引きこもりと貧乏兄妹の話

 小さな神社へと続く石造りの階段を、少年が軽く息を切らしながら駆け上がる。そんな彼の両手にはアイスクリームが握られていた。
「まいちゃん!」
 少年の視界が捉えたのは、賽銭箱の前に座っている同じぐらいの年の女の子。まいと呼ばれた少女は視線を上げ、麦藁帽子越しに笑顔をみせた。
「はい、これ」
 少年がアイスクリームをまいに渡す。
「ありがと、なおちゃん」
 まいの笑顔になおは嬉しそうな顔をして、彼女の隣に座った。

 真夏の太陽がじりじりと地面を焼く。影の中にいるとはいえ、子供たちの額にはじっとりと汗が滲んでいた。高温の空気の中、アイスクリームも急速に溶けていく。
「なおちゃん」
 なおが腕に垂れたアイスを舐めていると、まいが話しかけてきた。何故か、その表情はやけに曇っているように見える。
「なおちゃんとこのお父さんたちとうちのお父さんたち、どうしてた?」
 まいの問いになおは顔を伏せ、若干言いづらそうにゆっくりと口を開いた。
「また、大声で喧嘩しとった」
「そう……」
 まいもその返事は分かっていたのだろう。なおを見つめる瞳には憂いと悲しさが入り混じったような色が滲んでいた。
「いつまで喧嘩するんじゃろうな。もう、じいちゃんが死んでずっとじゃ」
 なおのうんざりしたような呟きに、まいは首を横に振る
「分かんない。遺産が貰えるまでなのかな……なんで、みんな同じじゃいけないんだろ」
 暗い面持ちで、二人は子供らしくないため息をついた。ここ3ヶ月、まいとなおは同じ悩みを抱えていた。
 すべて始まりは彼らの祖父が亡くなったことからだった。地元でそこそこの名士であった祖父には多額の遺産があり、それが子供たち、つまりはまいやなおの両親が相続することになったのだ。そこで問題は起こった。
 元より折り合いが悪かった兄弟たちは遺産配分で揉め始めたのだった。幾度か話し合いがもたれたものの、解決の糸口は一向に見えない。
 今日も遺産についての話し合いをするため、東京に住んでいたまいの両親が広島にいるなおの両親の所へ訪れていた。しかし、なおの話からして、交渉はまたも決裂したらしい。
たが、そんな複雑な大人の事情など知らない子供たちは、いつまでも続く醜い争いに心底辟易していた。
「ねぇ、なおちゃん」
「ん?」
「おばあちゃんが生きてた頃、みんなで外国にいったよね」
「あっ、あったのう。ぶち、楽しかった」
 なおの脳裏に三年前に亡くなった祖母の姿が思い浮かぶ。粗暴だった祖父と違い、穏やかで優しかった祖母がなおは大好きだった。
 彼女が亡くなる前に一族で欧州旅行に出かけたことあった。今思い返せば、ギスギスしたいさかいもなく、あの頃が一番楽しかったかもしれない。
「みんな仲直りしたら、またあそこに行こうよ!」
「ええのう。きっと、楽しいじゃろうな」
「絶対行こうね。約束だよ」
 まいは小指を伸ばし、なおは頷いて己の小指を絡めた。

 幼い二人のささやかな約束。しかし、それが叶えられることはなく。
 この2か月後、まいは家族とともに交通事故で還らぬ人となってしまった。





 秋から冬へと季節が移り変わろうかという頃。ただでさえ寒風吹き抜けて中、人がほとんど通らない裏通りはさらに冷たく感じた。おまけに外へ出る気を削ぐようなどんよりとした曇り空だ。
 そんな中、聞こえてくるのは苦しそうに幾度となく咳き込む声だけだった。
 黒フードを深く被り、視線を下に向けた男が足早に歩いている。その額にはいくつもの深い皺がより、明らかに苦しそうな表情を浮かべていた。
 呼吸をするたびにぜいぜいとした嫌な音が鳴る。
「くそっ……」
 胸を襲う圧迫感に服を掴み、男は思わず人知れず悪態をついた。朝から調子は悪かったのだ、外出しなければよかったと後悔しても後の祭り。
 男に出来ることといえば、これ以上事態が悪化する前に家へ帰り着くようにすることぐらいだった。

 鈴木は生来からの喘息持ちだった。子供のころから何度も発作を起こし、その度に病院のお世話となっていた。
 大人になってから多少はマシになったが、それでも年に何回かは発作に襲われる。そして、今まさにその恐れていた事態に陥ろうとしていた。
「ヒュー……ゲホッ、ゴホッ」
 症状は治まるどころか悪化の一途を辿り、とうとう鈴木は歩くこともままならず、その場に座り込んでしまう。
 幾度となく咳が出て、苦しさからか、鈴木の目にはうっすらと涙が滲んでいた。
 まだ、本格的な発作ではなかったが、このままでは時間の問題だ。こういう時、いつもなら吸入器を使って容体を落ち着かせていたが、最悪なことにいま彼はそれを持っていなかった。
 人間嫌いの鈴木は当然医者も嫌いだ、多少、具合が悪くてもまず病院に行くことなんかなかった。
(……苦しいっ)
  酸素不足に陥った身体は必死で荒く早い呼吸を繰り返す。だが、まったく肺に空気が送り込まれている気がしない。
 だんだんと視界すらはっきりと見えなくなっていく。
 このまま、死んでしまうのだろうかとそんな考えが頭によぎった時だった。

「あの……大丈夫ですか?」
 若い女性であろう心配そうな声が、鈴木の頭上から降ってきた。ゆっくりと視線を上に向けると、そこにいたのは10代後半とおぼしき少女の姿。
 蜂蜜色の大きな瞳に、緩くウエーブの掛かった月光のように輝く美しい髪。どことなく幼さを残すその顔立ちは、まさに可憐な美少女といったところか。
 しかし、大抵の男なら少なからず見惚れるだろう少女の存在も、鈴木にとっては何の感慨を抱く存在でもなく。ましてや、一般人でもすこぶる体調が悪ければ、虫の居所は悪くなるものだ。普段でも機嫌が−10の値で固定され、他人に無駄に攻撃的な鈴木のこと、その存在は邪魔でしかなかった。
 少女の気遣いは、ただでさえ尖った神経を逆撫でさせた。
「余計なお世話だ。とっとと消えろっ」
 正直、声を出すのもつらかったのだが、それでも鈴木は吼えるように悪態をつく。大きな怒鳴り声に少女は一瞬身体をびくつかせたものの、その場から離れようとはしなかった。
「でも、とても具合悪そうですし。このまま無視できなくて……」
 おそるおそるといった感じの喋り方だったが、少女の言葉には鈴木を放っておくわけにはいかないという強い意志が宿っていた。
 しかし、それが尚更鈴木をイラつかせる。ずっと心を固いコンクリートの壁で覆い、他人を拒絶するような生き方をしてきた彼にとって、己に近づいてくる存在は害をなす敵でしかない。それがたとえ善意を持った者であっても例外ではなかった。
「うぜぇ。失せろって言ってるだろうがっ。そうじゃなきゃ、とっとと死――」
 今にも噛み付こうかという獣の如く、鈴木が少女に食ってかかる。だが、少女の顔を見た途端、言葉が止まった。
 自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がしたのだ。少女のものではない、大好きだった懐かしい声。そんなはずはないと、鈴木は目を瞑って首を振る。それは鈴木にとって決してありえないことだった。少女の姿と淡い初恋相手の女の子との姿がだぶるなんて。あの子と目の前にいる少女は何一つ似てやしないのに。
 幻影を振り払おうとすればするほど、頭から離れなくなる。少女の不安そうな表情に胸がかすかに痛んだが、鈴木は無理やり無視した。
「少し休めば……落ち着くはずだから。もう、いいからどっか行けよ」
 かなりぶっきらぼうな言い方ではあったが、先ほどまでと比べれば劇的に軟化した態度を鈴木は見せた。
「そうならいいですが……」
 ああは言っていたものの、鈴木の呼吸は依然として荒く苦しそうだ。この後あまり良くなる気がしないと、少女も感じているのだろう。なかなか離れようとしない。
 自分がこの場から去った方が早そうだと、鈴木は何とか立ち上がる。と、その時だった。
「――っ!」
 突如膝を折り、前屈みで鈴木は激しく咳き込む。とうとう、恐れていた最悪の事態が彼を襲ったのだった。
 息が出来ない。苦しい。強いぜん鳴がひっきりなしに鳴り、呼吸困難に陥った鈴木の顔は苦悶の表情を浮かべ、口端から涎が垂れていた。唇や爪の色も徐々に青みを帯びている。明らかなチアノーゼの症状だった。
「しっかりして下さい! 大丈夫ですかっ」
 尋常ではない鈴木の様子に少女が慌てて駆け寄る。しかし、当の鈴木は到底返事が出来るような状態ではなかった。
 一刻を争う状態に、少女は急いで鞄から携帯を取り出す。
「今、救急車呼びます。すぐに来ると思いますから頑張って下さい!」
 少女が励ましの声が遠くに聞こえる。ぼんやりする頭で近寄っていく死の予感を感じつつ、鈴木の意識は朦朧としていった。





「だからー、ちょっとでも調子悪かったら病院に来るようにとあれほど言っただろう。発作が起こってからでは遅いんだよ。喘息を舐めちゃいかんぞ、死ぬ病気なんだから」
「うるせぇ。黙れ、やぶ医者」
 白衣を着た医者であろう壮年の男性が腕組みをし、鈴木に呆れたように注意する。
 しかし、当の本人はふてくされたように暴言を吐いたかと思えば、ベッドの上で寝返りを打ち、医者から背を向けてしまった。
 駄々っ子のような困った患者に医者は軽くため息をついた。
 この医者とはずっと前に鈴木の持病を心配した彼の住んでいるアパートの大家が、無理やり鈴木をこの病院に連れてきた時からの付き合いだ。
 最初から鈴木はこんな態度だったため、医者も彼の扱いは慣れてしまっていた。ただ、切羽詰った状態ならない限り、体調が悪くても病院に来ようとしないのだけは止めて欲しいと切に願っていたが。口すっぱく何度鈴木に言っても、残念ながら改善される兆しは一向に見えなかった。
「今回はたまたまこのお嬢さんが近くにいたからよかったものの、下手したら君あの世行きになるところだったんだからね」
医者が隣にいた少女を見る。鈴木が病院に運ばれてからもずっと心配で様子を見守っていたのだ。鈴木の容態が安定したことで、少女は安堵の表情を浮かべていた。
「……お節介女め。いつまでいるつもりだよ」
 ゆっくりと起き上がり、相変わらずの仏頂面で鈴木は少女をじろりと見やった。恩人とも言える存在にもこの態度。医者はやれやれといった風に肩を竦めた。
「すまないね、ドーソンさん。彼、人との付き合い方が下手で、誰に対してもこんな態度なんだ。悪気はないと思うんだけど……」
 鈴木本人ではなく、医者が少女に対し申し訳なさそうに詫びを入れた。少女は気にしてないと言った風に微笑む。
「いえ。本当に無事で良かったです。安心しました」
 少女は鈴木が無事だったことを心から喜んでいるようだった。赤の他人がどうなろうと知ったこっちゃないだろうがと、鈴木は何とも複雑そうな面持ちで少女を見つめる。そんな二人の姿が、雨でずぶぬれになった懐かない野良猫に傘を差してあげる優しい女の子の構図のようだと、医者はそんなことを考え、ふっと笑った。
「鈴木くん。こちら、君の命の恩人のルナ・ドーソンさん。ちゃんとお礼しておくようにね」
 医者が少女を鈴木に紹介した。ルナという名の少女はしっかりカバンを両手に抱えると、手を横に振る。
「そんな、いいですよ。私が勝手にやったことですから。そろそろ、私は失礼しますね。これ以上はお邪魔になっちゃうし」
「いや、君のおかげで助かったよ。ありがとう。もう、遅いから気をつけて帰るんだよ」
「はい、ありがとうございます。鈴木さんもお体大事になさって下さいね」
 鈴木と医者に軽く一礼すると、ルナが病室を後にしようとする。と、同時に鈴木もベッドから立ち上がった。
「おれも帰る」
「ええっ!? 大丈夫なんですか? もうちょっと休まれた方が……」
 何事もなかったかのようにさっさと帰ろうとする鈴木に、ルナが慌てて静止をかけた。しかし、当の鈴木は彼女の忠告に従う気はまったくないようで、彼女の脇を通り過ぎる。
「もう平気だ。金だけ払ってさっさと帰る」
「待ちなさい、鈴木くん」
 だが今度は医者に呼び止められ、鈴木は不機嫌そうに彼を睨みつけた。
「あぁ? 何だよやぶ医者。治療費稼ぎに入院しろとでも?」
「いやいや、そんなことじゃない。帰るのなら、ついでに彼女を家まで送り届けてあげなさい。君の家からそこまで遠くないから」
 医者はにっこりとして、ルナの方を指差す。途端に鈴木は眉を顰めた。
「何でおれがそんなことしなきゃならないんだ」
「そんなっ。いいですよ、一人で帰れますから」
 ルナの方も医者の提案に対し、遠慮した。
「彼女の住んでる近辺はあまり治安がよろしくないんだよ。こんな遅い時間にうら若い乙女が一人というのは不安だと思わんかね普通の人間なら。喘息の方が大丈夫なら、君が彼女を守ってあげられると私は期待してるよ。喘息の方はもう大丈夫なんだろう?」
 だが、医者はそんな二人のことなどお構いなしに、これでもかという程早口で鈴木を説き伏せる。
 苦虫を噛み砕いたような表情で医者の言葉を聞いた後、鈴木はルナの方をちらりと見やった。





「あの……もう本当にこの辺で結構ですから」
「煩い。黙って歩け」
 結局、ルナを家まで送り届けることとなった鈴木は、不機嫌そうな顔を隠そうともせずに足早に歩く。
 ルナの方は申し訳なさそうな様子で、鈴木からやや遅れがちになりながらも必死に付いていっていた。
「たくっ、何でおれがこんな事……」
「すいません……迷惑ですよね。逆に私が面倒をおかけしてしまって。鈴木さん、さっきまであれ程具合悪かったのに。本当にごめんなさい」
「喘息持ちに守られたって心もとないってか?」
「!? ご、ごめんなさいっ。そういう意味じゃなかったんです」
 鈴木の当てつけのような嫌味に、ルナが身体をびくつかせて謝罪する。ふんと鼻を鳴らし、冷めた視線を彼女に向けた鈴木だったが、ふと、ルナの息が切れている事に気づいた。
 どうやら、歩くスピードが彼女にとっては早過ぎたらしい。鈴木は少しだけゆっくりと歩き始めた。
「お前に何かあったら、後でおれがあのやぶ医者に文句を言われることになるだろうが。いいからつべこべ言わず、さっさとついて来い。おれは早く帰りたいんだっての」
「は、はい……」
 そう言われてしまうと、ルナにはどうしようも出来ずに黙り込むしかない。ようやく、大人しく己についてくる少女を横目で見ながら、鈴木は複雑そうな表情で軽くため息をついた。
(顔も目や髪の色も違う。人種が別だから当たり前か。第一、年齢すら違うだろうが。彼女は子供の時に死んだんだ。共通点なんて何一つないのに何で……)
 どうしてあの子とルナの姿が重なったのか。いくら考えても分からない。気のせいだと何度も頭に言い聞かせているのに、どうしても鈴木にはルナを放っておくことが出来なかった。
「鈴木さん、もう大丈夫ですよ。家はすぐそこですから」
 ルナが立ち止まり、ある建物を指差す。そこにあったのは家というより、あばら家と呼んだ方がいいような古いぼろぼろの家屋だった。
 そのあまりにもみすぼらしい建物に鈴木は思わず顔を顰めたが、他人の経済状況に口出ししてもしょうがない。ここまでくればもういいだろと、「ああ」とだけ言って頷いた。
「じゃあ、ここで失礼しますね。鈴木さん、ありがとうございました」
 礼を言うと、ルナは自宅へと戻ろうとする。その時だった。

「てめえっ、ルナに何やってるんだ!」

 突如、鳴り響いた若い男の怒声。ルナと鈴木が弾かれたように声がした方を見やれば、白いジャージ姿の青年が血相を変え、二人に近づいてきた。
 ルナと同じ髪と目の色をした青年の目つきは鋭く、明らかに鈴木を敵視していた。
 青年の登場にルナは青ざめ、鈴木は敵意をもった眼で強く睨みつける。
「誰だよお前」
「違うの、お兄ちゃん。この人は――」
 不穏な空気をかもし出す二人に、ルナは慌てて青年に弁明しようとする。だが、青年は聞く耳持たないようで、彼女を退け、鈴木に詰め寄った。
「妹に近よんな。ぶっ殺すぞ!」
 ドスを利かした声で青年は鈴木に対して威圧する。いわれのない責めに鈴木の方もカッと頭に血が上った。
「何でお前にんな事命令されなきゃならないんだっ。死ね!」
「テメェ!」
 青年が怒りの形相で、鈴木の胸元を掴む。
「ダメッ――」
 その後の行動を察したルナが、急いで青年を止めようとするも間に合わなかった。
 カッシャンという音と共に黒ぶちの眼鏡が地面に叩きつけられる。殴られた鈴木はその反動で尻餅をつき、痛みに呻きながら左頬を押さえていた。殴った青年は荒い息を吐きながら、鈴木の元へ駆け寄ろうとするルナの腕を掴む。
「鈴木さん!」
「行くぞ、ルナ」
 鈴木一人を残し、青年はルナの腕を引っ張りながら無理やり連れて行く。ルナは何とかして鈴木の元へ行きたかったが、青年の手を振り払うことが出来なかった。
「鈴木さん、ごめんなさいっ。ごめんなさい!」
 強引に連れて行かれながらも、ルナは何度も何度も謝罪する。その声が完全に聞こえなくなったところで、鈴木は落とした眼鏡を拾い上げた。
「何なんだ、くそっ!」
 あまりにも理不尽な仕打ちに、腹の中で煮えくりかえるような怒りが湧き起こる。腹立ち紛れに、鈴木は力いっぱい地面に拳を叩きこんだ。






「だから、さっきから言ってるでしょ。あの人は私を送り届けてくれただけなの」
 ルナは青年に鈴木とのことを何度も説明するが、青年は無言のまま依然として彼女を引っ張るだけだった。
「ラッセお兄ちゃんっ!」
 とうとう我慢の限界に達したらしいルナから若干の怒りと批判めいた声が漏れる。途端にルナの兄ラッセはハッとして、掴んでいたルナの腕を放した。
「……ごめん」
 罰が悪そうにルナから顔を背け、ラッセは小さく謝罪する。そんな兄の姿に、ルナはハァと軽く息を漏らした。
「謝るべきなのは私じゃない」
「ごめん……」
 ラッセは再度詫びを入れると、玄関の扉を開ける。先ほどまでとは一変して、しょげたような背中にルナは困ったような表情を浮かべた。
 これ以上、ラッセを責めても意味がない。そもそも彼があんな行動に出たのはルナを心配してのことなのだ。
 今度、鈴木に会うことがあったなら謝らなければと思い、ルナはこれ以上この件には触れないことにした。

 家に入ってから、ルナはふとある疑問に気づいた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん? どうした?」
「今日、仕事だったんじゃ? お休みになったの?」
 いつもなら、今の時間ラッセは働いていて、あの場に姿を現すことはなかったはずだ。ルナとしてはただ単にちょっと不思議に思っことを聞いただけなのだが、何故かラッセの表情が途端に暗くなった。
「悪い、ルナ。仕事……クビになったんだ」
 非常に心苦しそうにラッセはもごもごと口を動かす。
「そう……」
 そんな兄に対し、ルナは一切非難する様子も見せなかった。出来るはずもない。生活を支えるため、ラッセは一人で朝から晩まで休みなくいくつもの仕事を掛け持ちして働いていた。
 そんな彼の苦労を、妹であるルナは誰よりも側で見てきている。
「心配すんな。すぐ次探すから」
 ルナを安心させるかのようにラッセは優しい口調で言った。その強がりのような笑みに、ルナの胸が締め付けられる。
 本当なら「そんなに働かなくたって大丈夫だよ」と口にしたかった。しかし、経済状況がそれを許さない。
 ラッセがあれだけ働いても、兄妹二人が日々生活していくのにはぎりぎりだった。余裕なんて微塵もない。本来ならルナも高校など行かず働きたかったが、ラッセがそれを強く反対したのだ。自分はろくに学校も行けなかったから、せめてお前だけはと。
 その想いに報いるためルナは猛勉強した結果、特待生として学校に通っている。そのおかげで学費などいろいろな免除を受けることが出来た。
 だが、ラッセはルナを大学まで行かせる気だった。そのためにはどれだけのお金がいるのか。
「お兄ちゃん」
 ルナは前々から思っていたことを口にする。
「私、やっぱり学校辞めて働きたい。そうすればお兄ちゃんも……」
「ダメだ!」
 だがルナの言葉が終わらない内から、ラッセに遮られてしまった。
「何度も言っただろ。金のことなら心配すんな。おれが絶対にお前を大学まで行かせてやる」
 ルナの両肩を掴み、真剣な顔でラッセは説得する。そして、さらにルナにとってのトドメの言葉を発した。
「それに……前みたいにバイト先で倒れられたらみんなに迷惑が掛かるだろ? まだ、お前に働くのは無理だ。分かってるだろルナ」
「そうよね……ゴメンなさい、分かった」
 ルナには兄の言葉に頷くことしか出来なかった。自分の無力さをとことん思い知らされる。
「着替えたら、ご飯作るね」
 これ以上この場にいるのがつらく、ルナは逃げるようにして自室へと向った。


 鞄を床に置いた後、隠すようにして上から布を被せる。泣きたい気持ちを堪え、ルナは両手で顔を覆った。
 いつも思っていた。自分は兄にこんなにも助けられているのに、自分は兄に何もできていないと。己の存在が彼の大きな足かせになっている。自分さえいなければ、兄はもっと楽だったはずなのに。
 ルナは布の掛かっている鞄に視線をやった。ずっと、両手に大事に抱え、鈴木にも医者にも、そしてラッセにもけっして表側を見せることのなかった鞄。

(絶対にお兄ちゃんに知られちゃダメだ。これ以上負担は掛けられない)

 鞄の表側は鋭利な刃物で何度も切り裂かれたかのごとく、ボロボロになっていた。