兄の話

「ここに隠れてろ、ルナ。いいか、おれがいいって言うまで絶対に出てくるんじゃないぞ!」
 クローゼットの中に小さな女の子をそこに押し込むと、糖蜜色の目と瞳をした少年が叫ぶ。同時に部屋の外の方で、何かが割れる大きな音と意味不明な怒声が子供達の耳に入った。
 けたたましい物音に、少年と同じ髪と目をした少女が身体をびくつかせ、大きな目に涙を溜める。クローゼットの扉を閉めようとする少年の腕を、小さな手でとっさに力強く掴んだ。
「一人にしちゃやだぁ。お兄ちゃん行かないで!」
 つぶらな瞳を潤ませ、少女が懇願する。そんな怯える妹の姿に少年は心苦しく思いながらもぐっと唇をかみ締め、少女の手をほどいた。
「大丈夫、すぐ戻ってきてやるから。それまでここでじっとしてるんだぞ。ルナはいい子だから出来るよな?」
 出来るだけ妹を安心させるように、兄は優しく微笑みかける。少女は俯き加減であったものの、やがて小さく頷いた。
 クローゼットをゆっくり閉め、少年は覚悟を決めるかの如く目を閉じる。耳障りな騒音はいまだ止む様子はない。
 意を決し、少年は部屋から出て行った。



 リビングは目を覆いたくなるような惨状と化していた。元々から傷だらけだった床や壁はまた新たな傷が増えているし、足元は踏み場がないほど割れたコップの破片やら何やらが散らばっている。
 予想していて通りの光景に少年は深いため息をついた。
「何だ、いたのかてめえ……」
 と、そこへ低いしゃがれた声が部屋に響いた。粗末なテーブルに座り、瓶から直接ビールを煽るみすぼらしい格好の男。
 酔いと薬で濁った、生気のない暗い瞳が少年の姿を捉える。男から放たれる不快な悪臭と強い酒の匂いに、少年の顔が嫌悪感と軽蔑で歪んだ。
「あー…、なに生意気な目で見てやがんだ」
 男がビール瓶を手に持ち、ゆらりと立ち上がる。男から発せられる殺気を感じ、次の行動を察した少年は咄嗟に両腕を頭上にかざした。
「このクソガキがぁ!!」
 男は少年に向って、瓶を振り下ろす。その衝撃で小柄で華奢な身体は床へと吹き飛ばさる。
「誰のおかげで飯食えてると思ってんだ」
 男は倒れこんでいる少年を何度も何度も踏みつけた。容赦ない暴力に少年は身を丸め、ただ、ひたすら耐える。
(ちくしょう、ちくしょう……! 死ね、クソ親父!)
 少年は心中で暴君に向い、ありったけの憎悪と恨みを篭めて吐き捨てた。目の前の男が消えてしまえばいいと幾度となく思った。。しかし、その望みは無情にも叶えられることはない。誰の助けのないまま、理不尽で圧倒的な力の前に少年が抗う手段などあるはずがなく。
 出来ることといえば、ただ嵐が過ぎ去ることを待つことだけだった。



「……ちゃん、お兄ちゃん」
 あれからどれだけの時が経ったのか。少年は誰かのすすり泣いているような声で目を覚ました。
 ゆっくりと目を開けると、目の前で妹がしゃくりあげて泣いている。
「ルナ……」
 少年が妹の名を呼ぶ。途端に口の中で鉄サビのような味がした。少年の声に呼応するかのように彼女のつぶらな瞳から大粒の涙が零れ落ちる。震える小さな身体。
「お兄ちゃん〜!」
 兄の意識が戻ったことで糸が切れたのか、幼い少女は大声で泣き始めた。少年は全身を襲う痛みに耐え、身体を起こす。
「ルナ、大丈夫だ。泣くな」
 妹を安心させるかのように、優しく語りかけた。そして、その細い身体をそっと包みこむように抱きしめる。
「お前は何があってもお兄ちゃんが絶対に守ってやるから。だから、怖がらなくたっていいんだぞ。なっ?」
 少年は温かい笑みを浮かべ、そう告げた。すると、妹が途端に泣き止み、こくり頷く。
 何よりも大切な妹を己の手で守り通してみせる。少年はこの時固く誓った。






「おい、ドーソン。ドーソン!」
 慌ただしいレストランの厨房の中、男の大声が響く。格好からして、ここの責任者のようだ。しかし、呼ばれた人物は男の前に一向に現れない。
 その人物――ラッセ・ドーソンは呼び掛けに答えることなく、無言でただ黙々と皿洗いに没頭していた。
「呼んでるぞ」
 責任者の表情がだんだん怒りを伴ったものになってきているのを見かねたのか、同僚がラッセに声をかけた。ようやく、ラッセも自分が呼ばれていることに気づく。慌てて、責任者の元へと向かった。
「ここがいろいろ喧しのは分かる。だからこそ、おれも大声張り上げてるんだよ。喉が枯れたらどうしてくれるんだ」
 やっと来たラッセに対し、眉間に深い皺を数本刻んだ責任者が痛烈な嫌みを浴びせた。
 元々、この経営者はラッセをあまり快くは思っていなかった。真面目に働きはするのだが、無愛想な上にこうやって時々自分の呼び掛けに答えないことがあったからだ。
「毎度思うが、お前の耳は石でも詰まってるのか。いい耳鼻科紹介してやるから行ってきたらどうだ?」
 ねちねちとした上司の小言に、ラッセは「すいません」とだけ簡潔に謝罪した。
 実のところ、責任者の言葉はある意味では的を射ていた。ラッセが度々呼び出しを無視した形になるのにはちゃんとした訳があった。
 ラッセは右耳の聴力を殆ど失っていた。父親の長年に渡る虐待の後遺症によるものだ。
 しかし、ラッセはその事を職場の人間に一切口にしていなかった。
 それを言い訳にする気はなかったし、何より周りから偏見や同情の目で見られるのが嫌だった。



「おい、ドーソン! 仕事あがりだろ?  暇ならおれらに付き合わねぇか?」
 仕事が終わり、帰ろうとしていたラッセに職場の同僚が誘いをかけた。
「いえ、これからまた仕事なんで」
 しかし、ラッセはそう口にすると、誘いをあっさりと断り、さっさと職場から出ていってしまう。
 いつものこととはいえ、あまりにも愛想がない態度に同僚たちはあきれたような視線をラッセに送った。
「あいつ、本当暗いよなあ」
 勤務態度は真面目そのものだが、彼らは一度たりともラッセが笑ったところを見ていない。
 あんなんで人生楽しいのかねと同僚の一人が苦笑いを浮かべた。





 レストランを出た後、ラッセは急いで次の職場に向っていた。
 いくつもの職を掛け持ちし、休みなくひっきりなしに働く。それが彼の日常だった。そうしないと生きていけないからだ。
 ろくに学校に行けなかったラッセにつける職など限られている。だが、あるだけマシというものだった。
 ラッセはそんな生活をつらいと一度も思ったことはない。自分のためではない、妹のルナのためなのだ。彼女のためなら幾らでも頑張れた。
 ろくでもない男の下を妹と飛び出して、はや数年。ラッセは一人、兄妹二人の生活を支えていた。
 彼の中に他人に頼ろうと言う考えは一切なかった。信じられるに値する人間など一人もいない。
 ラッセの周りにいた大人たちは皆、父親と同じようなクズか、もしくは優しい顔をして自分達を利用しようとするクズしかいなかった。
 そんな現実を目の前にして、ラッセには悟ったのだった。
 自分達を守れるのは己だけということを。



 道中、公園を横切っていたラッセだったが、ふと聞こえた騒がしい声に足を止めた。
 見れば、カップルらしき男女が二人何やら言い争っている。普段なら、素通りするのだが、どことなく漂う嫌な雰囲気がラッセをその場に留めていた。
「このアマ!」
 次の瞬間、男の方が女に突如殴りかかった。女は悲鳴を上げ、その場へと倒れこむ。尚も手を挙げようとする男。
 ただならぬ事態に、考えるより先に体が動いた。
「止めろ!」 
 ラッセが女を庇うようにして、二人の間に割って入る。見知らぬ第三者の乱入に、男は顔を顰め、ラッセを睨みつけた。
「何だ、てめぇは!」
 いまだ興奮状態にある男の目は血走り、殺気だった様子でラッセに向って吼える。しかし、ラッセは怯むことなく、男の前へと歩み出た。
「何があったかしらねぇが、だからって女を殴るんじゃねえよ。しかも、こんな人が多い場所で」
「あぁ!?」
 ラッセの言葉に男はさらに激昂した。青筋を立て、物凄い形相でラッセの胸倉を掴む。
「関係ないやつはすっこんでろ」
 再び、女性の甲高い悲鳴が上がった。同時にラッセは地面へと倒れこむ。右頬は強い痛みを訴え、男の拳によって切れた唇から一筋の赤い液体が伝った。
 血を手で拭い、顔を上げれば、目に入ったのは尚も自分に襲い掛かろうとしている男の姿。ラッセの心臓が大きく跳ねる。彼の脳裏は過去の出来事を思い出していた。
 いつも傷だらけだった幼き日の自分。その元凶である暴力でラッセを支配していた父親。
 今、己に襲いかかろうとしている男は、もっとも憎むべき、そして恐怖の象徴である人間と重なってラッセには見えた。
 ふと、女の方を見やる。縮こまり、恐怖で一杯になった瞳。あまりにもか弱い姿

――お兄ちゃん――

 その時、ラッセの耳に小さな声が届いた。それは怯えて震えながら自分に助けを求める小さな少女のもの。
 誰よりも大切で守ってやらなければならない存在。彼女を脅かす者は決して許さない。
 激しい怒りと憎悪が入り混じった灼熱の激流がラッセのはらわたを駆け巡る。次の瞬間には視界が真っ赤に染まっていた。




「もうよせっ、止めろ!」
 誰かの制止の声にラッセは我に返る。気づけば、警察官らしき男に羽交い絞めにされていた。
「殺す気か。見ろ、このままじゃ死んでしまうぞ!」
 警察官が下を指差す。ラッセがその通りに視線を下にやると、さっきの男が地面に蹲りぐったりしていた。顔中血だらけで、息も絶え絶えな有様だ。
「ぃっ、た……」
 ズキンッと右手がうずく。男をさんざん殴ったときに切れたのか、ところどころに傷がついている。拳はべっとりと相手の血で汚れていた。
 ラッセは自分が何をしでかしたのか、ようやく把握した。茫然とした様子で辺りを見渡す。騒ぎを聞きつけたのか、いつの間にやら人だかりが出来ていた。
 野次馬たちの大半は恐ろしい野蛮なものを見たような顔つきをしている。だが、その視線は事の発端の男ではなく、ラッセの方へと向けられていた。
 ラッセはおそるおそる自分が庇った女の方へと振り向く。
 己を映す女の目は、まさにかつて最愛の妹が恐れるように父親を見ていたあの目とまったく同じ色をしていた。


 あれからラッセは警察署に連れて行かれ、事情聴取を受けた。先に手を出してきたのは向こうの男であったことから、取りあえず厳重注意を受けた後、その日の内に家に帰宅することが出来た。
 しかし、この時の代償をラッセはすぐに払うこととなった。





「クビ……ですか?」
 掛け持ちしている仕事の一つの責任者から、突然明日から来なくていいと告げられた。理由を問いたださなくても、心当たりは十分すぎるほどあった。
 ここはあの諍いを起こした時、本来なら行っていたはずの職場だ。しかし、あの後警察に連れて行かれたために無断欠勤となってしまい、おまけに相手にはラッセが暴力沙汰をおかしたことも耳にしていた。
この不景気なご時勢、問題を起こした者などすぐに切り捨てられる。次の人間など掃いて捨てるほどいるから尚更。
 あの件はラッセだけに非があるわけではない。しかし、そんな事情を汲み取ってくれる相手ではないし、何より手を出してしまったのは自分自身の責任なのだ。
 ラッセは何も言えず、ただ黙ってクビを受け入れる以外にどうすることも出来なかった。





 やることのなくなったラッセは陰鬱な気持ちは抱え、自宅へと戻った。
 (ルナに何て言おう……)
 きっと妹は心配そうな顔しながらも、兄を気遣うことだろう。そんな姿を目の当たりにするのがラッセには何よりつらかった。
 ルナのために出来ることと言えば、早急に次の仕事を探すことしかない。今の収入でぎりぎりなのに、これ以上減ると生活が成り立たなくなる恐れがある。
 ラッセ自身がどんなに苦境に立たされようが一向に構わないが、ルナを苦しめるようなことになるのは絶対に我慢ならなかった。
 情けないなとラッセは自嘲する。
 妹を守ると粋がっておきながら、自分の力ではその日暮らしですらままならない。厳しい現実を前に青年はあまりに無力だった。
 ラッセはふとある言葉を思い返す。常々、あの男が己に呪詛のように繰り返し言っていたことだった。

――クズから生まれた人間はクズにしかなれねぇんだよっ。お前もいずれおれのようになるのさ!――

 息子を虐げながら、下衆た笑い声を上げ、父親はそう吐き捨てた。あの男が言うことなど何一つとして聞くに値いしなかったが、この言葉だけはラッセの中に深くまるで楔のように突き刺さっていた。
 結局父親の言うことは正しかったのだと、ラッセは今の自分を見て思う。
 暴力は嫌いだ。大嫌いなはずなのに、時折理性が効かなくなることがある。やってはいけないと分かっていても、頭が真っ白になって気づけば手を出してしまう。
 そのせいで何回トラブルを起こし、信頼や仕事を失ってきたか。自分のクズっぷりにとことん嫌気が差す。
 ラッセには人との付き合い方が分からなかった。
 ずっと、力で支配され続けた彼には、最終的に同じ方法しか取れないのだ。
 子供を泣き止ませるためには泣き止むまで殴り続けること。それが父親によって教えられたことだった。
 やはり、自分は父親と同じ末路を歩むことになるのかもしれない。ラッセは最早己の未来についてはある種の諦めの粋に達していた。
 それでも、妹は、ルナだけは幸せになって欲しかった。彼女が笑っていられるのなら、他に何もいらない。ルナの存在はラッセの支えであると同時に、生きる意味にもなっていた。


「遅いな……」
 いつもなら、この時間に帰ってきているはずの妹がいまだ帰宅していない。この辺りの治安は余り良くない。ラッセは嫌な胸騒ぎを覚えた。
 いてもたってもいられず、外に出てルナを探し始めた。

 しばし近所をうろつき、ようやく妹の姿を見つけることが出来た。ラッセはほっと一息つく。
 だが、ルナが誰かと一緒にいることに気づき、ラッセの顔が強張った。
 黒いフードを被った、目つきの悪い眼鏡の男。ラッセからはまるでルナに絡んでいるように見えた。
 カッと頭に血が上り、気づけば二人のほうに向って走り出していた。

「テメェ、ルナに何やってんだ!!」