教祖様改め社長の1日

※何でも屋と猟奇殺人鬼と教祖様より前の話



「もう少し笑顔でいてくれた方が、おれも嬉しいんだけどね」
 ガラス張りのオフィスビルの最上階。広い社長室の革張りのソファに腰掛け、優雅な手つきで紅茶を口にしながら、サルヴァトーレ・バルディーニはその端正な顔をさらに引き立てる笑みを浮かべた。
 絶世の美男子と常日頃から持てはやされる容姿に、大企業の若社長という確固たる社会的地位。すべてを兼ね備えたような男に微笑みかけられれば、大抵の女性は多少なりとも心動かされるものである。
 しかし、低いテーブルを挟んで反対側に座っている茶髪でミディアムヘアーの若い女性は、まるでこの世で一番汚いものを見るような視線をサルヴァトーレに向けていた。
「私も出来ればそうしたいわ。相手があなたでなければね」
 サルヴァトーレの隣にいた金髪の女性秘書が「どうぞ」と茶髪の女性の前にコーヒーを差し出しだす。だが、彼女はそれに手をつけず、サルヴァトーレへの警戒心を解こうともしなかった。
「やれやれ、君はいつ会ってもつれないね。ビジネス相手である前に、かつての同級生でもあるんだからそんな態度を取られると少し悲しいな。ねえ、ユリア?」
 わざとらしいほどのもの悲しげな声と表情でサルヴァトーレが訴えかけてみても、ユリアと呼ばれた女性はますます彼への不快感を強める素振りを見せただけだった。
「あなたに名前で呼ばれる筋合いはないわ」
 ユリアの強い拒絶に、サルヴァトーレはやれやれといった具合に肩を竦める。
「これは失礼。ハーゼスさん」
 どこまでも人の神経を逆撫でするサルヴァトーレの物言いに、ユリアはぐっと奥歯を噛む。こんな男だとは初めから分かっていたが、目の前で不敵に笑う男を今すぐぶん殴りたい要求を抑え込むにはなかなかの忍耐を必要とした。

 ユリア・ハーゼスとサルヴァトーレ・バルディーニは中学時代の同級生だ。当時からサルヴァトーレは皆の注目の的であった。運動も勉強も優秀で家柄・外見ともに申し分ないとくれば、ある意味でそれは当然のことだろう。けれども、ユリアから見れば、サルヴァトーレは自身の長所を存分に発揮して、誰もが騙される仮面を被っていたに過ぎない。皆に好かれる人気者の恐ろしい本性を彼女は当時から知っていた。

「余計な話はいいから、さっさと書類に目を通してサインしてちょうだい」
 ユリアはカバンから商談に関する書類を取り出すと、テーブルの上に置いてサルヴァトーレに差し出す。相変わらずユリアをイラつかせる微笑を浮かながら、サルヴァトーレは書類を手に取った。
「君がおれを快く想ってないのは十分知っているつもりだけど、もういい大人なんだからそれを商談ごとに持ち込むのはどうかと思うね。君の所とうちはそれぞれが大事な取引相手だ。くだらない私情でその関係を壊かねない真似をするのは、ビジネスに携わるものとして実に愚かなことだとは思わないか?」
 書類に目を通しながらも、サルヴァトーレはユリアに軽くいれる。心底憎らしい男に、ユリアはきつく拳を握った。
「だから、いつもは別の人間を来させてあげてるでしょ。お互いのために」
 腹の底からふつふつと怒りを沸きあがる。精一杯の嫌味をいうことでしか、それを押さえつけることが出来なかった。

 ユリアとてビジネスでなければ、絶対にサルヴァトーレと顔を合わせたくはない。だから、いつもは別の人間にこの男の相手をさせているのだが、今日はどうしても外せない別の用事があり、ユリアが行かざるを得なかったのだ。
人間としては死んでも関わり合いになりたくないが、サルヴァトーレは本人が述べていた通り、会社にとっては重要な取引相手の一人である。
 それを邪険にすることによる被害がユリア一人だけに降りかかるのなら別に構わないのだが、実際に一番迷惑が掛かるのはユリア本人よりも、会社の仲間たちと経営者である両親なのだ。
 なので、ビジネス上ではサルヴァトーレとの関係を切るわけにはいかなかった。
 せめて親の会社に従事していなければこんな事にはならなかったと、ユリアはつくづく思う。経営者の娘として会社の者に気を使わせるのは嫌だったので、できれば親とは関係ないところで働きたかった。だが、彼女の両親は子供の意思を尊重しつつも、できることなら子供に跡を継いで欲しいなあという願いを隠そうともせずにちらちらと態度に出してくるので、どうにもその思いを無下にすることがユリアには出来なかったのだ。
 ユリアとしては自分よりも弟や妹の方が経営者には向いていると考えているのだが、彼らは親の期待などどこ吹く風でそれぞれ好きな職についてしまった。別に弟妹がどこで働こうと彼らの自由なのだから、ユリアも別に文句を言う気はない。ただし、彼らがそこで働くことに決めた理由については盛大に口を出したかった。揃いも揃って、好きな女及び男のためとはどういうことかと。
 どちらかといえば真面目な性格のユリアと違い、弟や妹やかなり自由奔放な性格である。その結果、いつもあらゆる事のしわ寄せをくるのがユリアだった。

「何か考えごとをしている所すまないんだけど。サインし終わったんで、確認してもらえないかな?」
 一番上の子供はいつも損をすると、いつの間にかユリアの不満の対象が自身の弟妹に移りかけていたが、そもそもの愚痴の原因である男に声を掛けられ、ユリアは我に返った。
 サルヴァトーレから書類を受け取り、最終確認を行う。商談自体は何も問題なし。これで仕事は完了だ。
「問題ないわ。これで契約成立ね。今度とも我が会社とよりよい付き合いをしていきましょう。バルディーニ社長」
 丁寧に出来るだけ嫌みったらしい口調で、ユリアはわざと大げさに頭を下げた。くだらない幼稚な敵対心に、サルヴァトーレはフッと笑った。
「一つ質問いいかな?」
「何か問題でも?」
 帰る準備をしているユリアに対し、サルヴァトーレが声を掛ける。早々にここから立ち去りたいユリアは、心底鬱陶しそうな態度を隠そうともせずに聞き返した。
「今更なことだし、答えてもらえるとも思えないんだけどさ」
「言いたいことがあるなら早くして」
 もったいぶった言い方をするサルヴァトーレにユリアはカリカリした口調で先を促す。この男のくだらない戯言に付き合う気など微塵もない。巧みな話術で、人を己の術中にはめるのがこの男の得意技だ。それを知っているユリアはその手には乗るまいと改めて気を引き締めた。
「なら、聞こうか。何故、君はおれの事がそんなに嫌いなのかな?」
「はっ……?」
予期しなかった言葉に、ユリアは思わず目を丸くする。本当に今更でかつ馬鹿らしい質問だ。
「学生時代に何かあったことはおれも分かるんだけど、君に何かした記憶はないんだけど」
「……っ!」
 あっさりと言い放ったサルヴァトーレに、よくもそんなことをと怒鳴りだしそうになるのをユリアは何とか堪える。鉄をどろどろに溶かした憎悪がはらわたを焼くような感覚を覚え、両肩を震わせた。
「そうね……。私自身は何もされてないわ。でも、あなたがイレーヌにしたことは絶対に忘れないわよ」
「イレーヌ? 誰だったかなそれは」
 激情のまま、ユリアは悲痛さを伴った声で叫ぶ。しかし、サルヴァトーレは告げられた名に心当たりがないといった様子で首を傾げた。
 その態度にますますユリアの頭に血が上る。
「あなたが弄んだ上に自殺に追い込んだ子の名前よ。覚えてないとは言わさない」
 歯軋りすら聞こえてきそうな形相で、ユリアはサルヴァトーレを糾弾した。だが、その恐ろしいほどの剣幕にサルヴァトーレは少しも怯む様子を見せない。それどころか、すこし考え込んだ後、涼しい顔で「ああ」という声を上げた。
「そういえばそんなこともあったね。今思い出した」
 同級生の自殺というショッキングな出来事にも関わらず、サルヴァトーレは本当に今の今まで忘れていたようだった。この男にとっては、そんな事実など小さな虫を踏みつぶしたぐらいのことと同じぐらいどうでもいいことなのだろう。
 しかし、ユリアにとってイレーヌはかけがえのない親友だった。病気療養のため、慣れない田舎町で暮らすユリアをいろいろと支えてくれた心優しい娘だったのに。
 彼女はサルヴァトーレが好きだった。なのに、目の前の悪魔はその気持ちを利用したあげく、死に追いやったのだ。その時にユリアは決意した。絶対にこの男を許さない、いつの日にか報いを受けさせると。
「けど、おれのせいと言われるのは心外だな。おれは彼女のことを良くは知らないし、直接何かしたり言ったりした覚えはないよ」
 しかし、サルヴァトーレはユリアの想いを嘲笑うかのようにいけしゃあしゃあと白々しく言ってのける。ここまで性根が腐っていると、怒りを通り越してもはや笑うことしかできない。
「そりゃそうでしょうよ。あなたは絶対に自分の手を汚すようなことをする人間じゃないもの。汚いことは他人にやらせて、いらなくなったらあっさりと捨てる。いつもそうしてきたんですものね。優秀な手駒には事欠かなくて羨ましいわ。例えばそちらの秘書さんのように」
 早口で捲くし立てながら、ユリアはサルヴァトーレの秘書にちらりと見やった。だが、ユリアの揶揄にもサルヴァトーレはいつもの微笑で「確かに彼女は優秀だよ。とても助かってる」とジョークで切り返し、余裕をまったく崩さなかった。だが、次のユリアの言葉に一瞬サルヴァトーレから笑みが消えた。
「そう。あの赤毛の奴の代わりが彼女ってことなのかしらね」
「赤毛……誰のことだ?」
 いつもより若干低い声でサルヴァトーレが問う。その瞳にはどことなく薄暗い黒い光を伴っていたが、幸か不幸かユリアが気づくことはなかった。
「あら、それも覚えてないの? あなたの後ろにいつもくっついてた小さな赤毛の男の子よ。可愛そうに。親の農場の取引先があなたの会社だったから、いつもあなたの言いなりでまるで奴隷みたいだったじゃない」
 先ほどまでとは違い、ユリアの話に対し、サルヴァトーレから何かを言うことはなかった。その代わりにサルヴァトーレは自身の前髪を仕草を見せる。
「そういえば、彼今どうしてるのかしら? 使えなくなってんで始末しちゃった?」
「さあね。彼とはもう10年ぐらい会ってないから、おれも知らないよ」
 ユリアの当てつけに、サルヴァトーレはそっけなく返す。あのあまりにも投げやりな態度は、裏を返せばそれ以上その事について話すことはない彼なりの意思表示であった。




「放って置いてよろしいのですか?」
 ユリアが社長室から出て行った後、秘書であるイリス・クレスターニがサルヴァトーレの背後に近づき、そっと耳打ちする。
 その言葉が何を指しているのか、サルヴァトーレには聞かずとも分かった。ユリアと接していた時とは違う種類の邪がまじった薄笑いを浮かべ、ソファに座ったまま顔だけイリスの方に向けた。
「ハーゼスの一族は大きさも人間も敵に回すと非常にやっかいだよ。余計な手出しをするのは得策とは思えないな。それにユリアは言うほど、おれたちのことを知ってるわけじゃない」
 表向きは社長・裏ではカルト教団の教祖。サルヴァトーレ・バルディーニはユリアが考えている以上に邪悪で恐ろしい人間だった。自分の邪魔となる者がいれば、秘書であり教団のナンバー2であるイリスを初めとした信者達が、その人間ごとこの世から跡形もなく消し去ってしまう。
 その点ではユリアの言ったことも間違ってはないなと、サルヴァトーレは苦笑いを浮かべた。
「だからまあ、彼女が余計な事に首を突っ込むまでは傍観しといた方がいい」
 サルヴァトーレの言にイリスはかしこまりましたと頭を下げる。
「イリス。次の予定はどうなってる?」
 ユリアの件は一先ず終わりとなり、サルヴァトーレは今日の今後についてイリスに尋ねた。
 社長である身の彼は常に多忙だ。いつもかなり予定が立て込んでいるため、スケジュールはイリスに一任している。イリスは手帳を取り出し、次の仕事を確認した。だが、何故か手帳を見た途端にイリスの顔はどことなく嫌そうに歪んだ。
「次はあそこです社長。リッツァーニ社となります」
 うんざりしたようにイリスがサルヴァトーレに伝えると、それを聞いたサルヴァトーレの方も右手で額を押さえ、首を後ろへ傾ける。
「あー、あそこか……」
 行く前からどことなくけだるそうなサルヴァトーレに、秘書も同調するように重苦しい息を吐き出した。








「では、今日のところはこれで。詳しい話はまた今度にしましょう」
「そうですね。また、後日伺います」
 あれだけ嫌そうにしていたにも関わらず、リッツァーニ社の社長との話し合いは何のトラブルもなくスムーズに終わった。
「今後ともよろしくお願いします。バルディーニさん」
 帰ろうとしているサルヴァトーレに、社長が猫なで声を出してこびるように握手を求めた。向こうの方がサルヴァトーレの親と同じぐらい年上にも関わらず、へつらうような態度を取る様は、尊大なサルヴァトーレの態度も相まってまるで従者のようだ。
 まあ、社長がサルヴァトーレに下手に出るのも無理もない。リッツァーニ社はそれなりに大きく伝統ある企業ではあったが、栄華を極めていたのは20年前までの話であって、業績は年々悪化の一途を辿っていた。
 会社の存続すら危ぶまれる中、重要なビジネス相手であるサルヴァトーレの機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。
 それが分かっているサルヴァトーレはにっこりと人好きの笑みを浮かべ、「こちらこそ」と社長と握手を交わした。




 もしかしたらこのまま何事もなく、ここを出ることが出来るかもしれない。リッツァーニ社の社長室を出たサルヴァトーレとイリスは淡い期待を抱く。しかし、そんな二人の微かな望みは突如通路に響いた男の大声によって、木っ端微塵に砕かれた。
「サルヴァトーレ!」
 声の主は派手なストライプスーツを着た、サルヴァトーレと同じぐらい年の長身で細身の青年。青みがかった黒髪に左目尻の下にある泣きぼくろが特徴的な端正な顔立ちをした青年は、サルヴァトーレの姿を認めると嬉々としながら、偉そうな大股歩きで歩み寄ってくる。
 そんな青年に対し、サルヴァトーレは深いため息をつき、イリスは眉間に深い皺を寄せていた。
「やあ、テオドロ」
 一応はサルヴァトーレも返事を返す。しかし、その表情からは、出来ることなら関わりたくない思いをひしひしと伝えていた。
 しかし、テオドロと呼ばれた男はそんなものを察してくれるような利口な男ではない。だからこそ、サルヴァトーレも彼に対し心底辟易しているのだ。
「うちのとこにわざわざ偵察にでも来たのか? ごくろうなことだな」
 案の定、テオドロは挑発的な笑みを浮かべ、まるで見当違いな言葉を投げかける。
「君の父親と仕事の話をしにきただけだよ。でも、それももう終わったし、これで失礼するね」
 この男を相手にしたところで時間を浪費するだけだと分かっていたので、テオドロに背を向け、さっさとその場を立ち去ろうとする素振りを見せる。しかし、テオドロが慌てたようにサルヴァトーレの肩を掴み、帰ろうとするのを阻止した。
「ちょっ、待て。帰るんじゃない!」
「おれは君と違って忙しいんだよ。まだ予定もあるし、ここで時間を潰すのはもったいないだろ」
「人が暇みたいに言うな。おれにだって仕事はあるっ」
「だったら早く仕事に戻ったほうがいいんじゃないか? 君の会社、あまり経営状態よくないようだし」
「余計なお世話だ。ライバルであるお前の動向をチェックするのも仕事の一つだからなっ」
「ライバルね……」
 サルヴァトーレは小ばかにしたように鼻で笑う。軽くあしらわれたことに目ざとく気づいたテオドロは、ますますムキになって「馬鹿にするな!」と叫ぶ。
 まるで子供の癇癪を見ているような気分になり、サルヴァトーレは呆れたような視線を向けた。

 テオドロ・リッツァーニはその姓からも分かるようにリッツァーニ社の社長の御曹司だ。サルヴァトーレとは昔から面識がある人物でもある。
 どういうわけか、昔からテオドロはサルヴァトーレに対して並々ならぬ対抗心を抱いていて、顔を合わす度につかかっていた。
 とはいえ、サルヴァトーレの方はというと、まったくといっていいほど相手にしていなかったのだが。

「だいたい、お前は生意気なんだよ。おれの方が歳は上だぞ。礼儀ってものをお前の偉そうな鼻っ面へし折って教えてやろうか」
「すいません先輩。尊敬できるに値する人間には敬意は払うようにはしてるんですが。まあ、礼儀に関してはまず君が身に着けるべきだと想うけどね」
「お前、本当ムカつく。ちくしょう、見てろよ。いつか絶対お前を打ち負かしてやるな。覚悟しろサルヴァトーレ!」
 サルヴァトーレを指差し、無駄に自信満々な声でテオドロは高らかに宣言する。今まで何十回と聞いた台詞だが、それが果たされたことは今の今まで一度たりともなかった。
「うん、分かった。頑張ってくれ。一応、応援はするよ。多分無理だろうけど」
「なっ! そんなことやってみないと分からないだろ」
「だって、君。過去に色んな勝負を仕掛けてきたけど、結局全部負けてきたじゃないか。ああ、そういえばおれに対抗して空手始めた時期もあったけど、自分より年下の子に負けて三日で辞めたこともあったっけ」
「うっ、煩いな! 過去のことを持ち出すんじゃない。あれはただ向いてなかったんだ!」
 痛い事実をつかれ、分かりやすくうろたえながらもテオドロはもごもごと言い訳を口にする。
 まさに情けない男の見本であるような姿に、サルヴァトーレはおろかイリスも蔑んだような視線を投げた。
 一般的に見てテオドロはいわゆるダメ人間と呼ばれてもおかしくない人種である。運動音痴かつ非力で、頭もそこまでいいわけではない。だが、それよりも一番ダメなところは、努力嫌いで嫌なことがあるとすぐ投げ出してしまうその性格であった。加えて、極度の女たらしであり、女性関連のトラブルもしょっちゅう起こしているという有様だ。
 当然、仕事が出来る人間であるはずがなく、この会社にいられるのも社長の息子であるからである。
 そんなテオドロに、「リッツァーニ家の馬鹿息子」と陰口を叩く者も少なくなかった。
 だが、何故かテオドロはサルヴァトーレを負かすという目標に関してだけは、異常な情熱を燃やして決して諦めない。サルヴァトーレはテオドロのそんな所を心の底から鬱陶しがっていた。

「いい加減にしてもらえませんか。この後の予定が詰まってるんです」
 ずっと、テオドロとサルヴァトーレの会話を静聴していたイリスだったが、とうとう耐えかねたらしく二人の間に割って入った。
「何だよ。関係ない奴が口に出すな」
 突如、現れた邪魔者にテオドロはムッとした表情を見せ、イリスに食ってかかる。
 しかし、イリスは怯みもせずに氷よりも冷たい視線をテオドロに向けただけだった。
「私は社長の秘書でありますので無関係ではありませんよ。むしろ、あなたが邪魔者でしょう?」
「なっ」
 とげとげしいイリスの言葉にテオドロは思わず絶句する。
「いい加減、社長に無駄な無駄なライバル心燃やすのは止めてください。あなたが社長に勝ってるところなんて一つもないんですから。他のことへ力を注いだ方が人生の無駄になりませんよ」
「し、失礼なこと言うな。おれにだってサルヴァトーレに勝ってるとこぐらいあるぞ」
 イリスの一切容赦がない責めに狼狽しつつも、テオドロがなんとか反論を試みる。だが、「例えば?」とイリスに冷たく切り返され、テオドロをううっと唸り、黙り込んでしまった。
「例えば……身長とか…」
 散々悩んだ挙句、テオドロはか細い声でぼそっと呟く。
「そうですか。良かったですね。それだけは勝っていて」
「何でお前にそこまで言われなくちゃならないんだ。こんちくしょー! サルヴァトーレの腰ぎんちゃくのくせにっ」
 とことん見下したようにイリスは冷笑を浮かべた。完全に馬鹿にされている様にテオドロはどことなく涙目になっているテオドロが叫んだ。
「あんまり虐めてやるな、イリス。真実は時として何よりも人を傷つけるものだよ」
 さらにサルヴァトーレがそれはもう綺麗な笑みで爽やかに止めを刺す。
「卑怯だぞサルヴァトーレ。おれ達の戦いに秘書を巻き込むなんて」
「巻き込んでないし、そもそも君と戦っていた覚えもないけどね」
「黙れっ。大体お前はいつもそうだ。昔から自分は王様のようにふんぞり返って、嫌なことは他人を家来のように使ってやらせる。お前はそんな奴だった」
 二人から言いたい放題されているテオドロは駄々っ子のように喚き散らしていた。しかし、サルヴァトーレは彼の暴言自体よりも、ユリアの口から聞いたのと似たような内容であることにほんの少しの不快感を顔に滲ませる。
「ああ、そーいや昔。本当にお前の奴隷みたいな奴がいたよなぁ? あいつ、名前なんていったけ。ほら、あの赤毛の……」
 またしてもユリアと同じくテオドロの口から出された人物に、サルヴァトーレの眼光が鋭くなる。
 だが、テオドロの話は、彼を呼ぶ怒号の声に遮られた。
「お前、何やってるんだこんなところで!」
 テオドロの父親でありリッツァーニ社の社長が、怒ったようにテオドロたちに近づいてくる。
「お前、またバルディーニさんに迷惑掛けてないだろうな」
「煩いな。あんたには関係ないだろ」
 父親に咎められ、テオドロはふてくされたようにそっぽを向く。
「また、お前はそういう……だいたい何でまだ会社にいるんだ。三時から外で取引先と会う予定だろ」
「えッ……?」
 父親の言葉に、テオドロはきょとんとする。そして、弾かれたように自身の時計に目をやった。時計は無情にも3時半を差していた。
「あー! 忘れてた!」
 テオドロを両手で頭を押さえ、顔を真っ青にして絶叫した。父親はそんな息子の姿に頭痛を覚え、こめかみを指で押させる。
「馬鹿者。早く行って来い!」
「ちくしょう。覚えてろよサルヴァトーレ!」
 何故か、サルヴァトーレに敗れ去った悪役のような捨て台詞を残し、台風のような騒々しさでテオドロはその場から姿を消しさった。

「すいません。うちの息子が迷惑をおかけしまして」
 息子の非礼を詫びるように、社長が頭を下げる。
「いや、構いませんよ。いつものことですし」
 これでやっと帰れるしねという言葉は出さずに、サルヴァトーレは穏やかな笑みを社長に向けた。




「やれやれ無駄な時間をくったもんだ」
 ようやくリッツァーニ社から出ることが出来たサルヴァトーレは、背伸びをしながら呟く。
「何で彼はろくな実力もないのに社長に向ってくるのでしょうか? 愚かとしか思えません」
 隣を歩くイリスが、尚もテオドロに手厳しい言葉を吐いた。
「さあ、何でだろうな。昔からああなんだよ」
 サルヴァトーレもテオドロの己への執着の理由は知らない。しいていうなら、元々は彼の母親がサルヴァトーレの母親をライバル視していたのが、それが息子にも移ったのだろう。
 テオドロの母親は20年ぐらい前に亡くなっていたはずだが、確か息子と瓜二つだったはずだな、サルヴァトーレはおぼろげな記憶を辿った。
「もういっそ消してしまいせんか? 彼がいなくなったところでリッツァーニ社も困らないでしょうし」
「今日はやけに思考が物騒だね、イリス」
 先ほどの態度もそうなのだが、どうもこの秘書はテオドロに対し、とても辛辣だ。
「放っておきなよ。時間と労力の無駄にしかならないし」
 だが、イリスの言葉を否定しないあたり、サルヴァトーレも似たようなものだった。







 ようやく一日の仕事が終わり、イリスが運転する車で本社へと向う。すっかり日も暮れ、助手席のサルヴァトーレはやや疲労の色を濃くした面持ちで、窓越しに流れる街頭の光をぼんやりと眺めていた。これ以上の業務量など別段珍しくはない。ただ、今日は肉体的というより、精神的に疲れがどっと来たのだ。原因は何となくサルヴァトーレも察していたのだが、敢えてそれについて考えることを避けていた。
「社長」
 ずっと、無言でハンドルを握っていたイリスが、ふとサルヴァトーレに声をかける。
「何だい?」
 顔は依然として窓を向いたまま、サルヴァトーレが返事をした。何故か若干躊躇した様子で、イリスがゆっくりと口を開く。
「社長は確か南の方に住んで居られた時がありましたよね?」
 その質問に、サルヴァトーレは片眉をぴくりと動かし目を細めた。サルヴァトーレはイタリア北部の出身だが、確かに8歳から15歳の時まで南部の片田舎で暮らしていたことがある。別にそれ事自体は、調べればすぐに分かることだ。サルヴァトーレが反応したのはそんなことではない。
「それがどうした?」
 なぜ、今それを聞くと風なぞんざいな物言いで、サルヴァトーレがイリスに問い返した。サルヴァトーレの機嫌を損ねたことは明らかだったが、最初の問いを投げかけた時点でイリスもそれは覚悟していた。
「いえ。毎年、その土地を訪れておられるようでしたので……」
 慎重にサルヴァトーレの様子を伺いながら、尚もイリスが話を続ける。サルヴァトーレは故郷でもなければ、商業的に利点があるとは思えない田舎町を年に一度は必ず訪問しており、その時には絶対に一番信用を置いているイリスですら近寄らせず、何をしているかも絶対に口には出さなかった。どこへ行っているのかぐらいはイリスもある程度は把握している。しかし、サルヴァトーレに直接尋ねるようなことは今の今までしてこなかった。
「何か特別な思い入れがあるのではないかと……赤毛の男もそこの出身なのでしょう?」
 イリスの最後の言葉を聞いた途端、サルヴァトーレは乾いた笑い声を上げる。そして、徐にイリスの方へ顔を向けた。
「君まであいつの事を聞くのか、イリス」
 表情こそ穏やかだったが、その声は氷柱のように冷たく威圧感を伴っていた。察しのいい秘書は瞬間的に悟る。これ以上、この件に踏み込んではならないと。いくら優秀な道具であっても、その気一つであっさりと捨ててしまうのがサルヴァトーレという男だ。それを嫌というほどイリスはよく知っていた。
「申し訳ございません。出すぎた真似をいたしました」
 イリスは謝罪の弁を述べ、あっさりと身を引いた。身を弁えている秘書に対し、それ以上咎めることをせず、サルヴァトーレは再び外へ視線を戻した。


 頬杖をつき、すっかり暗くなってしまった外界をほとんど注視することなく、サルヴァトーレはとある男のことを思い出していた。
 その男について考えるのは随分久しぶりだった。恐らく、サルヴァトーレの本来の姿を一番良く知っているのは、間違いなく赤毛の幼馴染であるあの男だろう。
 散々、世話をかけてやったにも関わらず、10年前に男はサルヴァトーレを刺して姿を消した。
 逃亡した幼馴染を敢えてサルヴァトーレは追いかけることをしなかった。彼のプライドがそれを許さなかったのだ。風の噂でマフィアに身を堕としたと聞いたときは、主人に手を噛んだ当然の報いだとせせら笑ったのを覚えている。今現在、男が生きているのか死んでいるのかさえ、サルヴァトーレは知らない。
 ただ、もし彼が生きているのだとしたら、必ずどこかで会うことになるだろうという核心も持っていた。
 あの幼馴染は己の家族を何よりも愛していて大事にしていた。今も彼の家族は何も知らず、穏やかな生活を送っている。
 彼らに何かあればいつの日にか姿を現すことだろう。自分はその時を待っていればいい。

(そうだな、もし再開した暁にはおれを裏切った報いを払ってもらおうか)

 サルヴァトーレは今どこにいるとも分からない赤毛の幼馴染に向ってそう人知れず告げると、密かにほくそ笑んだ。