傍観者と引きこもりと後輩の話

 夕食の材料がつめられた買い物かごを両手に持ったオルが、スーパーで食材を物色している最中のことだった。
「せーんぱい! 偶然ですね!」
 知っている声に振り向けば、そこにいたのは会社の後輩であるリディア・ハーゼスの姿。
茶髪のポニーテールを揺らしながら、愛くるしい笑みを浮かべて、彼女はオルに駆け寄ってくる。
「まあね」
 そんな彼女にオルは素っ気無い返事を返した。
 リディアはあくまで偶々出会いましたよ風を装っていたが、オルは知っていた。彼女が、オルが家を出てからこのスーパーまでずっと跡をつけていた事を。しかし、その件については先輩の寛大な心を持って触れないでおいてやった。
「それ、今日の夕食ですかー?」
「うん」
 かごの中を覗き込みながらリディアが尋ねると、オルはこくりと頷く。
「ちなみに今日は何にするんですか?」
「すき焼き」
「すき焼きって……。ああ、日本の!」
 リディアは両手を合わせ、きらきらした笑顔をオルに向ける。その何かを訴えかけるような瞳に、オルは彼女の次の言葉を察した。
「先輩! もしよければ夕食、私もご一緒していいですか?」
 見事すぎるくらい予想通りのリディアの言葉にオルはやれやれと肩を竦めた。
「別に構わないけど、野菜はともかく肉はあんまないよ」
「あ、大丈夫ですよー。お肉なら私が自分で買いますから」
 そう言うやいなや、リディアは精肉コーナーへと驚きの速さで向かう。そして、一番高い肉を掴み取ると、あっという間にオルの元へと戻ってくる。
「これで問題ありませんね!」
「その無駄な行動力は素直に感服するよ」
 次期経営者に押されるだけのことはあるが、逆に言えば身内はその能力をもっと他へ向けてくれと嘆いていることだろう。
 だが、そんな事はオルの知ったことではない。彼の目下の関心はハーゼス家の行く末より、今夜の夕食だ。
 上機嫌のリディアをよそに、オルはさっさと自分の分の会計を済ませた。





「ただいまー」
「……」

 安アパートのオルの部屋に戻ると、一人暮らしであるはずなのに何故かドアの鍵が開いていた。
 だが、オルはその異変を気にせず、誰もいないはず部屋に向かって声をかける。すると、その部屋の住人ではないはずの黒いフード服を着た眼鏡の男――世間的にいうなら、おそらくオルとは友達関係になるのだろう鈴木尚道が姿を表した。
 鈴木はオルに返事をしようと口を開きかけたが、オルの後ろにいたリディアの姿を見た瞬間に眉を顰めた。
「キャッチセールスに捕まったあげく、家にまで上がられるなよ」
「この状況下で恋人という選択肢を意地でも出さない辺り、さすがだね」
「あり得ないからな。で、誰だそいつ」
 鈴木が不躾な視線をリディアにぶつける。リディアの方はオルの言った「恋人」という単語に眼を輝かせていたが、鈴木の問いかけに我に返った。
「私は先輩の恋人で……」
「会社の後輩だよ」
 リディアの言葉をオルが即遮り、正しい説明を鈴木にする。
「何でお前の会社の後輩がここにいるんだよ?」
 リディアの素性が分かっても、鈴木は尚も憮然とした表情でオルに問うた。元来人間嫌いでさらに女嫌いな彼にとって、よそ者が自分のテリトリー(オルの家だが)に侵入されるのは不快でしかないのだ。
「んー、彼女もすき焼き食べたいんだって」
 なので、オルの返答に鈴木はますます眉間の皺を深くさせた。
「はぁ? 他のやつ入れたら、おれの食べる肉が減るだろが」
「その辺は心配しなくても彼女自身が肉買い足してくれたよ。高いやつをさ。ねっ?」
「はーい」
 オルがリディアの方に顔を向けると、彼女ははつらつと返事をする。
 しかし、オルがそう言っても鈴木はまだ不満そうだ。オルもどう説得した所で、鈴木が納得するわけがないと分かっていた。なので、さっさとリビングへ向う。
 リディアがオルに引っ付いて行く傍らで、鈴木は仏頂面のまま、渋々オルたちに付いていった。
「まー、そういうわけだから、ぐたぐた言ってないで準備してね。じゃないと、いつまで経ってもすき焼きにありつけないから」
 いつまでも駄々をこねていると食事を作りませんよという脅しを滲ませつつ、オルは鈴木にそう告げると、すき焼きの準備のために台所へ行く。
 ぽつんと残された鈴木は言われた通りにすき焼きの準備をするでもなく、上機嫌にコートを脱いでいたリディアをじろりと睨みつけていた。

「おい……」
 不機嫌極まりない低い声で鈴木がリディアを呼ぶ。すると、リディアが「何ですかー?」怪訝そうな面持ちで鈴木に近寄ってきた。
「今すぐこの場から失せろ。帰れ」
「なっ」
 一切オブラードに包むことない鈴木の暴言に、リディアは思わず呆気に取られる。だが、すぐに当然の如く憤慨した。
「な、何でですかーっ。先輩が一緒に食べてもいいって言ってたのに!」
「あいつが良くてもおれが嫌だ。さっさと消えろ」
「ここは先輩の家ですよ。何であなたに指図されなくちゃならないです?」
「何でって、すき焼きに使うガスコンロと鍋はおれの家の物だからだ。これで分かったか?」
 得意げな顔で、鈴木は低いテーブルの上に置いてある、鍋が乗ったガスコンロを指差した。
が、当然リディアがそれで「はいそうですか」と言う事を聞くわけがない。
「分かりませんー。大体、先輩の家で我が物顔のように振舞ってますけど、あなた一体先輩の何なんですかっ!」
 鈴木はもう最初からリディアを敵と見なしていたが、彼女の方も鈴木の存在を同じように捉えたらしい。ぎりぎりと歯軋りが聞こえるようの勢いで、リディアは鈴木に対して敵意をむき出しにする。
 鈴木はリディアの問いに答えようと口を開きかけたが、暫しの間考えこむ。
「おれはオルの……そうパトロンだパトロン。多分」
「はぁ?」
 彼なりに頭の中でいろんな葛藤や妥協を繰り返した結果出された答えは、あまりにもあんまりなものだった。
 リディアはますます不審そうな視線を鈴木に送る。通常なら、彼女の質問にもっとも相応しい返答は『友達』といった所だろう。最初の方はリディアもそう思っていたのだが、ふとあることに気づいた。
 目の前にいる男はどう見ても東洋系だ。そして、彼がオルと日本食であるすき焼きを食べる予定だったのなら、この男は日本人である可能性が高い。
 オルと親しげな日本人。リディアは先日執事から告げられた衝撃的情報を思い出していた。
「あー、分かりました。あなたですね。先輩の恋人である日本人って!」
「はっ?」
 突如、リディアから発せられた突拍子もない言葉に、鈴木は「何言ってんだこいつ」といった具合に目を丸くした。
「そうか。パトロンってことは先輩を金で買ったんですねっ。この卑怯者!」
「おい、何の話だ……」
 困惑する鈴木をよそに、リディアは勝手にストーリーを自分の中で組み立てていく。彼女の中では、鈴木という男は常に金欠で苦しんでいるオルを金で好きなようにしている極悪人ということになっていた。
「でも、お金なら私にもありますからねー! 先輩は私と結婚する予定なんですっ。その方が先輩も絶対幸せになれますっ」
「…………」
 一人暴走するリディアに、鈴木は頭を抱えて黙り込んだ。鈍い頭痛が襲ってくる中、なんとか状況を整理しようと頭を働かせる。
 目の前の女がオルと自分が付き合っていると邪推しているのは分かった。大家である老婆にも同じ勘違いをされていたから、自分たちは恋人同士であるという勘違いが世間に広まっているらしいと、とてもくだらない事実に気づく。まあ、だからといって、鈴木にその誤解を解こうという気は面倒なのでまったくなかったが。
 そして、リディアの言葉から考えるに、彼女はオルに好意で抱いて結婚したいと考えており、そのためにはオルの恋人(と勝手に思っている)鈴木の存在が邪魔だと。つまり、そういうことらしいと鈴木は結論づけた。
「何て悪趣味な……。つーか、頭大丈夫か?」
 物好きな奴もこの世にいたものだと、鈴木は何とも微妙な顔をして彼女を見た。ただし、己もその悪趣味な男としょっちゅう行動し、かつ恋人同士だと思われているという事実は彼の中で華麗に無視されていた。
「というわけで、先輩と今すぐ別れて下さい!」
「あ?」
 リディアの言葉に鈴木は思わずムッとする。別にオルが誰と付き合おうが構わないと彼も思っている。だが、類は友を呼ぶという言葉があるように、オルも捻くれ者なら鈴木も 捻くれ者だ。命令されると、すぐ臍を曲げてしまう。
「何でお前にんなこと指図されなきゃならないんだ」
 鈴木とリディアはお互いの存在を牽制するように鋭い視線をぶつけ合う。辺りに不穏な空気が流れ始めた所で、それを遮るかの如くすき焼きの材料を持ったオルが姿を現した。
「喧嘩する暇あったら、皿出してねー」
 オルは材料をテーブルの上に置いてその場に座ると、鈴木たちに指示を出す。オルの言う事に対しては、とても素直に聞くリディアはそれにすぐ従い、人数分の食器を用意し始めた。鈴木の方はといえば特に何をするでもなく、オルがガスコンロに火をつけて鍋に割り下を入れているのをただ見ているだけだった。まあ、彼の場合は余計な事をしない方がいいとオルもこれまでの付き合いから分かっているので、特に文句も言わずに今度は肉を投入する。
「ついでだから、ご飯も用意してくれる?」
 材料を鍋の中で綺麗に並べながら、オルはテーブルの上に皿を並べているリディアに声を掛けた。
「分かりましたー」
 リディアは頷くと、テーブルの近くにあった炊飯器の側に腰を下ろし、蓋を開けた。温かな真っ白な水蒸気の中から現れた白米をリディアは慣れた茶碗によそっていく。その最中、ふと見上げると依然として不機嫌そうな顔して立っている鈴木が目に入った。
「私、あなたのこと少々調べさせてもらいました」
 ぽつりと呟かれた言葉に、鈴木はピクリと片眉を動かす。そして、首を下に向け、じろりとリディアを見やった
「いい年して働きもせずに、一日中家に引きこもってるそうじゃないですか」
「……それがどうした」
 リディアが告げた事は紛れもない事実であるため、鈴木は特に反論せず腕組みをして、ふくれっ面をしたままだ。
 一応、金は持っているし、法を犯しているわけでもないから別にいいだろ的な言い訳は心中でしていたが。
「そんな人が先輩に相応しいとは思えません。なので、やはり別れてください!」
 立ち上がり、鈴木に向かってびしっと人差し指を刺し、リディアは声高に迫る。
「……これだけは言っとくが、決してオルもまともな人物ではないからな」
 もうまともな会話をすることは諦めていたものの、鈴木は苦虫を噛み砕いたような表情でそれだけは主張した。
 しかし、それにしても腹が立つ。なぜ、見ず知らずの相手に己の素性をあれこれ詮索された挙句、人間関係にまで口を出されなければならないのか。
 苛立った鈴木は、何とかしてこのムカつく女に一泡吹かせらないものかと思案する。そして、何かを思いついたのか密かに口元を吊り上げた。
「大体、おれに色々言うがお前こそどうなんだよ。オルに相応しい女なのか?」
「私……? もちろんそうに決まってるじゃないですかっ。」
 鈴木の予想してなかった返しにリディアは一瞬キョトンとした顔を見せたが、すぐに自信満々に答えた。
「ほー。なら、オルとの付き合いは何年になる?」
「二年ですけど……それが何なんですか?」
「おれは三年だ。おれの方が一年長い!」
「!?」
 どうだ参ったかと言わんばかりの勝ち誇った顔で、鈴木は言い放つ。あまりにも幼稚な言い草だったが、リディアの表情を見る限りではそれなりに効いたようだ。
「た、確かにそうですけど、大事なのはこれからじゃないですか。過去の事を持ち出すなんて卑怯ですよっ」
 必死で反論を試みるリディアに鈴木はズボンのポケットに手を入れ、何かを取り出す。
「今現在でもおれの方が優位だな。なぜなら、おれはオルの部屋の合鍵を持っている!」
「!!?」
 乾いた高笑いを上げながら、鈴木は合鍵をリディアに見せ付けた。 その鍵は過去に鈴木がオルは勝手に自分の部屋に入れるのに自分はそうでないのは不公平だとごねた結果、「なら、君も勝手にボクの部屋に入ったら?」とオルに渡されたものだ。
 それはさしずめ魔王を一撃で倒せる伝説の剣のかのようにリディアの目には映り、彼女に大ダメージを与えた。
 してやったりの鈴木はとても満足そうな笑みを浮かべた。
 彼の言動はリディアを打ち負かしたいという思い以外の他意は含まれてはいないのだが、 こんな風だから周りにオルとの仲を邪推されるのだということには気づけなかった。気づいても、鈴木はどうでもいいとしか思わないのだが。
「先輩。私にも合鍵下さいよ〜!」
 悔しくて堪らないリディアは、オルに甘えるような声を出してねだる。
 この争いの原因にも関わらず、リディアと鈴木の修羅場の蚊帳の外にいたオルはやれやれと息を吐いた。
「君の場合、わざわざ鍵を渡さなくても勝手に部屋に入れるでしょ」
「そうですけどー。先輩から貰いたいんですっ」
 オルの問題発言をあっさり認め、リディアは尚も合鍵をねだる。しかし、オルはやる気なさそうに、取り皿の中の生卵を箸でかき混ぜていた。
「どうでもいいけどさー。早いとこ食べないと、せっかくの肉が固くなるよ」
 オルに言われて、リディアと鈴木は鍋を上から覗き込む。すき焼きはぐつぐつといい具合に煮立って、食欲をそそる匂いを発していた。
「あっ、忘れてた。おれの肉!」
 この家にいる本来の目的を思い出した鈴木は、興味をリディアからすき焼きへと切り替える。いつまでも、こんなくだらことをやっている場合ではないと、夕食にありつくためオルの隣に座ろうとしたのだが……
「そこは私の座る場所ですー! 先輩から離れてくださいよ、この引きこもりっ」
「ぐあっ」
 リディアは素早く鈴木の左脇腹に膝蹴りを食らわし、オルの横に座ろうとしたのを阻止する。いきなりの攻撃に鈴木はなす術もなく吹っ飛ばされるしかなかった。
「何すんだっ、このチビ!」
 痛む箇所を片手で押さえながらゆらりと立ち上げると、鈴木は声を荒げて鬼気迫る表情でリディアに詰め寄る。しかし、当の彼女はまったく怯むようすも見せず、むしろ鈴木を迎え撃つかのように空手の構えを取った。
「人を身体的特徴で呼ばないでください! これだから引きこもりは人への配慮ってもないんだから」
「うるせえ、うぜえ、死ね!」
 完全にキレた鈴木は今にもリディアに襲いかかろうとするぐらいの勢いで声を荒げた。
 あんまり煩くすると隣の部屋のシングルマザーとその娘から苦情が来るんだけどなと思いつつ、オルは口には出さずに一人勝手にすき焼きを食べながら状況を傍観していた。
「やりますか? 小柄だからって舐めないでくださいねっ。あなたみたいなヒョロ男なんか軽くKOできます!」
「ふんっ。馬鹿正直に素手で戦うと思ったら大間違いだからな!」
 鈴木はいつも護身用に持っているスタンガンをパーカーのポケットから取り出すと、ばちばちと慣らしてリディアを威嚇する。
 それを見て、リディアは信じられないとばかりに目を見開いた。
「普通、女の子相手に武器使います? 非常識です!」
「女の子って年か、バーカ。あと、お前だけには常識を語られたくねえよ」
「あなた、本当に最低な男ですねっ」
 リディアは鈴木を思いっきり睨みつけた後、オルのほうへ身体を向けた。そのさいにテーブルに接触し、すき焼きの鍋が揺れる。
「おっと、危ない」
 オルは即座にテーブルを押さえ、なんとかすき焼きの窮地を救った。
「先輩、何なんですかこの人!」
 リディアが鈴木を指差して怒鳴る。
「んー、近所の引きこもり」
 この後の危険を察知し、オルは一端ガスコンロの火を消した。
「オル、何なんだこの女!」
 リディアに負けじと鈴木も叫ぶ。
「だから、会社の後輩だって」
 君ら、うちにすき焼き食べに来たんだよね?という視線をオルは二人に向けたが、鈴木とリディアの争いはいまだ収まる気配すらなかった。
 このままでは、いつすき焼きの入った鍋ごとひっくり返されるか分かったものではない。すき焼きの身を案じたオルは、ある手に打って出た。
 携帯を取り出し、おそらく彼が一番よくかけ、そしてかかってくる人間の番号を押す。すぐに相手は電話に出た。

「あっ、課長。今自宅ですか?」
「ん? そうだけど。何か用事か?」
 通話口からオルの上司である課長の声が聞こえる。普段、オルに接する時は怒鳴ってばかりの彼も今日は仕事絡みではないので、口調はいつもよりかなり穏やかだった。
「夕飯もう食べました?」
「いや、これから作ろうと思ってるけど……」
「そうっすか。丁度良かった。今、すき焼きの材料がたくさんありましてね。もし、よければ課長の家で一緒に食べません?」
「お前とー? まあ、いいか、肉が食えるし。分かった、来いよ。準備しとく」
 課長も独り身なのでどうしても食事は侘しいものとなる。オルが料理上手なのは彼も知っていたので、あっさりとオルの申し出を承諾した。
「はーい」
 了承の返事を得て、オルは携帯の電話を切ると、さっそく課長宅へ行く準備を始める。一方の鈴木とリディアはいまだ言い争っており、オルの様子にまったく気づいていない。
 そんな二人を放ったらかして物音を一切立てずに、オルはひっそりとすき焼きの材料を持って、部屋から出て行く。しかも、ちゃっかりと肉は自身が買った安物ではなく、リディアが買った高いものを持ち出していた。


 残された二人はオルがいないのに気づくのは、それから十数分たった後のことだった。