猟奇殺人鬼と傷だらけの少女の話 2

 次の日、リザはまた母親が飲むビールを買い、一人歩いていた。
 昨日、母親から散々殴られた跡は顔に痛々しい青痣となって残っていた。元からある生まれつきの痣も相まって、道行く見知らぬ人間はリザに好奇の視線を向ける。
 しかし、そんな周囲の反応など日常茶飯事であったため、気にも止めずに自宅を目指していたのだが。ある一人の人物を目に入り、リザは足を止めた。見覚えのある赤毛と特徴的な白スーツ。右腕には昨日と同じ白い紙袋を下げている。
「ファンさんだ……」
 昨日の今日でまた会えるとは。パッと顔を輝かせ、声をかけようとする。だが、寸でのところで思いとどまった。ディアスの傍に見知らぬちょっと派手めな女性がいたからだ。二人は何やら楽しそうに談笑していた。
 邪魔してはいけないという思いと人見知りな性格もあり、このまま気づかれずにその場を去ろうかと考えていると、ディアスと女性は路地裏の方へ姿を消した。
(あれ、どこ行くんだろ?)
 あの辺りは廃墟となった古い家などしかなく、二人が入った道は行き止まりとなっている。そんな場所に近づく人間など地元ではまずいない。
 どうにも気になったリザは、無意識のうちに二人の後をそっと追っていた。


 ディアスたちは袋小路の突き当りにいた。ディアスは壁に手を付き、何やら女性に耳打ちしており、それを聞いた女性が頬を染めて微笑む。雰囲気からして、女性を口説いている最中のようだ。その姿にリザの心にささくれだったような不快感が沸き起こる。母親とあの男の姿が今の二人に重なった。
 少しだけ裏切られたような気分になりながら、踵を返そうとした時だ。
(――えっ?)
 リザの瞳孔が大きく開いた。その光景はまるでスローモーションのように網膜に焼き付く。
 ディアスはスーツのポケットからサバイバルナイフを取り出すと、何の躊躇も見せず、勢いよく女性の首を薙いだ。その一刀は正確に頚動脈を切り裂き、鮮血が勢いよく吹き出す。後ろの壁はペンキをぶちまけたように赤く染まり、女性はずるずると地面に座り込んだ。
 息絶えた女性の姿を見下ろし、ディアスは口元にゆっくりと弧を描く。その顔はいつも見ていた笑顔と違い、とてもいびつで歪んだものだった。
 尚も女性の身体を切り刻もうと、ディアスはナイフを強く握る。しかし、ぴたっとその手が止まった。
 ドサっという物音に、ディアスが勢いよく後ろを振り向く。
 地面に落ちたビール箱。すっかり見知った、顔を青ざめさせた少女の姿。
「リザ……」
 思いもしなかった再会に多少驚いた表情を見せ、リザの方へと足を進める。距離が縮まるごとに生臭い血の匂いが強まっていく。リザはその場から微動だにせず、近づいてくるディアスを呆然と見つめていた。
 恐ろしい事態が起こったことも、逃げなければならないことも分かっている。しかし、足が地面に張り付いたように動かない。けれど、何故か怖いとは感じなかった。ただ、全身を赤に染めたその男に魅せられたように見入っていた。
 何のリアクションも見せないリザに、ディアスはちょっと困ったように頭を掻く。
「……顔どうしたんだ? 酷いことになってんぞ」
 放たれた一言はあまりにも今の状況とそぐわないものだった。
「転んで……顔を打っちゃたの」
 リザは簡潔に答える。見え見えの嘘だったが、ディアスは「そうか」と呟いただけだった。
「そっか。そりゃ、災難だったなー。可愛い顔にこんな痛々しい傷ついちゃって」
 リザを見る暖かい眼差しも、ちょっと大げさな言い回しも昨日までのディアスと何も変わらない。全身に血を浴び、今さっき殺人を起こした男とは思えないほどに。
「リザ、今日はまだ時間あるか?」
「え? ……うん」
 ディアスの唐突な質問に、リザは困惑しつつも返事した。
「だったら、また公園に行ってアイスでも食べようぜ!」
 他人が聞いたら、常軌を逸しているとしか思えない言葉。どこの誰が殺人鬼の誘いに乗るというというのか。何をされるか分かったものではないのに。
 だが、リザは拒否も逃げる素振りも見せず、無言で立ち尽くしているだけだった。
 その反応を都合よく了承だと受け取り、ディアスは楽しげに鼻歌を鳴らしながら、傍に置いてあった紙袋を手に取る。
「けど、ちょっと待ってな。流石にこの格好じゃ公園行けねえからさ」
 袋から真新しいタオルと白スーツの上着を取り出すと、ディアスは悪戯っぽくリザに笑いかけた。



 初めて出会った日と同じように並んでベンチに座り、アイスクリームを食べる。ディアスの血で汚れた服はあの紙袋に入れられており、傍目から見れば普通に見えた。だが、あの時とは違い、二人の雰囲気はぎこちない。それもそうだろう。殺人を犯した者とそれを目撃してしまった者。その事実が揺らぐことはないからだ。
 あれから二人はほとんど喋っていなかった。沈黙がどことなく重く感じる。先に口を開いたのをディアスの方だった。
「なぁ、リザ。どうして逃げなかった?」
 リザは弾かれたようにディアスを見る。ギュッとアイスのカップを強く握ると、視線を地面の方へと移した。
「……分かんない」
 ぼそぼそとかろうじて聞き取れる声で答える。
「じゃあ、おれが怖い?」
 リザは再びディアスの顔を見据え、さっきよりははっきりとした声でこう言った。
「ううん」
 その返答に、ディアスは少しの困惑と安堵感が入り混じった表情を浮かべた。
「……そうか、分かった」
 それっきり再びディアスは口を閉じる。また、二人の間に沈黙が流れた。
 リザは決して自分の保身を図るためにああ言ったのではない。あの凄惨な光景に驚いたのは確かだが、だからといってディアスを悪人だとはどうしても思えなかったのだ。
 人を殺すことが悪だということはリザも知っている。本当は警察になり、他の誰かなりにこの事を知らせるべきだということも。
 だが、ずっと周りの大人に虐げられてきたリザにとっては、唯一心優しくしてくれた人だった。どんなにその正体が恐ろしいものでも彼女には関係なかった。彼女を傷つけてきただけの存在よりも、血で濡れていても自分の事を気にかけてくれる男の方が怖くない。
 そう、心から思っただけのことであった。
「ねえ、ファンさん。あのね……」
 今度はリザがディアスに話しかける。
「ん? どうした?」
「あの女の人は悪い子だったの?」
「えっ?」
 意外な問いにディアスは目を丸くした。
「何でそんなこと聞くんだ?」
「……お母さんがいつも言うの。あたしが悪い子だって。だから、怒ったり殴ったりするんだって。だから、あの人もそうだったのかなって」
 そう話した後、最後にリザは「悪い子だったら仕方ないよね」と付け加える。それをディアスは非常に複雑な思いで聞いていた。
 ディアスが犯した行為に何かしらの正当性を持たせようとした意図も、少なからずリザの言葉にはあっただろう。
 けど、その裏に隠されたものは悲しい子供の防御本能だった。親から受ける理不尽な仕打ちに対し、どうにかして理由をこじつけようとしたのだ。「悪い子」だから仕方ない、だから「いい子」になればいいと。
 だから、リザは母のために何でもやった。それが例え自分の命を脅かすような行為であろうとも。
 子が真に恐れるのは暴力ではなくて、「愛されていない」ことを認めてしまうことかもしれなかった。
「リザ、それは違うよ。けして悪い子だからじゃない。彼女も、そしてリザもね」
 ディアスは穏やかで静かな声でそう言い聞かせる。
「なら、どうして?」
 答えを求められ、ディアスは自嘲気味に笑った。
「それは……きっと寂しいからさ」
「寂しい?」
「そう。おれも彼女もね」
 あの女性はつい最近家出をしたばかりだと言っていた。自分の居場所などどこにもないと語る、微かにもの悲しげな顔がふと脳裏をかすめた。
「人はね、リザ。誰かを愛し、誰かから愛され、そして自分を愛することで生きていける生き物なんだよ。だから、一人ぼっちじゃ生きていけないんだ。寂しいのには耐えられないのさ」
「……難しい話はよく分かんないけど、一人ぼっちも寂しいのも嫌なのは分かるよ」
「うん、そうだね。だから、常に一緒に誰かと居たいと思う。愛されたいと思う。けど、人は弱くて欲張りで矛盾した生き物だから、傍に居てくれて愛してくれる誰かがいても、きっと寂しさを恐れる気持ちからは逃れられないんだよ」
 淡々とディアスは語る。それは今まで見たどの姿とも違っていて。どうしてだか、とても儚い存在のように感じた。
「どんなにずっと共にいて欲しいと願っても、どんなに愛していても、悲しいことに結局いつかはいろんな理由で離れて行ってしまうと知っているから。そして、また一人になった時の寂しさは最初から一人ぼっちだった時より、より耐え難いものになる。それでも、普通の人間ならそれが当たり前だと分かっていて、寂しいと思いつつも割り切ることができるんだろうけどね。……だけど、おれには無理なんだ」
 そこで一旦言葉を切ると、ディアスはそっと目を閉じ両手を組んだ。まるで神に懺悔をするかのように。
「愛する人がいなくなることには。でもね、昔聞いたんだ。人は死んでも魂だけは永遠に傍にいてくれるって。けっして離れることはないって。生きてる人間は俺から離れていっても、死んで魂だけになればおれの傍に居てくれる。だから、おれはあの子を殺した。それだけのことだよ」
「魂だけって、それお化けになっちゃうってこと?」
「いや、お化けと違って姿も声も見えないよ」
「それじゃあ、一人ぼっちと変わらないんじゃないの? 寂しくならないの?」
 リザの言葉にディアスは微かに笑う。どことなく寂寥感を滲ませた笑みだった。
「そうだな。結局、寂しくなって、また誰かを求めて。離れるのが嫌でまた殺す。もうずっと、それ繰り返しだよ。あまりにも不毛で救いようのないことぐらいは分かってるさ。けど、もう止められない」
 ディアスは天を仰ぐ。そこには嫌になるくらい綺麗な青と白のコントラストが広大と広がっていて。金の瞳は何に思いを寄せたのか、ただひたすらに空を眺めていた。
「リザ。おれはね、イタリアの何もない田舎で生まれたんだ。本当に笑っちゃうくらい何もなくてさ、自然は豊かだったんだけどね。けど、全然静かじゃなかったんだぜ。何せ、父親と母親と4人の兄貴がいて、みんな煩かったからなー。毎日てんやわんやしてたんだ。それで家族全員おれのことを愛してくれてたし、おれも愛してた。けど、いろいろあって離れ離れにまっちまった。一人はとても静かでとても恐ろしかった。寂しくて寂しくて、とても辛かった。今でも慣れることができない。怖いんだ、一人は、寂しいのは」
「お家には帰らないの? そこにはファンさんの家族がいるんでしょ。そこにいたらきっと一人じゃないし、寂しくないと思うのに」
「いろいろあってね。帰れないんだ、二度と」
 そう言うディアスの顔は、何だか今にも泣き出しそうにリザには見えた。子供であるリザにはディアスの言っていることの大半は理解できていない。けれど、少しだけ分かったこともある。彼はリザにどことなく似ているのだ。孤独で、とても愛されたがっていて、その手段を探している。だからこそ、ディアスはあんなにもリザに親身に接したのかもしれなかった。
「じゃあ、どうしたらファンさんは寂しくなくなるのかな?」
「そうだな……」
 ディアスはちょっと考え、フッと笑った。
「誰かがずっと離れることなく、おれの傍にいてくれて愛してくれると誓って、そうしてくれるなら。そん時にはおれは寂しくなくなるのかな。でも、まず無理だけどな」
「どうして?」
「言ったろ。人はいろいろな理由で離れてしまうって。ずっと共にいてくれる存在に出会えるなんて、本当に奇跡的な確率なんだよ」
 どことなく諦観しているような声で、ディアスが言う。それを聞いたリザの胸が締め付けられたように苦しくなった。ぎゅっと強い力でディアスの服を掴む。そして、真っ直ぐで真剣な眼差しをディアスに向けた。
「じゃあ、もしもあたしがファンさんの傍にずっと一緒にいるって言ったら、ファンさんもあたしの傍にいてくれて、愛してくれるの?」
「えっ……」
 思わぬリザの発言に、一瞬ディアスはキョトンする。だが、すぐにいつもの人懐っこい笑顔に変わった。
「ハハハッ。本当にリザがそうしてくれるんなら、本当に嬉しんだけどね。どうする?」
 ディアスに問われ、リザは何か言おうと唇を震わせたが。言葉が出てこなかった。服を掴む手に込められた力がさらに強くなる。
 ディアスと一緒にいたいのは紛れもない本心だった。この人ならずっと自分を見てくれる、優しくしてくれる、一人ぼっちに怯えなくても済むことだろう。けれど……
「……ごめんなさい。やっぱり、わたし、お母さんを一人に出来ない」
 絞り出すような声で、リザはディアスにそう告げた。どんなに邪険にされても、たった一人の家族だ。リザにはどうしても母親を置いていくことが出来なかった。愛していたから。
「うん、そう言うと思ってた。だって、リザはとてもいい子で家族想いだから」
 だからこそ、ディアスもリザをここまで気にかけていたのだ。そっと愛おしそうに髪を撫でる。
「なら、もう家にお帰り。おれは欲張りなんだ。これ以上一緒にいると、リザも魂だけにして連れて行きたくなっちまう」
 リザはこくりと頷いた。
「ごめんね、ファンさん」
「いいよ、謝らなくて。リザに会えて嬉しかった」
「あたしも。ファンさんのこと忘れない」
「あ、そうだ。もし、気が変わったらいつでもおいで。ここの近くのホテルで待ってるから。なんてな」
 別れ際、ディアスの冗談にリザがクスッと笑う。今度は今までと違い、敢えて両者ともさよならとは言わなかった。





 分厚い雲が空を覆い、辺りが急に暗くなる。湿った空気に、遠くからゴロゴロと響く嫌な音。そのうち降りだしそうな気配に、リザは急いで家に入ろうと玄関のドアノブを握る。だが、扉越しに聞こえて話し声が耳に入り、反射的に手を引っ込めてしまった。
 声の主は母親とあの男のもの。リザは憂鬱そうにため息を吐く。いま、ドアを開けて二人と鉢合わせになれば、母親の機嫌を損ねるに決まっている。少し迷った末に、二人がその場からいなくなるのを待つことにした。

「ねえ、もうこんなしけた町飽きたと思わない?」
 薄い粗末な板を通して、二人の会話ははっきりとリザに聞こえた。
「確かに飽きたが、どっかよそにでも行くのか?」
「ええ、そうよ。一緒にね。それで二人で店でも開きましょうよ」
「それはいいが、んな金どこにあるんだよ?」
 男の問いに、母親はにやりと笑って抱きつく。
「その位の金ならなんとかなるわ。やっと、それなりに貯まったからね」
 その言葉に、男はギラギラと目を輝かせ、喉を鳴らした。だが、ふとあることに気づく。
「けど、娘はどうすんだ?」
 男の台詞にリザの体が大きく跳ねた。外にリザがいることなど、知る訳がない母親は鬱陶しそうに「ああ」と呟く。
「アレは置いてく。邪魔だしね」

――えっ!?――

 その瞬間、リザは頭にハンマーで打たれたような衝撃を感じた。母親の言葉が飲み込めない。いや、理解するのを心が拒んだ。かろうじて保っていた何かが崩れ去る音を彼女の耳は確かに聞いていた。
「おいおい、そりゃないんじゃないの。その金の大半はあいつが車にぶつかって稼いできたもんなんだろ」
「当たり屋もそう何度も出来るもんじゃないしねぇ。ここらが潮時だろ。金にならないなら、アレはただのゴミでしかないし」
 母親が喋るたび、リザの心臓が大きく脈打つ。氷水を浴びたように冷えていく身体。知らず知らずのうちに身体が小刻みに震えていた。
「役立たずにも関わらず、今まで育ててやったんだからもう十分でしょ」
 あっさりと吐き捨てた母親に、男は「ひっでぇ母親」と若干呆れたように笑った。
 リザには最早母親たちの会話は耳に入っていなかった。唇を噛み締め、拳をぎゅっと握る。強く、強く、血が滲み出るほどに。
 体の中を濁った濁流が駆け回るような感覚に、堪らずリザはその場から走り去っていた。

 ひとつ、ふたつ、地面へと落ちた雨粒は、そう経たぬうちに激しく降り始める。豪雨の中を少女は一人走っていた。服がしとどに濡れようとも、不自由な片足が悲鳴を上げようとも一心不乱に足を動かす。彼女の顔はびしょびしょになっていだが、それは決して雨だけによるものではなかった。




 ホテルの一室。ベッドの上に寝転がり、ディアスはぼんやりと物思いに耽っていた。ふと、テレビを付けると、連続殺人事件のニュースが流れているところだった。現場はこの近くで被害者は二人。どっちも同じように全身をナイフで切り刻まれていたことから同一犯の犯行と思われると、アナウンサーが淡々と原稿を読み上げている。
 本来なら哀れな犠牲者は三人なのだが、あそこは人通りがほとんどない場所ゆえ、彼女はまだ発見されてないのだろうなと、ディアスは思った。
 騒ぎが大きくなり始めている。明日にはこの街を出なければならないだろう。結局、会いたかった人物には出会えなかったが、それでもいい思い出はできたと、脳裏に小さな女の子の姿を描いてディアスは笑った。
 ベッドから身を起こし、窓越しに外を覗く。いつごろからか降り始めた雨が激しくガラスを叩いているなか、何気なく下を見下ろす。
(えっ!?)
 目に飛び込んできた光景にディアスは釘付けになった。豪雨の中を彷徨う幼い子供。それは今さっき思い浮かべた、紛れもないリザの姿だった。
 どうして、こんな時間にこんな場所をという疑問が浮かんだが、いてもたってもいられず、ディアスは部屋を飛び出していた。

「リザ!」
 雨に濡れるのも構わず、ディアスはその名を叫び、少女に駆け寄る。リザはその姿をみて、くしゃりと顔を歪めた。
「どうしたんだ。傘も持たないでこんなことろに。何かあったのか?」
 その心配する声に応えることなく、リザはその身体に抱きついた。
「リザ……?」
 ディアスの呼びかけに、リザは顔を上げる。その瞳は水の膜を貼り、潤んでいた。
「あたしは一生傍にいる。絶対に離れないから、ずっと愛してるから……だからファン、あたしを愛して!!」
 けっして大きな声でなかったにも関わらず、その悲痛な叫びは激しい雨の音にかき消されることなく、ディアスの耳にはっきりと届いた。
 ディアスは何も言わず、リザの頭に腕を回して引き寄せた。濡れた身体が冷たくなっているのが布越しに伝わってくる。
「取り敢えず、中に入ろうリザ。このままじゃ、風邪ひいちゃうぞ」


 ホテルに戻り、ディアスはまずリザに温かいシャワーを浴びさせた。その後、子供服など当然ないので、予備のバスローブを着せてやった。無論、ブカブカだが着ないよりましだ。
 シングルベッドしかないので、自分は床で寝るから好きに使っていいぞと伝えたが、リザはそれを断った。一緒に寝たいというお願いをディアスはあっさり受け入れた。

 あんまり広くもないベッドに二人は寄り添い合う。とても、静かで穏やかな時間だった。
「本当にいいのか? 明日やっぱり家に戻るって言っても、おれは多分もうリザを返せないぞ。今度こそ一緒に連れて行く」
「もう決めたから。あたしはファンと一緒に行く」
 はっきりとリザは答え、それに対しディアスは嬉しそうに微笑んだ。
「そっか、分かった。それじゃあ、お休みリザ」
 リザの額に唇を落とし、そう囁く。すると、少女もはにかみながら頷いた。
 物心ついた時から、寝るときはずっと一人だった。こんなふうに誰かの温もりを感じた記憶は彼女にはない。とても心地よくて安心できて、リザはすぐに深い眠りへと落ちていった。

 すやすやと眠る姿を、ディアスは愛おしそうに眺める。ディアスにとっても誰かと共に夜を過ごすのはとても久しぶりのことだった。
(まあ、何ていうか。可愛い嫁が出来たってことでいいのかな)
 年齢はともかく、全てが理想的な嫁だとディアスは口元を緩め、リザの柔らかい頬をそっと撫でる。
 そして、再度小さく「おやすみ」と言い、自身も眠りについた。



 朝を迎え、リザは再び自宅の前に立っていた。必要なものを取りに戻ってきたのだ。ディアスが自分も付いていこうかと言ってくれたが、すぐ戻ってくるからと伝え、あの公園に待ってもらうことにした。
 当然、母親に見つかる可能性もあったが、そこは上手く誤魔化せるだろう。黙って出て行くことに対し、心が傷んだがもう決めたことだった。
 出来るだけ音を立てないように中に入る。だが、リビングに足を踏み入れた途端、リザは驚愕に目を見開いた。
 室内はまるで泥棒が入ったかのように酷く荒らされていた。タンスや戸棚の引き出しは引っ張り出され、中のものはそこら中に散らばっている。床には割られた食器などの破片があっちこっち散乱していた。
「なに、これ……」
 異様な光景に、呆然とリザは立ち尽くす。すると、寝室の方から物音がし、ドアが不気味な音を立てて開いた。
「何だ、あんた。帰ってきてたのかい。とうとうくたばっちまったのかと思った」
「お、お母さん」
 相当酒を飲んだのか、嗄れた低い声を出しながら母親が姿を表す。目には大きな隈を作り、その顔には全く生気がない。髪もぼさぼさだ。
 明らかに様子のおかしい母親にリザは混乱し、ここに来た理由が頭から抜けてしまった。
「ど、どうしたのこれ……?」
 怯えたように周りを見渡しながら、リザが尋ねる。すると、途端に母親の顔が怒りに大きく歪んだ。
「どうしたって! 見て分かんだろっ。あの男が有り金全部持っていっちまったのさ!散々よくしてやったってのに、あの恩知らずが!!」
 耳を塞ぎたくなるような大声で、母親は喚き叫ぶ。そして、テーブルの上に置いてあっ たコップを掴むと、腹立ち紛れに床に叩きつけた。大きな音を立て、コップが砕け散る。
 いつも家に来ていたあの男は、昨夜母親が寝ているうちに家を荒らし、全財産を盗んだ挙句に逃亡していた。母親が気づいたときには当然もう手遅れであり。食器などが割れているのは、愛していた男の裏切りに母親が半狂乱になって暴れたからだった。
 おそらく、最初から金目当てで母親に近づいたのだろう。そして、昨日かなりの蓄えを持っていることを聞いて、このようなことをしでかしたのだ。
 しかし、その話を聞いてもリザは大して驚かなかった。そんな男だろうということは最初に出会った時から、子供の鋭い勘で見抜いていた。
「あんな男を信じたあたしが馬鹿だったよ。やっぱり頼れるのは実の子供だけだよねぇ」
 急に母親は態度を翻し、奇妙な猫撫で声を出す。そして、不気味な笑みを顔に貼り付け、リザの両肩に手を置いた。
「あんたがいてよかったよ、リザ。あのバカのせいで金がすっからかんだ。また、稼いでおいで」
「……」
 以前のリザなら、きっとこの言葉を聞いて喜んでいただろう。例え、金づるとしか見られていないとしても、母親が自分を頼っていてくれ、見てくれるだけでよかった。
 しかし、今はもう違う。気づいてしまったから。今こそ、告げなければならない。
「お母さん、ごめんなさい。私、この家を出て行く」
「はっ……?」
 リザの言葉が理解できず、母親はぽかんとした顔を浮かべた。
「だから、もうお母さんには何もしてあげれないの」
 今までリザが母親に逆らったことなど一度もない。なのに、この展開は何だ。何がおこっている? 
 母親の頭は混乱でぐるぐると回る。
「出て行くって。あんた何言ってるんだい。ガキ一人でどうやって生きていくって言うんだよ!」
「あたしと一緒にいてくれる、愛してくれるっていってくれた人がいるの。その人と行く」
 リザははっきりとそう宣言した。あまりにも突拍子もない話だ、当然母親がそれを飲み込めるわけもない。しかし、リザの目は本気だった。本気でこの家を出て行くつもりだ。
 それを悟った母親のはらわたから湧いてきたものは、煮えくり返るような憎悪と激しい憤りだった。
 目の前が真っ赤に染まる。次の瞬間、母親は我を忘れた。
「この親不孝ものがぁ!!」
 激昂した母親はリザの腹を蹴る。耐え切れず、リザは床に倒れ込んだ。
「私に逆らおうっていうのか、このクズ! あんたなんか産むんじゃなかったっ。この疫病神め!」
 口汚く罵りながら、母親はその小さな身体を踏みつける。容赦なく、何度も何度も。リザは必死に身を丸め、苛烈な暴力の嵐を耐えていた。
 やがて、一旦攻撃が止まる。
「どうだい、これで言うことを聞く気になったか!」
 息を切らせ、血走った目で母親が問う。リザは痛みに耐えながら何とか立ち上がった。
「お母さんのことは好きだよ。でも、お母さんはいつかあたしを置いてどこかへ行っちゃうと思うから」
 母親と真正面に向かい合うリザにはもう怯えた様子は微塵もなかった。
「だから、あたしはあの人について行く」
 そうはっきりと口にしたリザの瞳には、揺らぐことのない強い意思が宿っている。
 娘が母親を捨てた瞬間だった。
「ああ、そう。そうかい」
 娘の反抗に母親は何故かから笑いを上げる。最初は小さかったその笑い声がだんだんと大きくなっていく。
 あまりに明らかに常軌を逸した母親の様子に、リザは警戒と恐れを抱き、とっさにその場から逃げようとした。
「待ちな。逃がすものかっ!」
 だが、母親に腕を掴まれてしまった。必死で振り払おうとするも、あまりに強い力で掴まれているため適わない。
 足掻くリザに構わず、母親は彼女を連れてどこかへと歩き出す。なすすべもなく、リザは母親にずるずると連れて行かれるより他なかった。
 
 靴も履かず、外へと出る親子。母親は無言でどこかへリザを連れて行く。
「お母さん、離して!」
 リザが懸命に訴え、逃れようとするものの、か弱い力ではその手を引き離すことが出来ない。
 そうこうしているうちに大きな道路の前へとやってきていた。ここは交通量が非常に多いところで、行き交う車が猛スピードでリザたちの横を通り過ぎていく。
 それを見た母親が、口角を釣り上げリザを見下ろした。
「誰があんたの思い通りにさせるもんか。いう事聞かないなら、こうしてやる」
 母親はそう叫ぶと、リザの腕を肩が抜けそうなくらいの勢いで引っ張る。そして、道路に向かって娘を突き飛ばした。
 リザの体は道路の真ん中に叩きつけられる。と、そこへ一台の車両が猛スピードで彼女の方へと近づいてきた。



明らかに不穏なブレーキ音が、公園で待っていたディアスの耳に入る。
「……何だ、今の」
 あの音には聞き覚えがあった。それはリザと初めてあった時に聞いたのととてもよく似ていた。
 心臓が警鐘を鳴らすように大きく動く。
(リザ!)
 まさかとは思いつつも、嫌な予感が頭を離れない。ぐっと奥歯を噛み締め、気づいたときにはディアスは走り出していた。
 リザの自宅の場所を知らないディアスは、宛もなくその姿を彷徨い求める。そうしているうちに、とある場所でやたらと人ごみが出来ているのが目に入った。
 ディアスはそっとそこへ近づく。人々は皆、何やら道路の方を見て、慌てふためいている。ディアスもそちらへ視線を移す。そこで目にしたものは……
「リザ!!」
 道路の真ん中に横たわる少女。その体と周辺は赤く染まっている。ディアスは血相を変えて、彼女の元へ駆け寄った。
「リザ、しっかりしろ! 聞こえるか!」
 腰を落とし、ディアスが必死に呼びかける。しかし、その思いとは裏腹にリザの状態はあまりにも酷いものだった。全身血だらけで鼻や口からも出血しており、左腕と右足は奇妙折れ曲がっている。特に右足の状態は深刻で、一部皮膚から白い骨が突き出している有様だった。目は閉じられたままで、呼吸をしているのかさえ分からない。
「リザ!」
 それでもディアスは尚もその名を呼び続ける。すると、微かなうめき声がした。ゆっくりと瞼が開き、その瞳はディアスの姿を映した。
「ファン……」
 かろうじて聞き取れる程のか細い声。けれど、確かにリザはディアスを呼んだ。そのことにディアスは一先ず胸を撫で下ろす。だが、当然楽観視できる状態ではなかった。
「あんた、この子の知り合いかい?」
 野次馬の一人がディアスに声を掛けた。
「何があった!」
 ディアスは男に激しく詰め寄る。その鬼気迫った雰囲気に男は若干後ずさった。
「いや、おれは見てないんだけど。周りの話じゃ変な女がその子を道路に突き飛ばしたらしいって……それで車に轢かれたと」
 男の説明に、ディアスはぐっと奥歯を噛み締めた。リザの身に起こったことをディアスは大体把握する。やはり、自分も家についていっていればと後悔したが、すぐにそれどころじゃないことに気づいた。道路にはまだ傷ついたリザがいる。
「救急車は!」
 苛立ったようにディアスが叫ぶ。
「呼んだよ。けど、こんな田舎じゃ近くに病院はないし、運悪いことに繁華街の方ででかいイベントやってるせいでどこも道が混んでて、来るのに相当時間はかかるってさ。それに……」
 男はちらりとリザを見やり、哀れみの表情を浮かべた。
「今更、病院に運んだところであの子はもう……」
 男は言葉を濁したが、言いたいことはディアスにも嫌という程伝わる。男だけではなく、周囲の野次馬が放つ皆重苦しい空気や表情が雄弁に物語っていた。
 ディアスは出来るだけリザの身体に障らないように、彼女を抱きかかえた。そして、ゆっくりと歩き始める。
「ちょっ、ちょっとあんた。その子連れてどこ行くつもりだ?」
 男が呼び止めるのも構わず、ディアスはリザを連れ、静かにその場から姿を消した。


 迷うことなく、ディアスはある場所を目指す。白スーツがリザの血で染まっても、構うことなく歩き続けた。
「ファン、痛いよ」
 今にも消え入りそうな声でリザが言う。そんな傷だらけの少女に、ディアスは安心させるかのように微笑みかけた。
「待ってろ、リザ。大丈夫だ、近くに知り合いの医者がいる」
 



 今日は患者も少なく、穏やかな午後を過ごしていた。
 しかし、平和だった診療所に、突如静寂を切り裂く騒然とした足音が響く。
「ドクター!」
 切羽つまったような若い男の声。それを聞いた途端、ジョセフの顔に緊張と不安の色が浮かんだ。
 その声の様子が危機迫るものであったせいもあったが、それ以上に彼女が警戒したのは男の存在そのものだった。
 男とは顔見知りであり、また、とあることで彼女は彼に命を救われたこともある。言わば、恩人とも言える存在であったが、ジョセフは男に対して嫌悪感しか抱いていなかった。何故なら、出合ったその時から男の恐ろしい正体を知ってしまっていたからだ。
 そうこうしているうちに、赤毛の男がジョセフの前に姿を現した。よほど急いでここへ来たのだろう。早く荒い呼吸を何度も繰り返している。
 男の有り様を一瞥しただけで、ジョセフは己の嫌な予感が当たったことを悟った。
男が着ているスーツの地の色は白だったはずたが、その大部分は朱色で染まっている。そして、鼻をつく鉄錆の似た匂い。
 常人が今の男を見たら、恐怖で顔を青ざめさせ、悲鳴を上げることだろう。
 ホラー映画にも劣らない異様な光景だが、実際に彼自身の本性もおぞましい外見となんら変わらないものだった。
 この赤毛の男の名はファン・ディアスといい、職業は殺し屋。そして、老若男女誰でも切り刻む恐怖の猟奇殺人鬼でもあった。
 ここ数日、町で二人の人間が惨殺された話はジョセフの耳にも入っていた。どちらの被害者も鋭利な刃物で全身の至るところを切り裂かれていたと聞いたときから、まさかとディアスの顔を思い浮かべていたのだが、こうして、眼前に現れたことで彼女の疑いは確信に変わった。間違いなくこの男が犯人だと。
 だが、ジョセフがディアスに激しい嫌悪を抱いたのは、血で汚れたディアス自身ではなく、彼の腕に抱かれた小さな血塗れの女の子の姿だった。
女の子はぐったりとしており、か細い呼吸はいつ止まってもおかしくない状態だ。
この状況下で、ジョセフが先の殺人事件とディアスと少女を結びつけしまうのは無理からぬことだろう。
 彼女の中で激しい怒りがわき上がる。目の前の男が世間を震え上がらせる殺人鬼だという恐怖も忘れ、ジョセフはディアスの襟元に掴みかかった。
「あんた、よくもこんな小さい子どもを!」
 きつくディアスを睨み付け、ジョセフは激しく責め立てる。ディアスは特に抵抗せず、罵詈雑言を黙って受けていたが、やがてゆっくりと口を開く。彼から放たれた言葉はジョセフにとって予想だにしないものだった。
「車に轢かれた」
「えっ……?」
 ジョセフはポカンとした面持ちでディアスを見上げる。悲しみと少女への慈愛が入り交じった男の顔がジョセフの瞳に映った。
 猟奇殺人鬼とはあまりにかけ離れた様に、ジョセフは一瞬自分の怒りを忘れた。
「頼む。助けてやってくれ」
「一体、どういうこと……?」
 ディアスの言葉通りにとるなら、交通事故にあった少女を治療してくれということだろう。よくよく少女を観察して見れば、確かに少女は頭部を中心に大量に出血しているが、ナイフによる傷は一つもない。つまり、この少女はディアスの手にかかったというわけではないようだ。
 しかし、なぜこんな明らかに重症な少女を大きな病院へ運ばず、こんな小さな診療所へ連れてきたのかという疑問は残る。
 ディアスの真意が掴めず、すっかりジョセフは困惑してしまっていた。
「ううっ……」
 少女が痛みに呻く。「リザ……」と労るかのように、ディアスが少女の名前を呼んだ。
その瞬間、ジョセフの中で己の使命感にも似た思いが沸き上がった。
 自分は医者なのだ。医者の前に助けを待つ患者がいる。 どんな状況だろうとすべき事は一つしかない。
「こっちに運んで!」
 ジョセフは指示を出すと、手早く救急処置の準備を整える。
 その間にディアスはリザを診察台の上に寝かせると、彼女を安心させるかのようにそっと頬を撫で、その場を離れる。
 入れ替わるように、ジョセフがリザの前に立ち、治療を開始した。しかし、あくまでもここは民間の診療所だ。できることは限られている。
 ジョセフが行える事といったら、出血を止める処置と輸血ぐらいだ。しかし、その懸命な行為も、リザの出血が多く焼け石に水にもなっていなかった。
「……うっ、ゲホッ!」
 突如、リザが苦しそうに咳き込むと、吐血する。
「!? まずいっ」
 リザの口や鼻から大量の血液が流れ出ている様子にジョセフは焦る。
 体内で出血起こしているのだ。もはや、この診療所の設備でどうにかできる状態ではない。だか、しかし……。
 ジョセフは自分の無力さにきつく拳を握りしめる。彼女の医師としての経験が告げていた。病院に運んだところで彼女はもう……。
 そこでジョセフは気づいた。なぜ、ディアスがリザを病院ではなく、ここへ連れてきたのかを。最初からディアスには分かっていたのだ。この娘はもう助からないと。ディアスがジョセフに「助けてくれ」といったのはリザの命ではない。
「せ、んせぇ……」
 その時、リザが掠れて今にも消えそうな声でジョセフを呼んだ。
「おねがい……もう、痛いのは…いや」
 生気を失いつつある瞳が、その瞬間だけ強い意思を持ってジョセフに訴えかける。ジョセフはハッとして、胸の奥を指すような痛みに顔をくしゃりと歪めた。
 彼女は自分が考えているよりずっと賢い子なのだ。自分の運命を悟って、なぜここへ来たのかも分かっている。
 ジョセフはリザを安心させるように、笑みを無理矢理作る。
「大丈夫よ。もうすぐ痛くなくなるからね」
 その言葉を聞いて、少女はうっすらと微笑んだ。
「ファン……」
 少し離れた所に座り見守っているディアスにリザがすがるように呼ぶ。
「ん? どうした?」
 ディアスが暖かい眼差しを向け、返事を返す。
「お、かあさんが……いま、ひと……りぼっち、なの」
 いつ止まってもおかしくないか細い呼吸を繰り返しながら、リザは必死で言葉をつなぐ。
「だか、ら、ね……お母さんを愛して上げて」
 残された力を振り絞るかのように懇願するその言葉を一言一句逃すまいと、ディアスは真剣に耳を傾け、そして力強く頷いた。
「分かったよ。アモーレ・ミオ」
 その返事に満足したのか、リザはゆっくりと目を閉じる。
 彼女が息を引き取ったのはそれから10分後のことだった。

 こんな突然で理不尽な死が彼女を襲っても、今のリザの顔はとても穏やかで幸せそうだった。
 ディアスはまだ温もりを残すその頬に唇を落とす。そして、リザの亡骸をそっと抱きかかえた。
「ちょっと、どこ行くの?」
 リザを連れて外へ出ようとするディアスをジョセフが呼び止めた。
「約束したんだ。ずっと一緒にいると」
 ジョセフの方に振り向くことはせず、ディアスが静かにそれだけを告げ、診療所から去っていく。
 一人無言で佇むジョセフは扉がバタンと閉まる様子を、複雑な想いを写した瞳で見ていた。





 とあるアパートの一室。先ほどからガチャガチャと何やら耳障りな音がずっと鳴り響いていた。
 その音は玄関から聞こえており、そちらに目をやれば、顔面蒼白の中年女性が外へ出ようと、中腰で必死にドアノブを回そうとしている。
女性の服は朱色で彩られ、彼女の後方からリビングまでの床には一直線に何かを引きずったような同じ朱色の跡がついていた。
 唇を酸欠の魚のようにパクパクとさせながら、懸命にドアを開けようとするが、依然として扉は閉じられたままだ。
 結局、ドアを開けるのを諦め、外へ助けを求めようと、拳でドアを何度も叩く。
だか、後方から人の気配を感じ、女性の動きがぴたりと止まった。
 油の切れたロボットのようなぎこちない動きで後ろを振り向く。視線の先にいたのは、服を髪と同じく真っ赤に染めた若い男。何より恐れていた現実がすぐそこまで迫っていたことを悟り、女性は静かに絶望の涙をこぼした。


 リザの母親は娘が死んだ後、すぐに姿を消していたが、わりと簡単に見つけることができた。
 前に住んでいた家よりも、さらに古くきたならしいあばら家。周りも同じような建物が並んでいて、人の気配はほとんどない。リザの件で警察に追われているため、なるべく人目につかない場所を選んだようだが、皮肉なことに結果的にはそれが完全に裏目に出てしまっていた。
 ディアスは心底愉しそうに鼻歌を鳴す。血に濡れたナイフを右手に握り、玄関で己から逃げようとドアノブを回そうと足掻く母親の元へゆっくりと獲物を追い詰めるかのように距離を詰めた。
 端から見たら滑稽なほど、母親は懸命にドアを開けようとしていたが、どうしてもそれは叶わないようだった。
 まあ、無理もないだろう。ドアノブを回すために使う指は、すでに両手とも母親には存在していない。
 だが、例えドアを開けたとしても、彼女がディアスから逃れるのはほぼ不可能に近かった。両足の健も切断されていたからだ。
 自力で家から脱出するのは無理と諦めたのか、母親は外に助けを求めるようにドアを叩き始める。
 だが、窮地に陥っているわりには、今の今まで母親は一言も声を発していなかった。何かを訴えるかのように唇を懸命に動かしてはいるのだが、ターキー映画のように音が聞こえない。
 喉は一番初めに潰していた。ディアスは母親に微笑むと腰を落とし、ナイフの先端を彼女の喉元に突きつける
 母親は小刻みに震え、目尻からひっきりなしに涙がこぼす。その滴を、驚くほど優しい手つきでぬぐってやると、ディアスは穏やかに笑った。
 やっていることと表情及び仕種がまったくそぐわない男に、母親が無言で問う。なぜと?
 別にディアスはこの女を恨んでいるわけではない。ただ、リザとの約束を果たそうとしているだけだ。リザの望み通り、ディアスなりの「愛」をこの哀れな人間与えるために。
 リザとて己にあんな非情な仕打ちをした母への復讐のために、ディアスにその願いを託したわけではなかった。
 彼女は最後まで母親を愛していた。それゆえに心配したのだ。一人残されることになる母親を。誰よりの孤独の恐ろしさを知っている子供だったからこそ。
 ディアスは何の躊躇もせず、母親の首にナイフを滑らせた。

――安心しろリザ。もうすぐ彼女もお前のところへ行くから。これで永遠におれ達と共に一緒だ。もう寂しくないよ――

顔中を血で染めたディアスの右耳には白い小さなピアス。それは誰よりも愛し、一生側にいると誓った少女の骨で出来ていた。