自称ライバルの話

 辺りは異様な静かで、空は月明かりすらなく真っ黒。そんな夜道をテオドロ・リッツァーニは苛立ちと疲労の色を滲ませた面持ちで、帰宅の途についていた。ふと、腕時計をみやれば、時刻はすでに零時を回っている。
 会社の仕事でトラブルが起こり、その後処理にずっと追われていたのだ。なぜ、他の奴がやらかしたミスのせいで自分まで巻き込まれなければいけないのかと、テオドロは八つ当たりするようにその辺の石を蹴り飛ばした。
 会社の業績が悪化する中、社長の息子であるテオドロは率先してトラブル解消に動かなければいけない立場である。しかし、一向に終わらない作業に嫌気が差し、後のことは全部か他の社員に任せ、自身はさっさと退社してしまった。
 とはいえ、社員の方もいつものことだと思っていたし、むしろテオドロがいない方がやりやすいといった態度で、誰もテオドロを咎める素振りは見せなかった。それが、またテオドロの神経を余計にささくれさせていた。
 こういうむしゃくしゃする日は酒か女に逃避するのが一番いいのだが、あいにく明日も仕事である。
 遅刻か最悪休むという手もあったが、おそらくまだトラブルの処理に追われているだろうなかでそれをやってしまうと、父親である社長からの叱責がくるだろうし、社員からまたあの馬鹿息子がという目で見られるに決まっている。それは癪にさわるので、大人しく自宅に帰ることにしたのだが。
 テオドロにとって最悪だったのは、自宅も決して安らげる場所ではないということだった。



「あら、お帰りなさい」
 玄関のドアを開けた途端、耳に入ってきた声にテオドロは眉を顰める。テオドロを出迎えたのは、それなりに上等そうな夜間着をきた中年の女性。一応は会社から帰ってきたテオドロを労わるような笑みを浮かべていたが、どことなく白々しさを伴っていた。
「今日はもう帰ってこないような感じだったので、そろそろ寝ようと思ってたんですけどね」
「だったら、別に寝ててもよろしかったんですよ? お義母さん」
 できるだけ嫌みったらしい丁寧な口調でテオドロはそう口にし、挑発するような微笑を女性に向ける。
 だが、テオドロの当てつけにも、女性はただ鼻であしらうだけだった。
「あなたはともかく、この家の妻として主人より先に寝る訳にはいけませんでしょう? まさか、父親が会社で頑張っている中、息子が先に帰ってくるとは思いませんでしたが」
 女性はわざとらしくこの家の妻であるという部分を強調しながら、そう言い放った。言葉の端々から滲み出る己への見下し。テオドロはぐっと拳をきつく握りしめた。
 何か言い返してやりたいとは強く思うが、テオドロがこの女に口論で勝ったことは一度もない。疲れがさらに増すだけだということは、テオドロも分かりきっている。
 なので、彼に出来る反抗といえば、せいぜい目の前の女を睨みつけることぐらいだった。
「まったく、お父様もこんな不出来な息子を持って可哀想なことですこと。だから、会社の状態も良くならないのかしら」
 尚も女性は針で突くように、テオドロを言葉で攻撃する。昔からこうなのだ。何か不都合なことがあるたび、彼女はテオドロを責め立てていた。
「母さんが生きてた頃までは会社も好調だったんだぜ。業績が落ち込んだときこそ、夫を支えて共に立て直しを図るのがこの家の妻としての役目じゃないか? まっ、それが出来てないから、こんなことになってるんだろうけどな」
 テオドロの嘲笑に、一瞬だけ女性の表情が強張った。玄関が変な緊張感もった雰囲気に包まれる。重苦しい空気が、普段からこの二人が険悪な仲であることを指し示していた。

 この中年女性は世間的にはテオドロの母にあたる存在だ。ただし、テオドロとの間に血の繋がりはない。いわゆる義理の母という奴である。彼の実母は20年前に他界しており、その後父親とこの女性が再婚したのだった。
「……まあ、ここで無駄なやり取りしてもしょうがないわね。食事はどうします?」
 あくまでも表面上は優しく、しかしにやつきながら尋ねるの義母に対し、テオドロは心の底から嫌な女だと苦々しいで唇を噛む。
「どうせ、おれの分は用意してないんだろ? さっさとシャワー浴びて寝る!」
 不機嫌極まりない表情を浮かべて義母の横を通り過ぎると、ドタドタと苛立った足取りでテオドロはさっさと風呂場へと向っていった。




「あー、むかつく。いつもいつもあの女!」
 風呂場から出た後、自室に戻ったテオドロは腹立ち紛れにスーツの上着を放り投げ、ベッドへと身体を横たえた。
(後妻のくせにいい気になりやがって……)

 義母とは最初から折り合いが悪かった。実母が亡くなってそんな日が経たない内に、ずかずかと家に入りこんできた女をテオドロは受け入れられなかったし、義母の方も血のつながってない子供を可愛がる気などまったくなく、継子に対して陰湿な嫌がらせを繰り返した。テオドロ自身や実母をことあるごとに罵り、パンにガラスを入れられたこともあった。
 そのうち異母妹が生まれると、義母は娘とテオドロを露骨に差別し始めた。異母妹だけにあった誕生日パーティやプレゼント。家族旅行も大抵テオドロは一人家に置いてかれていた。ただ、これに関しては一緒に行ったところで気まずい目に会うことが目に見えていたので、テオドロ自身も付いていきたいとは微塵に思わなかったのだが。
 義母のテオドロに対する扱いに本来なら息子を庇うはずである父親は何もしてはくれず、家族の中でテオドロは常に居場所がなかった。

 陰鬱な気分と倦怠感のせいで身体が酷く重い。さっさと寝てしまおうと、テオドロはゆくりと瞼を閉じる。暫くすると眠気がじわりとやってきたが、心地よい夢の世界に誘われようとするのを、突如鳴り響いた携帯の着信音に阻止されてしまった。
「誰だよ、こんな夜中に……」
 不機嫌そうに目を擦りながら、床に落ちていた携帯電話を拾い上げる。ディスプレイ表示をろくに確認せずに電話に出てしまったことを、テオドロはすぐに後悔した。
「あーら、まだ起きてたのねテオ」
 通話口から聞こえたのはハスキートーンの女性の声。呂律が若干回っていないことから、おそらく酔っ払っているのだろう。
「ビ……ジェ、ジェシカか。何の用だよ。こんな時間に」
 危うく別の女性と間違かけ、テオドロは肝を冷やした。自他共に認める女好きである彼は二股どころか、複数の女性と同時交際している。なので、声だけですぐそれが誰かを判別するのはけっこう至難の業だ。しかも、よりにもよってジェシカと先ほど言い間違えかけたビアンカは特に声が似ていた。
「……あんたさぁ、全く忘れてたでしょ」
 一先ず、他の女性の存在を知られるという最悪の事態は間逃れたようだが、ジェシカの明らかに機嫌の悪い口調で吐かれた言葉に、まったく心あたりのないテオドロは顔を顰めた。
「え? 何をだよ?」
「あんたが今日、いやもう昨日ね。一緒にバーで飲もうって行ったんでしょうが! あたし、ずっと待ってたのよっ!」
「あっ!」
 携帯越しに聞こえる怒号に、テオドロはしまったと舌打ちした。確かにおぼろげながらそんな約束をした覚えがある。だが、会社で起こったごたごたのせいですっかり忘れてしまっていたのだ。
「わ、悪いジェシカ。今日忙しくって。今度埋め合わせをするよ。君のお気に入りの店で奢ってやるからさ。なっ、機嫌直せって……」
 テオドロは素直に謝罪したが、ジェシカは何も言ってこない。その沈黙に何故かテオドロは胸騒ぎを覚えた。
「ね〜え? テオ」
 先ほどまでとは一変し、突如ジェシカが猫なで声を出す。ますます強まる嫌な予感に、テオドロの背中から知らず知らずのうちに冷や汗が伝う。
「ど、どうした……?」
「あたしさぁ、ビアンカなんだけど……ジェシカって誰?」
「っ!!」
 ジェシカ、いやビアンカから告げられた衝撃的事実に、テオドロから一気に血の気が引く。眠気は完全に吹き飛んでしまっていた。
「い、いや、それはほら……会社の同僚だよ同僚。お前と声が似ててさー。つい間違えちゃって……」
 慌てて弁明しようとするが、取り繕うとすればするほどボロが出るだけだ。
「あんたって、本当最低ね!」
 鼓膜に突き刺さるかのような怒声をテオドロに浴びせ、それ以上の言い訳を聞くこともなく、ジェシカは一方的に電話を切っってしまった。
「ちくしょう! 何なんだよっ」
 とことんついてないとテオドロは携帯を力いっぱいベッドに叩きつけた。何もかもが上手くいかない、自分だけが理不尽な目に合っているかのような感覚に、テオドロは深いため息をつく。

 ふと、机に置かれた写真立てが目に止まった。そこに飾られていたのは女性と子供の二人の写真。
共に青みがかった黒髪に左目の下の泣きぼくろ、一目見て親子であると分かるそっくりな顔立ち。幼き日のテオドロと今は亡き彼の実母だ。
 彼の母はリッツァーニ社の繁栄に大きく貢献してきた人物で、非常に優秀な人だった。完璧主義者で向上心が強く、息子の教育に厳しかったが、その分テオドロを愛してくれた。テオドロもそんな母を誰よりも愛し、尊敬していた。
 自分の人生は母が死んだことから狂ったに違いないとテオドロは常々思っていた。全ては20年前。突如襲った悲劇が始まりだった。
 母が何者かに殺された。警察の話では金目当ての強盗の仕業だろうということだったが、犯人は未だに捕まっていない。
「何で死んだんだよ……母さん」
 よりにもよって、母の遺体を最初に発見したのは当時11歳だったテオドロ自身だった。あの時の血まみれの母の姿は今でも悪夢として甦る。そのせいで血を見るのが、すっかり苦手になってしまっていた。
 どんどん思考が後ろ向きになっていくのを、テオドロは首を振って気分を切り替えようとする。
 常に前向きであれというのも母の教えだ。明日も早いし、今度こそ寝てしまおうと目を瞑る。
 だが、なかなか眠りにつくことは出来なかった。







 会社のごたごたもようやく片付き、やっと休日を迎えたテオドロは昼近くまで眠っていた。まだ残る睡魔の誘惑を断ち切り、あくびをしながら二階から下へと降りる。
 洗面所で顔を洗った後、リビングへ入ったテオドロはダイニングテーブルの所に座っていた二人の女性の姿を見て、瞬時に眉を寄せた。
 テーブルにいたのは、一人は義母でもう一人は10代後半くらいの女性だ。義母とその女性はテオドロの姿を認めると、蔑んだような笑みをこちらに向けた。
「あら、お兄さん。いたの?」
 若い女性は当てつけがましい言葉をテオドロに向って放つ。
「休みに家にいて何が悪いんだ。お前こそ、何でここにいるんだよ、カローラ」
 コップに牛乳を注ぎながら、義母たちの方を見もせずに、テオドロはぶっきらぼうに尋ねる。何で、朝から不愉快な気分にならないといけないのかと、牛乳を冷蔵庫にしまい、乱暴に大きな音をたて扉を閉めた。
「あら、聞いてなかった? 大学が休みに入ったから暫くこっちにいることにしたの」
 カローラと呼ばれた女性が、どことなくテオドロの反応を楽しむかのごとく質問に答える。途端に、テオドロの顔が心底嫌そうに歪んだ。
 カローラはテオドロの13歳離れた異母妹である。当然、義母の実の娘だ。義母の影響を受け、彼女もまたテオドロに対してとことん見下した態度を取っていた。幸いにも今は遠くの高校に通っていて一人暮らしをしているために、あまり顔を合わさずに済むのがテオドロにとっての救いだ。
 義母一人の相手でさえ精神的にきついものがあるのに、そこに異母妹まで加わると気苦労は倍どころの話ではない。
 これから、暫くはなるだけ家にいる時間減らそうとテオドロは心に決めた。
 天敵二人がいるテーブルに座る気にはなれず、少し離れた今にあるテーブルにクロワッサンと牛乳を置き朝食を取る。たいがい、義母やカローラがいるときは、ここで一人食事を取っていた。
「ねえ、お兄さん」
 テオドロの背中越しに、カローラの癪に障る甲高い声が投げかけられる。
「何だよ」
 どうせ、ろくなことじゃないだろうとは推測できたが、カローラが次に口にした言葉はやっぱりろくでもないことだった。
「もういい年なんだからそろそろ一人暮らしとか始めたらどうかしら。お兄さんが出ていてくれたら、家も大分広く使えると思うの」
 自分一人の存在で圧迫されるほどこの家狭くないだろという突っ込みが喉から出かかったが、クロワッサンと共にかろうじて飲み込んだ。そんな反論したところで、返ってくるのは嘲笑でしかない。
 こうやって義母及びカローラがテオドロをこの家から追い出そうとすることは、今までも度々あった。今更、反応するだけ無駄な事だ。
「父さんが新しい愛人でも連れてきてお前らを捨てたなら、そんときは出ていってやるよ」
 喉奥を鳴らしながら、精一杯の揶揄を二人にぶつけた。なまじテオドロに似て、女好きである父親だ。まったくあり得ない話ではないため、義母と異母妹を黙らせるのになかなかの効果を発揮してくれた。
 こんな居心地の悪い家に見切りをつけしまった方が、精神的にずっと楽だということぐらいテオドロも承知している。しかし、一旦出て行ってしまえば、完全に家族の中から閉め出されるような気がして、どうしてもそれを実行することが出来なかった。
 リッツァーニ家を支えてきたのは自分の母なのだ。それを後から来た奴らに乗っ取られてたまるか。この家の主になるべきは自分なのだと、そんな意地だけがテオドロがここに居続ける理由となっていた。



「一人ムカつく女がいてさー」
テオドロへの嫌がらせに興味をなくしたカローラと義母は、もっぱらカローラの高校での生活話を楽しんでいた。
「そいつめちゃ貧乏で服とかめちゃ安物なの。なのに、特待生らしくって学費払わずに学校に通ってるのよ」
「あら、そうなの。せっかく、伝統のある格式高い学校に入れたというのに、いくら成績がいいからってそういう子を入れるのはちょっとねえ……」
「でしょー。さらにむかつくことに、先生とかそいつばっか贔屓するのよ。きっと、あいつ裏で色目使ってるに違いないんだから」
 今の話の中心は嫌いな同級生の話らしい。いろいろと理由をつけていたが、彼女がその同級生を嫌っている理由は、高校のミスコンで優勝したほどの美人であるという一点のみだろうとテオドロは推測した。
 義母の方は父親が愛人の中でもっとも綺麗で若い女を後妻に選んだこともあり、容姿は整っていたのだが、残念ながらその娘は母には似なかった。
 目つきが悪く、小さな眼。そばかすだらけの顔。父親の特徴の大部分を受け継いだカローラはお世辞にも器量がいいとは言えなかった。
 前妻の生き写しであるテオドロと違って、父親は自分に似ていたからこそ兄よりも妹をより可愛がっているという面もあったが、基本的にカローラは自分の容姿にコンプレックスを持っていた。
 なので、彼女は同級生やルックスだけはいいテオドロなどの、顔がいい人種に対して並々ならぬ並々敵意を抱くのだった。
 延々とカローラはムカつく同級生の愚痴を母親に延々と溢していたが、興味も沸かなかったのでテオドロはほとんど聞き流していた。
 ひとしきり悪口を言って満足したのか、話の話題が好きな芸能人へと切り替わる。そんな母娘のくだらない会話をスルーして、朝食を食べ終わったテオドロは食器をキッチンへと持っていく。
 流し台にコップを置こうとした時、カローラから口に出された名にテオドロは危うく手を滑らせるところだった。
「あっ、サルヴァトーレさんが雑誌に載ってる」
 カローラが指差したのは、ファッション雑誌に掲載されていた長い金髪の端正な容姿の男性姿。
「やっぱ、カッコいいなあ! モデルもやってるのに、大きな会社の社長でもあるんでしょ?」
「そうね。お父様もよくお世話になってるわ」
「凄いなー。いつも思ってるんだけど、お父さん紹介してくれないかな。こんな人彼氏にできたら素敵――」
「凄くなんかない!」
 カローラの言葉を怒声が遮り、同時にテーブルの上のティーカップがガシャンと揺れる。テーブルに両手を付き、上半身をのけぞるかの勢いでテオドロは女性二人に凄みを利かせた。
(しまった。この人にこの名前は禁句だった)
 テオドロのあまりの剣幕に、カローラは若干引きながら後悔する。どういうわけか、この義母兄は昔からサルヴァトーレという男に並々ならぬライバル心を持っていて、その名が出るたびに過剰な反応を見せる。
 サルヴァトーレ関連で一端熱くなったら最後、カローラ及び義母ですら太刀打ちできないほどの勢いだった。
「あいつはなー、卑怯で邪悪でとことん鼻につく男なんだよ」
 誰も聞いてないのに、テオドロは勝手にサルヴァトーレについて語り始める。その迫力に押され、義母もカローラもまったく口を挟めない。
「いくらうちを超える会社の社長で、仕事も出来て、頭の良く運動も出来ても、まるで人形のように整った顔立ちをしていても、あいつは最低最悪な人間なんだ。誰もがサルヴァトーレを賞賛したとしても、おれは絶対に認めないからな!!」
 貶したいのか褒めたいのか。ワンブレスで一方的に捲くし立てると、テオドロは雑誌を持ってリビングから去ってしまった。
 残された義母とカローラは呆気にとられた表情を浮かべる。
「知らないわよそんなこと……。てか、私の本どこ持ってくの」
 カローラが呆れたように呟く。こればっかりは彼女の方が正論だった。


 自室に戻ったテオドロは無意識に持ってきてしまった雑誌を、力いっぱい床に叩きつける。
「あー、もう、休日なのにこんなにむしゃくしゃしなきゃならないんだ。それもこれも全部お前のせいだサルヴァトーレ!」
 何故か彼のなかではサルヴァトーレが全て悪いことになっていたらしい。部屋中に虚しい罵倒が響き渡った。
 サルヴァトーレ・バルディーニという男は、テオドロにとってとてもなく深い因縁の相手だ。ただし、あくまでテオドロにとってであり、向こうはまったくテオドロのことなど鼻に掛けていなかった。
 テオドロがここまでサルヴァトーレを意識するきっかけとなった出来事は彼が5歳の時まで遡る。
 あれは子供だったテオドロが母に連れられ、いわゆるセレブ達のパーティに参加した時のことだった。





「ちゃんとお行儀よくしてなきゃだめよテオ」
 幼い息子の手を握り、若き日の母アメリアが声を掛ける。テオドロは母の言葉にこくりと頷いた。
 母の知り合いらしき何人かが挨拶しにきたものの、アメリアはおなざりな返事を返すだけで、とくに興味ないようだった。どうやら、彼女は他の誰かを探しているらしい。
 やがて、目的の人物を見つけたのか、アメリアはテオを連れてさっそうと歩き出した。そのスピードがあまりに速かったため、テオドロはあやうく引きずられそうになっていた。
「どこ行くの?」
 必死で母親に付いていきながら、テオドロが問いかける。
「お母さんの昔からの知り合いよ。遠い親戚なの」
 アメリアは返事をかえしたものの、視線は息子ではなく前の方に注がれていた。
「ふーん……」
「あ、いたわ。あそこにいる人よ」
 アメリアが一人の人物を指差す。その先にいたのは、長い金髪で白いドレスをきた女性だった。
「久しぶりね。シルヴィア」
 アメリアが声をかけると、女性がゆっくりと振り向く。
「あら、アメリア。本当に久しぶりね。私の結婚式以来かしら」
 シルヴィアと呼ばれた女性は優雅に微笑みながら、アメリア達の元へと歩み寄よる。その気品溢れる立ち振る舞いは、まさに彼女が上流階級の出であることを指し示していた。
「そうね。そういえば、結婚といえばあなたの夫は今日いないの?」
 アメリアの問いにはどことなく皮肉るような響きがあった。途端に少しだけシルヴィアの表情が曇る。
「彼はこういう所苦手なのよ」
「いずれはバルディーニ一族を担うのに、人脈を築けるチャンスの場に来ないなんてあまりにも無責任じゃないの? だから、言ったでしょ。あんな男と結婚するもんじゃないって」
 きつい口調でアメリアは責め立てた。しかし、その対象はシルヴィア本人というよりも、どちらかといえばその夫に向けられているようだった。
「しょうがないわ。環境の変化にまだ慣れないのよ」
 どことなく寂しそうな目でシルヴィアは夫を庇う。しかし、アメリアは容赦がなかった。
「もう、五年も経つのに? 庶民出はやっぱりダメね」
「……その話はまた今度にしましょう。そういえば、気になっていたんだけど。あなたの隣にいるのは息子さんよね。顔がそっくり」
 強引に話を逸らすかのように、シルヴィアは腰を曲げてテオドロと目を合わせる。
「ええ、そうよ。息子のテオドロ。テオ、挨拶しなさい」
 アメリアが息子をシルヴィアに紹介すると、テオドロは緊張した面持ちで母親の服の裾をぎゅっと握った。
「こんにちは、テオ。シルヴィア・バルディーニよ」
「こ、こんにちは……」
 シルヴィアにじっと見つめられ、テオドロはしどろもどろになりながら軽く会釈する。
 だが、その後すぐ母親の後ろに隠れてしまった。
「あら、恥ずかしがり屋なのかしら?」
「変ね。人懐っこい子なんだけど。どうしたのテオ?」
 息子の背中に手を添えて前に出そうとするが、テオドロは頑として拒む。
 シルヴィアは素晴らしい美貌を供えていたが、逆にその完璧とも言える美しさがぬくもりのまったくない人形のようで人間身を一切感じない。
 そんなシルヴィアに対し、テオドロは本能的に恐怖を抱いていた。
「無理に話そうとさせなくていいわ。きっと緊張しちゃったのね。そうだ、私も子供を連れてきてるの。ちょっと待ってて」
 シルヴィアが誰かを手招きで呼ぶ。すると、テオドロと同じぐらいの子供がシルヴィアの方へとやってきた。金髪で青い目。その顔はシルヴィアとまったく瓜二つでとても美しかった。
(可愛い……)
 テオドロは思わず見惚れ、その子供に熱い視線を送る。
「息子のサルヴァトーレよ」
(あっ、男の子か……)
 シルヴィアの言葉に自分の勘違いに気付いたテオドロはちょっとがっくりとした。
「あなたにそっくりで可愛い子ね。嫌になるぐらい」
 一応はアメリアのサルヴァトーレは褒めたが、どことなくその態度は刺々しい。しかし、シルヴィアはとくに気にせず、穏やかな微笑を浮かべているだけだった。
「テオもあなたにそっくりよ。きっと将来はいい男になるわね」
 母親二人がずっと会話している最中、サルヴァトーレがそっとテオドロに近づいてきた。
「こんにちは」
 そっけないが、可憐な声でサルヴァトーレが声を掛ける。
「こんにちは……」
 男の子だと分かっているのに、何故か照れてしまい下を向きながら、テオドロは返事を返す。
 これが二人の始めての出会いだった。



 パーティの会場から出たテオドロは母を見上げて、ふと尋ねた。
「ママはずっとシルヴィアさんと話してたけど、お友達だったの?」
 すると、その言葉を聞いた途端に、アメリアがテオドロをぎろりと睨んだ。
「絶対に違う!」
「マ。ママ……?」
 見たことのない母親の剣幕に、テオドロは驚きで目をぱちくりさせる。怯える息子の両肩に手を置き、アメリアは腰を屈めて視線を合わせた。
「いーい、テオ。あの女はね。金持ちで頭もルックスもよくて、何でも完璧にこなせるけど、魔性の女なんだからねっ。見た目に騙されちゃだめよ!」
 テオドロに言い聞かせるように、アメリアは力説して見せた。テオドロはどう反応してよいやら分からず、ただおろおろする。
「どんなに私が努力しても、あっさりそれを追い抜いていく死ぬほど嫌味な女なのよ、シルヴィアは!」
 母のシルヴィアへのマシンガントークは一向に衰える様子を見せない。何をしてもアメリアはシルヴィアに一度も勝ったことはないらしく、唯一彼女より優れていたのは夫の経済力ぐらいなものだったらしい。シルヴィアならどんな相手でも選べたのに、なぜあんな冴えない一般市民の男を選んだか分からないともアメリアは語った。
「きっと、あの女の息子も母親そっくりに育つんでしょうね。いい、テオ。あなたはサルヴァトーレに絶対負けるんじゃないわよ。分かった!」
「う、うん」
 テオドロの身体を前後に揺さぶりながら、アメリアが強く迫る。その迫力にテオドロも頷く以外できなかった。




 サルヴァトーレに負けるな。それがアメリアの口癖だった。シルヴィアの息子に負けないように、己の息子を育てる。その並々ならぬ情熱のもと、アメリアは息子を厳しく躾け、その意思はテオドロの中に深く染みこまれていった。
 アメリア亡き後も、サルヴァトーレへの対抗心はテオドロの中で消えることはなかった。むしろ、不遇な家庭環境の中、「サルヴァトーレに勝つ」という目標がいつのまにやら彼のアイデンティティを確立させることとなっていた。
 サルヴァトーレという存在自体がテオドロの生きる意味となっていたのだが、本人がそれに気づくことは恐らく一生ないだろう。
 どうやったら、サルヴァトーレを凌駕することになるのかも、テオドロ自身がイマイチ分かっていなかった。