したくて」
 その言葉で、リザの怪我した箇所に自分のハンカチを巻いていたことをディアスは思い出す。
 微笑ましい少女の気遣いに、ディアスは思わず破顔した。
「別に気にしなくていいのに。けど、可愛い子に会えるなら明日も公園来ちゃうけどね」
「あ、でもね……」
 突如、リザの顔が曇る。言葉を途切らせ、顔を俯けた。
「もしかしたらお母さんがダメって言うかもしれないの……そしたら、来れなくなっちゃう」
 先ほどからそうだったのだが、リザは母親の存在をひどく気にする。それだけ、彼女にとって母親は非常に大きな、絶対に近い存在なのだろう。
「そっか、分かった。ま、来なくてもお兄さんは勝手に遊んでるから大丈夫だぜ。暇だしな」
 ディアスがそう言ってやると、リザはどことなく嬉しそうな声で「分かった」と返事した。


 約束を交わした後、家へと帰るリザにディアスが手を振る。少女の後ろ姿を見つめるその表情は神妙なものへと変わっていた。
「いや、本当。母親想いのいい子だねー」
 ディアスにはもう検討がついていた。リザはいわゆる当たり屋だ。車に故意にぶつかっては、口止め料や慰謝料と称して金を脅し取る。そんな行為を今まで何度も繰り返してきたに違いなかった。片足を引きずっていたのもおそらくその後遺症だ。
 もちろん、本人が望んでそんな事をしているのではない。当たり屋をするよう強要しているのは、十中八九彼女の母親だろう。
 リザの体中についた古傷は当たり屋をやることによって出来たものだけでなく、母親によるものもおそらく含まれている。
 けれど、そんな境遇でもリザは母親を恨むことなく、むしろ庇い続けていた。子供というのは親、とくに母親を何より慕うものなのだ。たとえ、それがどんな人間であれ、子は親の愛を得るためなら何だって出来る。例え、己の命を脅かすことになったとしても。
 あまりにも純粋で健気な想い。ディアスにはリザの心情が痛いほど理解出来た。彼にも何より守りたいと願う家族がいるから。
 だからこそ、惜しいなと感じた。
「実におれ好みだったんだけどなー。なあ、しゃーねぇか」
 再び、ナイフの柄を握ると眼前にかざす。銀色の刃が夕日に照らされ、キラリと光った。ゆっくりと口角を釣り上げ、その瞳から光が消える。
「さて、今日のお相手を探しにいくかな」
 そう誰に言うでもなく、一人呟き、ディアスは徐に歩き始める。
 風が木々を揺らし、鳥が騒々しく喚く。それはまるで何か不穏な気配を察しているかのようだった。





 薄汚れた一軒家。リザは玄関の前に立ち、一瞬の躊躇を見せた後、扉をゆっくりと開いた。キイッと蝶番が軋む音に、部屋の中にいた女性がリザの方を振り向く。
 ガリガリに痩せた神経質そうな顔立ち。近寄ってくるにつれ、厚化粧と酒の混ざった強い匂いが鼻をつく。女性はリザの前に立つと、威嚇するようにして睨みつけた。
「何やってんだ、このクズ! 遅いんだよっ」
 上から見下ろすようにして、女性が罵倒する。途端にリザが怯えたように身を縮こませた。
「ご、ごめんなさい。お母さん……」
 小声で謝りながら、リザはこれ以上不興を買わないように努める
そんな娘の様子に、母親である女性はふんっと鼻を鳴らした。
「金は?」
 イラついたように母親が尋ねる。それに応えるようにして、微かに震える小さな手が財布をそっと差し出す。
 母親は奪い取るような勢いで財布を受け取った。
「ふーん、結構入ってるじゃん」
 さっそく中身を確認し、厚い札束を目にすると、さっきまでのイラついた様子が一変する。機嫌が良くなった母親にリザは安堵したが、それも一瞬のことだった。
「お、そいつ帰ってきたのか。てっきり死んだと思ったぜ。で、今日の収穫は?」
 突然、下卑た笑みを顔に貼り付け、三十代ぐらいの男が現れる。男の登場に母親は媚びるような、リザは心底嫌そうな両極端な表情を見せた。
「ああ、今日は中々いいカモを見つけたようだよ」
 母親がいかにも高そうな革の財布を男に見せつけ、にやりと笑う。それを見て、男の顔はますます下品に歪んだ。
「おお、やったじゃん。じゃあ、今日はたっぷりお祝いしなきゃなぁ」
 母親の腰に手を回し、男が耳元で甘く囁く。母親は「馬鹿ねぇ……」と言いながらも、頬を微かに赤く染め、満更でもないようだ。二人ともその場にいる子供のことなど最早眼中にないようで、自分の家なのに居心地の悪さをひしひしと感じ、リザの気持ちは深く沈んでいった。
 この男は母親が働いている酒場の常連客で、最近ではこの家に入り浸るようになっていた。母親は男のことを相当気に入っているようだが、リザは男が大嫌いだった。
 目の前でやたら母親にベタベタするのがとても嫌だったし、男といるときの母親はより激しくリザに手を上げるからだ。時には男も一緒になってリザに暴力を振るうことさえあった。
「なに、そこで突っ立ってんのよこのクズっ」
 家に入ることも出来ず、玄関にじっとしていたリザに母親が再び怒鳴る。ああ、やっぱりとリザは顔を伏せる。次に何を言われるか、彼女は瞬時に察した。
「ほら、さっさと出て行きなっ。許可なく中に入ったら許さないよ!」
 母親はリザの腕を掴むと、有無を言わさず外へと放り出す。そして、乱暴に扉を閉めてしまった。
 リザはなすすべもなく扉に背を預け、ずるずると座り込む。母親の意に反したことをすれば、返ってくるのは激しい暴力だ。大人しく待つよりほかなかった。


 そうして、どれくらいの時が経ったのだろう。辺りはもうすっかり暗くなっていた。夏の終わりの時期、夜になると気温は急激に下がる。粗末なTシャツ一枚しか着ていない小さな身体は小刻み震えていた。
 そうやって寒さに耐えている中、ふと耳に入る足音と話し声。リザが顔を上げると、近所に住む主婦二人組の姿が視界に入った。主婦とリザの目がかち合う。すると、主婦たちは気まずそうに顔を背けてしまった。
「また、あの子外に出されてるわよ」
「可哀想だけど、あそこの母親と関わりたくないのよね」
 哀れみの視線を送りつつ、ひそひそと話しながら主婦たちは足早にその場から立ち去ってしまう。けれども、それは日常のことだった。
 リザの存在やその身に受けている仕打ちは、近所の人々も知っていた。だが、周りの人間は小さな少女を不憫には思っても、誰も救いの手を差し伸べようとはしない。彼女の母親はヒステリックで粗暴な性格で、よく対人トラブルを起こしていたし、何やらよからぬ人種との付き合いもあることで有名だ。それゆえ、余計なお節介をすることでいらない恨みを買うことを皆が敬遠したのだった。所詮は他人事。面倒事には誰だって巻き込まれたくはないのだ。
 リザの方も助けを求めることなど、当の昔に諦めていた。誰も皆、自分に優しくしてはくれなかったのだから。
 いや、でもたった一人だけ。
 半ズボンのポケットに手を入れる。そこから取り出したのは血で汚れた白いハンカチ。赤い髪の優しげな顔をした男性の姿が脳裏に浮かんだ。
(どうして、あの人はあたしに優しくしてくれたんだろう……)
誰もが、母親でさえ気味悪いといった顔の痣があるにも関わらず、あの男の人は唯一リザを可愛いとまで言ってくれた。
 ぎゅっとハンカチを握り締める。いつもなら、どんな仕打ちを受けても泣かないはずなのに、今日だけは何故か目尻に今にも溢れそうな雫が溜まっていた。


 そんな少女のことなどまったく気にも留めず、ソファに座った二人の男女は思う存分酒を飲み、楽しいひと時を過ごしていた
 その最中、床一面に無数に転がっている空き缶がつま先に当たり、男はそれを蹴飛ばす。音を立て、缶は玄関のある方へ転がっていった。その光景に何思うところがあったのか、男は隣にいる母親の方へ向き直った。
「いーのかよ、あれ」
 男はビールを一口あおると、意味深な言葉を投げかける。
「何が?」
 含みを持たせた言葉の指すところが見当つかなかったのか、怪訝そうに母親が男を見やる。すると、男の顔が心底意地悪い笑みを型どった。
「外にいるアレ」
 男は玄関の方を指差す。今の今まで忘れていた外に追い出した存在を指摘され、母親の眉間に深い皺が寄った。
「よしとくれよ。せっかくいい気分だったっていうのに」
 楽しくやっていたところに水を差され、若干拗ねたような声を出す。そんな母親の様子を見ながら、男はニヤついた。
「ひでぇ言い草だな。こうやって俺たちがパーティー出来てるのも、あいつが身体張って金稼いできたおかげなんだぜ」
「別に子供なんかいらなかったのに養ってやってるんだから、こんくらい当然だろ」
 さも当然といった風に母親は言い放った。父親がどこの誰とも分からず、堕ろすにも金もなく、しょうがないので産んだ子がリザだ。娘に対する母性など最初から微塵も持ち合わせていなかった。
「ただでさえ、顔にあんな醜い上に目立つ痣があるせいで使えないっていうのに。女として使えないなら、車にぶつかってでも金稼いで貰わないとね」
 そう言い捨て、母親は男の膝の上に乗る。そして、細い腕を男のたくましい首に回し、熱っぽいねっとりとした視線を送りながら、食いつくように唇を重ねた。
「ねぇ、もうアレの話はいいじゃない。せっかく二人っきりなんだからさぁ、楽しもうよ」
 吐息を耳に吹きかけ、甘く誘うように囁く。まるで発情した牝猫だなと嘲りつつも、男はキスを返し、母親の服の中に骨ばった大きな手を滑らせた。


 翌日、早朝からリザは掃除や洗濯などこなし、せわしなく動いていた。家の家事は全て彼女の仕事だ。やらないと酷く折檻を受けるため、リザは毎日のように母親の身の回りの世話をしていた。
 ひと段落ついた所で、母親が投げつけるように財布をリザによこす。
「ほら、さっさとビール買ってこい。いいかい、余計なもん買うんじゃないよ」
 母の命令は絶対だ。リザは無言で頷くと財布を拾い、足早に家を出て行った。



 言いつけ通り買い物を済ませ、リザは帰り道を歩く。体に不釣合いな大きく重い箱に入ったビールを両腕で抱えているため、その足取りはフラフラとしていて非常に危なかっしい。額からはうっすらと汗が滲み出ていた。
 それでも少女は可能な限り早く歩く。帰りが遅くなると、母親の機嫌が悪くなるというのもあったが、どうしても行きたい場所があったからだ。
 息を切らしつつ、リザは目的地の公園にたどり着く。恐る恐る、辺りの様子を伺うと、昨日座ったベンチに会いたかった人物がいた。何か買い物でもしたのだろうか、白い大きな紙袋を足元に置き、じっと座って待っていてくれている。その姿を確認すると、嬉しそうに微笑み、ベンチへと急いで向かう。
 赤毛で白スーツを着たその人物もリザの存在に気づき、笑顔で手を振った。
「久しぶりと言っても、一日しか経ってねえけど。とにかくまた会えて嬉しいぜ、リザ!」
 ベンチから立ち上がり、キザっぽいウィンクを見せるディアス。相変わらず大げさな仕草だが、リザとまた出会えたことを心から喜んでいることが伝わってくる。そんなディアスの様子にここへ来て良かったと心から思った。
「良かった、来てくれて。あのね、これ……」
 ポケットから何かを取り出すと、リザはディアスにそれを差し出す。真新しい純白のハンカチ。昨日の約束を守ってくれたのだ。律儀な少女にディアスは目を細めて、それを受け取った。
「わざわざ新しいの買ってきてくれたのか! 気にしなくてもよかったのに」
「……嬉しかったから」
 リザがぼそりと呟く。
「だから、どうしてもお礼がしたかったの。でも、ごめんなさい。あんまりお金がなくて安いのしか買えなかった……」
 おずおずと消え入るような声で喋りながら、ディアスの様子を伺う。置かれた環境のせいだろうか。リザは人の心の機微に酷く気にする。
 ディアスは身を屈めると、リザと目を合わせた。そして、穏やかな微笑みを浮かべると、その頭をそっと撫でてやる。
「馬鹿だなぁ。そんなこと全く気にしなくてもいいんだって。前のやつよりずっと気に入ったぜこのハンカチ。ありがとうな、リザ」
 柔らかく優しい声と温かく大きな手。どうしてだか、とても安心する。もし、お父さんがいたらこんな感じだったのだろうかと、リザはふと思った。
「ファン……さんは優しいね」
「呼び捨てでいいのに。それはそうとして、おれはいつでも優しいのさ。特に可愛い子にはね」
 昨日と同じジョークに、リザは思わずクスクスと笑う。あまり見ることの出来なかった子供らしい無邪気さを、ディアスは慈しむように眺めていた。
「じゃあ、もう行くね。お母さんが待っていから……」
「そうか、残念だな。今日こそデートに誘おうと思ってたのに。気をつけて帰るんだぞ」
「うん」
 名残惜しそうにしながらも、リザはその場から離れる。しかし、相変わらず身体はよろついており、足元が覚束無い。ただでさえ、片足が不自由なのだ。その姿はあまりにも痛々しかった。
「おいおい、大丈夫かー? 何なら、おれが荷物持って家まで送ってやるぞ」
 見かねたディアスがリザの身体を支える。しかし、リザは首を振って、その提案を断った。
「知らない人を連れてくるなって言われてるの……」
 訴えるようにディアスをじっと見るその瞳には、怯えの色が混じっている。もし、このまま共に家までいけば、その後リザがどんな目に合わされるか想像に難くない。
「分かった。じゃあ、またなリザ」
 リザの思いを汲んで、彼女からそっと離れた。
 この人は自分のことを分かってくれている。もしかしたら、お母さんよりもずっと。いつまでもここに、この人と居たい――そんな想いを振り切るように、リザはディアスの顔を目に入れないように、公園をあとにする。
 またなと言ってくれたが、多分もう会うことはきっとないだろう。どんなに己のことを気遣ってくれたとしても、ディアスはリザにとって所詮他人なのだ。深い所までは踏み込めない。幼いながらも、リザはちゃんと理解している。
 それでも、ファン・ディアスのことは忘れまいと強く思った。こんな自分にも、虐げることも無視することもなく、心温かく接してくれた存在を。きっと、それは何よりも心の支えとなるはずだから。

「う〜ん、どうにも縁がねぇなあ」
 リザの姿が完全に見えなくなったところで、ディアスは一人ぼやいた。
「いや、本当に俺好みなんだけどねあの子。一日に二人は流石にマズイか」
 誰に聞かせるわけもなく、ブツブツと独り言を言いながら、傍に置いてあった紙袋にちらりと視線をやる。中には乱雑に詰め込まれたスーツが一式。元は白だったそれはところどころどす黒い朱色で汚されていた。



「お金が足らないんだけど」
 やっとの思いでお使いを済ませ、帰宅したリザから渡されたつり銭を確認した後、母親がぎろりと鋭い目つきで睨みつけてきた。放たれた声からは明らかな怒気が滲みでている。その言葉にリザの顔は瞬時に強張った。
「ご、ごめんなさい。道に落としちゃったみたい……」
 必死で言い繕う唇が恐怖で微かに震えている。怯える娘を一切省みることなく、眉間に幾重にも深い皺を寄せると母親は手を振り上げた。
「嘘をつくんじゃないよ、このクズっ」
 乾いた音を立て、平手でリザの頬を力一杯打つ。反動で小さな身体が床に倒れ込んだが、母親はそれで許さなかった。
「お前が勝手に使ったんだろ。誰が養ってると思ってるんだ、恩知らずが!!」
 ヒステリックに怒鳴りながら、容赦なくリザの顔を叩く。何度も何度も繰り返される陰惨な暴力に痛ましい悲鳴が上がった。両腕で防御しようとするものの、大きな力の前ではあまりに無力だ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
 幼い少女に出来ることは懸命に許しを乞うことだけ。だが、それすらも「煩い」と切り捨てられ、さらに激しくぶたれる。
 リザが使ったのはたかが小銭数枚。果たして、これ程までの暴行を働く理由になるのだろうか。自分は子に食べ物も服もろくに与えなかったにも関わらず。
 その問に答えるものは今ここに誰もいなかった。



(どうすれば、お母さんはあたしに優しくしてくれるのかな)
 リザはいつもそればかり考えていた。母親が機嫌よくなるのはお金を手に入れたときだけだ。ならば、もっとお金を稼げばいいのか。しかし、当たり屋は何度もやるとすぐバレるからあまりやるなとも言われている。
 少女はただひたすらに母から愛される手段を探した。けれど、答えが見つからない。答えがないのが答えだという事実は見て見ぬ振りをしていた。