引きこもりと貧乏兄妹とイジメっ子の話

 快晴にも関わらず、どこか薄暗い路地裏。
 そんな場所に似つかわしくない糖蜜色の髪と目を持った美少女が袋小路の壁際に追い込まれていた。
 彼女の退路を断つように、同じぐらいの年の三人の少女がじりじりと近づいてくる。その目はか弱い兎を狩る肉食獣のようにぎらぎらとしていた。
「目障りなのよ、あんた」
 真ん中にいた、取り澄ましたように腕組みをしたリーダー格らしい少女が前に出る。
「貧乏人のくせに。いつも気取っててムカつくったら」
 蔑むように美少女に向って吐き捨てられたその言葉からは、並々ならぬ敵意と嗜虐心が滲む。
 美少女はただ何を言い返すわけでもなく、身体を縮こませ三人組をじっと見ているだけ。怯えの中にかすかな己への哀憫の色を感じ取り、リーダー格の少女はぎりっと奥歯を噛んだ
「あんたなんか消えちゃえばいいのよ!」
 ありったけの憎悪を込めて叫び、すぐ側に置いてあったバケツの中身を美少女にぶちまけた。






「お前……」
 特に理由もないまま、ぶらぶらと外出していた鈴木は、目に入ったとある少女の姿に足を止めた。
 知り合いというにはあまりに縁が薄い。なぜなら、少女とあったことは一度しかないからだ。しかし、引きこもりの鈴木にとって、顔と名前を覚えている人物というのはかなり希少な存在でもある。
 少女の名前は確かルナ・ドーソンといった。
「あ……、鈴木さんでしたよね?」
 ルナの方も鈴木を覚えていたらしく、微笑みながら会釈する。しかし、その動作はどこかぎこちなく、何となく戸惑っている様子だった。
「こんなところでお会いするなんて……。お体の方はあれから大丈夫ですか?」
 気遣うように、ルナが尋ねる。以前、彼女は喘息の発作を起こした鈴木を助けたことがあり、それで心配していたのだ。
「別に何ともない、それより……」
 鈴木が眉を寄せ、訝しむような顔をしてルナを見る。彼が驚いたのは彼女と再会したことだけではなく、どちらかといえばその姿に大きな要因があった。
「何でそんな全身ずぶ濡れなんだお前?」
「!?」
 鈴木の問いにルナの肩がびくりと跳ねる。彼女の身体は上から下まで鈴木の言葉どおり、水で濡れていた。髪の毛もまだ乾いておらず、毛先からぽたぽたと雫が落ちている。
 街中をこんな不自然な格好で歩いているのだから、ルナも当然鈴木にそのことを言われるのは予想できていた。
 ルナは相手を納得させられるだけの理由を考えようとしているか、もごもごと口を動かてす。そして、言いづらそうに喋り始めた。
「これは……。その、車が水溜りを跳ねたところを運悪く通りかかってしまって……」
「どこに水溜りがあったんだ。ここ数日一滴も雨なんか降ってないだろが」
「……っ。それは……」
 鈴木の鋭い指摘に、ルナは黙ってしまう。必死で言い訳を考えるものの、なかなか上手く行かない。
 困ったように両手で鞄を強く握りしめる少女。
 何か話したくない事情があるのだということを鈴木は悟った。
 それ以上何も言わず、かといって鈴木はその場を離れるようなこともしない。放っておけばいいとは分かっているし、普段の彼ならばそうしている。
 しかし、小刻みに震え始めたルナを目の前に、どうしても足が動かなかった。
 真冬に差しかかろうとしているこの時期。濡れた身体は容赦なく体温を奪っていく。ただでさえ白い肌はさらに血の気をなくして青白くなり、唇も徐々に紫色を帯びていた。
 鈴木はたく、たいぎいと億劫そうに息を吐いた。
「そこ、動くなよ」
「え……?」
 鈴木はルナにそう告げると、辺りを見回した後どこかへと向う。ルナは鈴木の意図がつかめず、きょとんとした顔を彼に見せた。
「でも……あの」
「あーもー、ぐたぐた言うなっ、うぜぇ。お前は言われた通り、そこで待ってればいい。いいか、絶対にそこから動くなよ」
「は、はい……」
 イラついたようにルナのいる場所を指差し、鈴木は再度その場に留まるように念を押す。
 鈴木の機嫌を損ねることは本意ではない。ルナはいまだに訳が分からないままだったが、言われた通りにその場で鈴木が戻るのを待つことにした。



「ほら、これでも巻いてろ」
「きゃっ……」
 どこかで買いものをしていたのか、十数分後鈴木はビニール袋を手に戻ってきた。袋から何かを取り出し、乱暴にルナの頭から被せる。
「バスタオル……。わざわざ買ってきてくれたんですか?」
 ルナの言葉通り、それは厚めの生地で出来たバスタオルだった。頭から床に付くくらいのかなりの大きさのものだ。
 思いもよらない鈴木の行動に、ルナは少しビックリしたように相手を見上げた。
「それでちっとは寒さもマシだろ」
「はい。ありがとうございます!」
 タオルを身体に巻きつけ、ルナは感謝の意を伝える。あどけない柔らかな笑顔を向けられ、鈴木はいささか居心地が悪そうに顔を背けた。
「用は済んだ。おれは帰る」
 ぶっきらぼうな態度で一方的に言い放つと、鈴木はその場を後にする。しかし、即座に「待ってください」とルナに呼び止められた。
「タオルのお金を……」
「いらねぇ、んなはした金」
 鞄から財布を取り出そうとしたルナの行動を鈴木が制す。
「いえ、そういうわけにはいきません」
 申し訳なさそうな顔をしながらも、ルナの方はバスタオルの代金について引き下がる気はないようだ。
 そんな彼女に、鈴木は何か含みを持った薄ら笑いを浮かべた。
「お前が余計なことして、またあのチンピラ兄貴に殴られるのはゴメンだからな」
「あっ……!?」
 鈴木の言葉にルナははっとする。そして、すぐに慌てて頭を下げた。
「すいません! この間は兄がとんだ失礼を……」
 顔を青ざめさせながら、ルナが何度も鈴木に謝罪する。
 先日、鈴木を助けた後、彼に自宅へと送って貰っていた途中で、ルナの兄ラッセがその現場を目撃した。彼女の兄は二人を見て、何かよからぬ勘違いをしたらしく、いきなり鈴木に殴りかかってきたのだ。
 そんな経緯があったため、ルナは今度鈴木にあったら即謝ろうと思っていたのだが、まさか全身びしょ濡れの状態で再会するとはさすがに予想できるはずがない。
 思いのよらない出来事の連続で、今の今まですっかりその事を忘れてしまっていた。
 おろおろしながら、見ている他人の方が気の毒になるぐらい平謝りするルナに、鈴木はふんっと鼻を鳴らした。
「だから、出来る限りお前らには関わりたくないんだっつーの。金もいい。おれはもう帰るからな」
「ごめんなさい、迷惑ばかりかけてしまって……」
 早口でそう捲くし立てる鈴木に、ルナはしゅんとしたように俯いた。消え入りそうなか弱い声に、鈴木は苛立ったように眉間に皺を寄せる。
「そんな鬱陶しい顔すんな。こっちが悪いことしてるみたいだろうが」
「す、すいません……」
「だから、それを止めろと……」
 鈴木は突如言葉を切った。ルナの様子がどこかおかしい
 顔色は先ほど以上に真っ青で呼吸も乱れ、肩が大きく上下していた。美しい顔が徐々に苦悶の色で歪む。
「おい、どうした……?」
 鈴木の問いかけにも答えない。と、その時だった。
「うっ……」
 小さな苦しそうなうめき声を上げ、ルナが左胸あたりの服を掴む。そして、両膝をついてしゃがみこんでしまった。
「おい!」
 ただならぬルナの様子に血相を抱え、とっさに鈴木が駆け寄る。
「大丈夫、ですから……」
 なんとか搾り出したような声でそう言うものの、目を固く瞑り、身体を丸めたまま立つ事すらできない状態では大丈夫も何もあったものじゃない。
「くそっ」
 一刻を争う事態に、鈴木は急いで携帯を手に取る。救急車を呼ぼうとしている最中、ふと、地面におちた鞄が目に入る。ルナがやけに大事に抱えていたものだ。さすがにこのようなことになって持っていられなかったらしい。いつも鞄の裏を外側に向けていたため、鈴木が表を見ることはなかったのだが……。
 通話を切り、携帯をしまうと、鈴木は無意識に鞄を拾い上げる。その顔はどことなく複雑な表情を浮かべていた。






 病院の待合室に一人、鈴木はぶすっとした顔で座っていた。持病の喘息が重くなった時でさえ、なかなかここには来ないのにと人知れず溜め息をつく。
 あの後、救急車が来たのはいいが、何故かルナと共に鈴木もなかば無理やり病院に連れてこられたのだった。
 ルナの方は医師の素早い処置により、取りあえず危機は脱したらしい。今は様子を見ている最中ですと、先ほど看護師が鈴木に伝えてくれた。
 別におれには関係ないしと思いつつも、その報告に鈴木は密かに安堵していた。ただ、何を勘違いしたのか、「彼女さん、もう大丈夫ですからね」と余計な一言を看護師が付け加えたのは気に食わなかったが。
 もう、鈴木にすべきことなどないし、ここにいてもしょうがないのだが、何故か彼はここに留まっていた。原因は横に置いてある鞄だ。
 とてもじゃないがルナに返せる状態ではなかったため、ずっと鈴木が持っていたのである。
 さっきの看護師に後で本人に返すように言って渡せばよかったと、今更ながらに後悔していた。
 別に椅子に置いたまま帰った所で、鈴木に不都合はないはずなのだが、もし盗まれたらという考えがよぎりどうしてもできず、今に至る。
 人間嫌いの鈴木が赤の他人の所有物を心配する事実はかなり驚愕に値するものだったが、それに気づく者は本人を含め誰もいなかった。
 何でこんな鞄一つでうだうだ悩まなければならないんだと、しかめっ面で唸る鈴木の元へ近寄る白い男が一人。
「いやー、凄い偶然もあったもんだねえ」
「あ?」
 聞き覚えのある声に鈴木は不機嫌さを隠そうともせず、顔を上げた。病院という場所らしい白衣を着た医者と想われる中年の男が、どことなく面白がっているような笑みを浮かべ、近づいてくる。
 鈴木の眉間の皺がますます深くなった。
「前、彼女に助けられた君が今度は彼女を助けるなんてさ。しかも、同じ病院に運ばれてくるなんて」
 医者はそう言った後、ふふっと笑う。マズイ奴に絡まれたと、鈴木は苦虫を噛みつぶしたような顔で、そっぽを向いた。
 この医者は喘息持ちの鈴木の一応主治医である。前にルナにより鈴木が助けられた時に治療してくれたのも彼だった。よって、この医者はルナとも顔見知りである。
「何でお前がここにいるんだよサボりか。だいたい、お前呼吸器科で関係ないくせに」
「今は昼休み中でね。たまたま君とドーソンさんを見かけたのさ。聞いた話では彼女、無事らしくて本当によかった」
 医者は鈴木から椅子を一つあけ座る。鈴木はますます嫌そうな顔で頬杖をついた。しばらくはその体勢のまま黙っていた鈴木だったが、やがて何か言いたいことがあるのか、ちらりと医者の様子を伺い始めた。それに気づいた医者が「どうかしたのかい?」と促す。
鈴木は機嫌悪そうにぴくりと片眉を寄せたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「あの女、どっか悪いのか?」
 ぼそりと呟かれた言葉に、医者から笑みが消え、医師としての顔を覗かせた。
「どうも生まれつき心臓に問題があるらしくてね。彼女も時折この病院に通院してたようだよ」
 医者の説明に、鈴木はルナが左胸を押さえていたことを思い出した。
「本当ならきちんとした治療を受けた方がいいのだけど、なかなかそうもいかないらしくてね……」
 医者の表情が曇ったのを横目に見て、鈴木はああ、金の問題かと事情を察する。前に
見たルナのおそらく借家であろう家というよりボロ小屋といった方が近い自宅からだいたいあの兄妹の経済状況はだいたい推測できた。あれではその日暮しが精一杯といったところだろう。
 鈴木も喘息を患っているから分かるが、医療費というものは予想以上に金がかさむものだ。一生暮らしていけるだけの財産がある鈴木ならともかく、ルナにはかなり重くのしかかってくるだろうことぐらいは彼にも想像できた。
「身体を急激に冷やしたことによって、心臓に大きな負荷がかかり、軽い発作を起こしたらしいとのことだよ。でも……」
 医師が一旦そこで言葉を切り、不可解そうに顔を顰めた。
「何で彼女、あんなに全身ずぶ濡れだったんだい。雨も降ってないのに。誰かが窓から捨てた水を被っちゃったのかな?」
 その理由を鈴木はある程度予測していた。実のところ、医者の言ったことは全くの的外れではない。
 鈴木は黙ったまま、医者にある物を見せた。ずっと持っていたルナのカバンだ。カバンの表を見た途端、医者の目が驚きで見開く。
「これ……!
 その表面は鋭利な刃物で切り裂かれたような無残な傷がいくつも刻まれていた。それが指し示すことなど、問い返さなくて検討がつく。鈴木も分かっているのだろう、厳しい表情を崩さず、無言のままだった。





カバンは医者に預け、鈴木は病院の外へ出る。そして、おもむろに携帯を取り出した。アドレス帳から唯一登録してある人物の電話番号を呼び出す。相手はすぐに出た。
「はーい、こちらオル・ディッカーです。只今留守にして、いやそうでもない? やっぱ留守デース」
 淡々とした抑揚のない声で読み上げられるふざけたメッセージに、鈴木は思わず携帯を床に叩きつけるところだったが、自分が損するだけだとすんでの所で思いとどまった。
「留守でもなんでもいい。とにかくすぐに調べて欲しいことがある。どうせ暇だろ」
 鈴木は相手に構わず、一方的に要件を突き付ける。すると、しばらくして携帯越しにわざとらしいため息が伝わってきた。
「勝手に決めつけないで欲しいなあ。今、仕事忙しいんだけど」
 相変わらずのやる気のない声。ただ、その中には若干の好奇心が見え隠れしていた。鈴木から相手に情報を求めるのは初めてといっていい出来事だったからだ。
「本人が仕事する気ないなら、暇と同意義だろうが。金は払う。どうせ、財布の人口密度いつも通り過疎地なんだろ」
「まあ、確かにみんな出払っちゃってて、限界集落も真っ青な状態だけどね。で、何を調べて欲しいの?」
「あー…、それはだな」
自分から頼んでおきながら、鈴木は詳細を口にするのを一瞬戸惑った。相手がどんな反応するか、目に見えているからだ。
 内容を伝えると、予想通りむこうは楽しげに「おや、どういう風の吹き回し?」と返してくる。からかえるネタを掴んだといった感じの相手に、鈴木のこめかみにビキッと青筋が浮かぶ。
「お前には関係ねえ。いいからさっさと調べろ」
 苛立ったように命令口調で鈴木が告げる。こういう言い方をすると、大抵相手はへそを曲げてしまうが、今は興味が勝ったようで、「はいはい、了解しました」と返答した。






早朝、高校の教室に登校してきたカローラ・リッツァーニが入ってきた。おはようとクラスメートに挨拶した後、自分の席に座る。カバンから教科書を出しながら、ちらりとカローラは前方にある一つの机を見やる。
 その席にいつも座っている生徒はここ数日姿を現していなかった。
「カローラ!」
 友人の一人がカローラに近づいてくる。どことなく喜々としている友人は、カローラが見ていた席を指差した。
「ねえ、聞いた。あいつ休んでると思ったら、入院してるらしいよ」
名前が出ずとも誰のことを指しているのか、カローラにはすぐに分かった。忌々しい美しい髪と顔のクラスメートの姿が脳裏に浮かぶ。無意識に唇を噛み締めていた。
「このまま永遠に来なきゃいいのにねー」
 不謹慎なことを口にしながら、あははと多少品のない笑い声をクラスメートがあげる。ところが、カローラは友人に同調せず、むしろ機嫌を損ねたかのように目を細めた。
「だから何?」
 鋭い目つきで睨みつけられ、友人の肩が怯えたようにびくりと跳ねる。この学校に多額の寄付をしている、それなりに大きな企業の社長の娘であるカローラを怒らせるのはまずいと、「ううん、何でもない」と即座に話を切り上げた。
 カローラは蔑んだように鼻を鳴らす。そして、再度座る者がいない席を見た。
 話の話題の女生徒――ルナ・ドーソンは確か心臓が悪かったはずだ。ならば、先日カローラ達が彼女にした仕打ちが入院の原因になったのではないか。
 カローラはそう考え、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
(私が悪いんじゃない。あいつが悪いのよ)
 強引に、自分勝手な結論を出す。
 これ以上あの女のことを思い出すと不愉快な気分になると、カローラはルナについて考えるのをやめた。



「まいったなあ。すっかり遅くなっちゃった……」
 すっかり日が落ち、薄暗くなった中、カローラは帰宅を急いでいた。いろいろと用事が重なったため、すっかり帰る時間が遅れてしまったのだ。
 いつもは人が多い大通りを通っていたのだが、早く帰るために今日は普段は使うことない近道となる裏道を選んだのだが。
 カローラはその選択を後悔し始めていた。
 裏道はほとんど街灯もなく、人もいない。不気味な程の静けさが少なからず恐怖を煽る。
この辺はあまり治安もよくないと聞く。これなら遠回りになってもいつもの大通りを使えば良かったと思いながらも、仕方がないので一刻も早く家に帰ろうと自然と早足で歩いていた。
 と、正面の方から現れる黒い影。誰かがこっちにくると、無意識にカローラは顔を強ばらせた。
 影が近づいていくにつれ、その正体が明らかとなる。暗い中、かすかな月明かりが相手の姿を照らし出した。
 黒いパーカーを着た若い男。フードを被り、眼鏡をしていために分かりづらいが、顔立ちからすると東洋系のようだ。
 男はカローラから1mほど離れた所で足を止めた。
「お前がカローラ・リッツァーニか?」
「え?」
 いきなり男から自分の名を呼ばれ、カローラは弾かれたように男を見る。と、次の瞬間バチっという音と共にカローラの視界は真っ暗に染まった。






 次にカローラが目が覚めた時には、どこか知らない建物の床に寝かされた状態だった。
埃とかび臭い空気とボロボロの床から見て、どうやら長年人のいない廃屋らしい。
 一瞬、カローラは自分の身に何が起こったのか分からなかったが、すぐにあの得体の知れないパーカーを着た眼鏡の男に気絶させられたことを思い出す。慌てて、起き上がろうとするがうまくいかない。自分の両手が後ろ手に縛られていることに気づき、カローラは不安と恐怖に襲われた。
 自由のきかない体で何とか上半身を起こす。と、何者かの足が目に入った。カローラは身体をびくつかせ、勢いよく顔を上に向ける。すると、そこにいたのは……
「よお、気づいたか?」
 カローラを気絶させたあの男が、彼女を見下ろしていた。その右手にはスタンガン。これでカローラの気を失わせ、ここへ運んできたのだろう。
「だ、誰よあなた……。何が目的?」
 強気に振舞うものの、声が震えてしまうのは否めなかった。まさか、自分は誘拐されたのか? 家は資産家だ十分にありえる話である。男は自分をどうしたいのだろうと、カローラは怯える。
 しかし、男はカローラが思いもしなかったことを口にした。
「あいつに水ぶっかけたイジメっ子はお前で間違いないな」
「はっ……? えっ?」
 男の質問にカローラは困惑する。彼が言ったことに関し、カローラは確かに心当たりがあった。しかし、何故見ず知らずの男から、その事実が出てくるのか。その因果関係がまったく見当つかない。
 混乱しているカローラを横目に、男はパーカーのポケットから手帳らしきものを取り出した。
「カローラ・リッツァーニ。18歳。イタリア生まれで、リッツァーニ家の第二子として生まれる。家族構成はそれなりに大きな企業の社長である父親と母親。それと異母兄が一人。趣味はテニス。好きな食べ物はパンケーキ……オルのやつ、いらんことばっか調べやがって」
「な……」
 べらべらと独り言のごとく、自分の個人情報を諳んじる男にカローラは思わずあっけに取られてしまう。
 カローラがその正体を掴めぬままでいる一方で、男は尚も勝手に喋り続けた。
「現在は親元を離れて、この近くの高校に留学中。運動も勉強もこなし、学校での信頼はそれなりに高い模様。そして、ルナ・ドーソンとは同級生であり、現在はクラスメートである」
 突然出てきた彼女にとって馴染みの深い名前に、カローラは大きな反応を見せた。それを確認した後、鈴木はさらにメモ帳を読み上げる。
「付き合っていた男がルナ・ドーソンに心移りし、そのせいで二人は破局。それから、ドーソンに対する執拗な虐めが始まった。随分とありがちで陳腐な理由だな。要は嫉妬と僻みか」
 嘲るようにメモ帳をヒラヒラさせる男を、カローラはキッと睨みつけ、強く唇を噛んだ。
「赤の他人がくだくだ言わないでよ! 何も知らないくせに。本当に何なのよあなた!」
 吠えるカローラに、鈴木は小馬鹿にしたように笑った。
「確かにおれは何も知らねえし、赤の他人だ。ぶっちゃげ、お前があいつを虐めようがおれには関係ない。ただ……」
 男は傍においてあったゴミバケツを持ち上げた。
「ただ、むかつくんだよ」
 男がゴミバケツをカローラに向かって振る。まるで、この前カローラ自身がルナにした行動のようだったが、彼女に降ってきたのは水とは違うものだった。
 ぼたぼたと何やら小さい無数のモノがカローラの体に落ちてくる。その正体を目にした途端、カローラは凍りついた。
「い、いやぁぁあああああああ!!」
 廃屋にカローラの絶叫が響き渡った。彼女の身体を覆い尽くしていたのは大量の虫だった。バッタらしきものだったり、コウロギらしきものや、得体の知れないうねうねとしているミミズに似たものなど、大小サイズも様々なありとあらゆる虫が彼女の体のあっちこち、髪や顔にも張り付いている。
 ただでさえ、虫は大の苦手だ。あまりにもおぞましい光景にカローラは喚き散らし、暴れ始める。
 何で自分がこんな目にあわなくてはいけないのだろうか。この男はなぜ自分にこんな仕打ちをするのか。男の言葉から推測するに、彼はルナ・ドーソンの関係者で、彼女を虐めた報復をしているらしいということはカローラにも検討ついた。
 確か、ルナ・ドーソンには兄がいたはずだ。しかし、どう見ても東洋系であるこの男とルナが兄妹であるはずがない。
 ならば、恋人か何かかと考えを働かせてみたが、虫が耳の穴に入り込もうとし、その足音が鼓膜を刺激して身の毛がよだつ。カローラは必死で頭を振り、そこで思考が中断してしまった。
 到底、頭を働かせられる状況ではない。
 錯乱状態に陥ったカローラは虫を払おうとただがむしゃらに身体を動かした。ところが……。
「黙れ」
 男の低い声に、カローラの声と動きがぴたりと止まる。彼女の首筋には鈍い光を放つサバイバルナイフが突きつけられていた。
「やかましいのは嫌いだ。しまいにゃ、永遠に黙らすぞ」
 冗談とも本気ともつかない脅しに、カローラはただ身体を強ばらせ、男を見つめることしかできない。
「そうやって大人しくしといた方がいいぞ。適当に集めたから、こいつら毒を持ってるのかそうでないのかおれは知らないし。下手に刺激すると、刺されるかもしれないからな」
 男が淡々と話す間にも、無数に足のついた細長い虫がカローラの足をはい上り、ぞわぞわとした気持ち悪い感覚がカローラに襲いかかる。すでに細かな虫がいくつも服の中に侵入していた。
 冗談ではなく、ここままでは虫に食い尽くされるような気がして、カローラは恐ろしさのあまり、ぽろぽろと大粒の涙を零す。
「お願い。もうやめて。助けて……」
 身体を震わせ、あまりにもか弱い声で懇願するその姿は、普通の無力な少女そのものだった。
 しかし、男は暗い目でカローラを見下しているだけで、一切の慈悲を見せなかった。
「あの女だって、お前にそう言ったことがあるだろうよ。だが、お前それで虐めやめたのか?」
「知らない。私は知らない。もう嫌ぁ。助けて」
 カローラは首を左右に振り続け、ただ責任逃れと許しを求める言葉を繰り返す。男はハッと心底軽蔑したように笑い、カローラの顎を掴んだ。
「まあ、お前だけじゃなく、人間なんてみんな自分勝手なもんだけどな。他人の痛みなんか分かるわけがない」
 そう言った男の顔には暗い陰が落ちていたが、その変化にカローラが気づける余裕などありはしなかった。
「過ちに気づくのは手遅れになってからだ」
 男は一匹のバッタをひょいと掴みあげる。そして、そのバッタをカローラの顔に近づけた。
「なあ、知ってるか。虫って結構いろんなとこで食料になってるんだぜ。日本でもイナゴとか蜂の佃煮あるしな」
 男の言動に不穏なものを感じ取ったカローラの瞳孔が開く。まさかと嫌な想像が頭をよぎった。
 そして、男はカローラが恐れていた通りの言葉を口に出した。
「せっかくだ。これ、食ってみろよ」
 とんでもない事を言いながら、ぐぐっと男はカローラの口元にバッタを押し付ける。カローラは必死で顔を背けようとするが、男が顎をしっかりと固定しているため叶わない。
 口を閉じ、いやいやするように首を振り、カローラは断固として拒否するが、男は容赦しなかった。
 再び、ナイフの切っ先を喉元に当てる。刃が皮膚にわずかに食い込み、首元に赤い筋が流れた。
 このままでは殺されると、カローラは僅かに口を開ける。ほぼ同時に男はソレを口の中にねじ込んだ。
 




 
 
「テメェは……」
 仕事帰りのラッセ・ドーソンは自宅近くで出会ったフードを被ったパーカ姿の眼鏡の男に、目を丸くした。
「あー、あいつのチンピラ兄貴か。また、会ったな」
 眼鏡の男――鈴木は何か企んだように口角を釣り上げる。その嫌な笑みにラッセは警戒感を示した。
「何か用かよ……」
 若干バツが悪い様子で、ラッセが鈴木に聞く。ラッセには先日ルナと一緒にいた鈴木を己の勘違いで殴ったという負い目があった。だが、目の前の人物がどうにも気に食わないのもまた事実であったので、素直に謝ることも出来なかった。ラッセの直感が告げていたのだ。この男は危険だと。
「妹は元気にしてるか?」
 明らかに挑発を含んだ鈴木の問いに、ラッセはますます警戒を強めた。
「何でテメェにそんなこと教えなきゃならねぇんだ」
「人に世話になっといて随分な態度だな。あの女を助けてやったのはおれだ。前にいきなりお前に殴られたにも関わらずな」
「……っ」
 痛いところを突かれ、ラッセはぐっと拳を握った。徐々に剣呑な空気が場を支配し始める。
「その礼と詫びはまた後でする。とりあえず今は帰らせてくれ」
「貧乏人からむしり取る気なんかねえよ。妹の医療費すらろくに出せない有様なのに」
「あぁ!?」
 鈴木の嘲笑と罵りにラッセの頭に一気に血が上る。鈴木の言っていることは事実であったからこそ、尚更怒りが湧いた。
 手を上げかけたが、ここで争った所で何もならないし、ルナが悲しむだけだ。理性を総動員して、何とかラッセは怒りを飲み込んだ。
 しかし、そんなラッセを鈴木はさらに追い討ちをかけた。
「お前、なんであいつが発作起こしたか知ってるか?」
 唐突な質問に、ラッセは困惑した表情を浮かべる。病室でルナは何も言わなかったから、ラッセに返せる答えなどあるはずがなかった。
「知らないみたいだから、教えてやる」
 鈴木は悪意を滲ませた笑みを浮かべ、ラッセに詰め寄った。
「どっかの馬鹿な同級生が、このクソ寒い中あいつに水ぶっかけたせいだ。だから、倒れた」
「えっ?」
 鈴木から告げられた衝撃的事実に、ラッセの目が驚愕で大きく見開かれた。強いショックを受けているラッセに、鈴木は高笑いを上げる。
「その様子じゃ、妹が虐められてることもずっと気がついてなかったんだろ。オマケにあいつが危機に陥った時も傍にいてやれもしない。とんだお笑いぐさだな!」
 ラッセを責める言葉と共に、何かどす黒いヘドロのようなモノが吐き出されていくのを鈴木は感じていた。出来るだけ相手を深く傷つけ、絶望させるように
 多分、こんなことがしたいのではないと心の奥底では分かっている。ラッセが憎いわけでもない。ただ、誰かを自分と同じ醜い深淵へと落としたいだけなのだ。
 ラッセはその鈴木の暗い欲望の生贄となっていた。
「結局、妹を守ってるつもりで、お前には何も出来てないってことだ」
「っ……!」
 核心をつかれ、ラッセは辛そうに顔を俯けた。無力感に打ちひしがれる青年の姿に、鈴木はかすかな優越感と自己満足に浸る。
 しかし、その代償は後に大きな自己嫌悪と怒りとなって、己に返ってくることとなった。
 





とあるアパートの一室。音もなく窓が開かれ、特徴的な柄のスーツを着た男が侵入する。
何も知らない者からしたら泥棒かと思うかもしれないが、一応彼は普通のビジネスマンだった。
 むしろ、普通でなかったのは部屋の状態だ。中で台風か竜巻でも起こったのか思えるほど、床にあらゆるモノが散乱しているという惨状と化していた。相当強い力で叩きつけられたらしいディスプレイの部分にヒビが入ったデスクトップPCまで転がっている有様である。
 住人に対して寛容で我慢強い大家選手権というのがあったら、ここの大家はかなり上位に食い込めるに違いないと、侵入者――オルは評した。
 嵐の元凶の姿を探せば、シングルベットの上に布団で丸まった不自然な物体を発見する。
 やれやれといった具合でガシガシと頭を掻きながら、オルはベッドのへりに腰を落とした。
「別にいいんだけどさー。君はもうちょっとやり方選べないわけ?」
 オルが謎の物体に話かける。すると、物体はもぞもぞと動き始めた。
「うるせえ、黙れ、死ね!」
 聞き取りにくいこもった声が布団越しに響く。丸まったその姿がまるでハリネズミのようだとオルは感じた。
 人との距離の測り方を忘れたハリネズミ。意図するしないに限らず、結局その針で傷つける行動しか取れない救いようのない存在。けれど、一番救いようなく、傷ついているのは、己の針を飲み込んで中からずたずたになっているハリネズミ自身かもしれなかった。
どうせ、そのうちハリネズミは腹減ったと言い出すに違いない。何か簡単な夜食でも作ろうかと、オルは台所に向かった。