Heimat1

 朝日が顔を覗かせ、小鳥達が一日の始まりを伝える早朝。ユーキ・シラサギの心地よい眠りは、「起きろ、ユーキ!」という若者の声と謎の浮遊感によって突如終わりを告げた。
「ふぇ?」
 まだぼやける視界に映る景色が反転する。そして、ユーキの身体は重力という逆らえない力によって床へと叩きつけられた。
「ぐえっ」
 蛙が潰れたような声を漏れる。ユーキは痛みに悶えつつ、何とか身体を起こした。
「な、何? 一体何が起こったの?」
 寝起きの頭が状況を処理しきれず、軽くパニック状態に陥ったユーキは目を何度もぱちくりさせる。
「腹減った、飯」
 そんなユーキの頭上から、先ほどの若者の声。視線を上に向ければ、そこには空色の髪とアメジストの瞳を持った青年が偉そうに仁王立ちしていた。
 見た目はどこにでもいる二十歳前後の普通の若者だ。彼が普通でないところといえば、片手でさっきまでユーキが寝ていたベッドを軽々と持ち上げていることぐらいか。
「腹減ったって……。今、何時だと……」
 ユーキは壁にかけてある時計をちらりと見やる。針は午前四時を指し示していた。
「何時もなにも朝には違いないだろ。とにかく朝飯まだか」
 しかし、青年はユーキの指摘を無視し、尚も食事を要求する。
(テメーはじじいかっ!)
 ユーキは即座に心中で突っ込んだ。口に出さないのは目の前の男に言ったところで無駄だと知っているからだ。
 一向に動く気配のないユーキに焦れてきたらしい青年は、眉間に皺を寄せてベッドをさらに高く持ち上げた。
「何だ、まだ目が覚めてないのか? 早くしないとベッド投げつけんぞ」
「止めてください。目覚めるどころか永眠しますからそれ」
 言う通りに朝食の準備にとりかかからないと、本当にベッドを投げ飛ばしかねない男だ。それを重々承知しているユーキはようやく重い腰を上げた。
 ユーキが動いたのを見て、青年はベッドを床に下ろす。その様子を横目に見ながら、ユーキは清清しい朝に相応しくない深いため息をついた。






「ユーキ、まだか! おれを餓死させる気かー!」
 食事の準備を始めたはいいものの、待ちきれないのか、フォークとナイフでテーブルを叩きながら、青年が催促を飛ばす。ユーキは心底うんざりしながら、首だけ青年の方を向けた。
「まだ、作り始めて五分しかたってませんってば。そこにある食パンでも齧っててくださいよっ」
「こんなんじゃ、腹の足しにもならないぞ。しまいにゃ、お前を食うからな、ユーキ!」
「あなたが言うと洒落に聞こえないんですよ……」
 たく、この我侭坊主がと心で毒づきながら、ユーキは慣れた手つきで調理していく。別に料理好きはなかったのに、青年と共に生活していくうちに今では特技といっていいぐらいに腕は上達した。ユーキにとっては喜ばしくも何もなかったが。
(はぁー……情けねぇ。一回りの下のガキに言いように使われるとは。あんな、契約かわしてなきゃなあ)
 ユーキはもう何度目になるか分からない後悔をした。
 第三者がこの二人の様子を見たら、ユーキがまるで青年の家来のようだと言うことだろう。実際、青年曰くユーキは自分の「下僕」なので、その見立ては何ら間違ってはいない。
 そして、青年の「下僕」になることを選んだのは他でもないユーキ自身だった。






 全ての始まりは一年前にさかのぼる。

 鬱蒼とした森の中。男の荒い息遣いが響く。顔を苦痛に歪め、何かから逃れるように男が一人、一心不乱に走っていた。にも関わらず、足取りはどことなく鈍い。彼の右足を見れば、理由はすぐ検討がついた。彼のズボンがじんわりと朱で染まっている。
 右足は鈍い痛みをひっきりなしに訴えてくるが、男がけっして足を止めることはなかった。
 その訳は男の後方にある。男がちらりと後ろを振り返った。姿はないが、しっかりと耳に届く怒声。しかも複数人だ。
 男はとある組織に諸事情で追われていた。彼らに捕まれば、その時点で男の命はない。それが分かっているから、男はがむしゃらに逃げる。
 しかし、とうとう右足が限界を迎えたのか、彼は転んでしまった。
 必死で前へ進もうとするが、もはや右足が言うことを利かない。
(ダメだ、これ以上は動けねぇ!)
 そうこうしているうちにだんだんと自分を追う者たちの声が大きくなる。焦る男は咄嗟に茂みに姿を隠した。
 身を屈め、どうか見つかりませんようにと祈る。そのシルバーブルーの瞳は恐怖に満ちていた。



 それからどのくらいたったのだろう。追跡者の気配は今だ消えることがない。傷ついた足は痛みを増す一方だ。最悪の状況で男が長期戦を覚悟したときだった。
 ズンっという音とともに地面が揺れる感覚がした。地震かと男は一瞬思ったが、それにしてはどこかがおかしい。地面全体が揺れているのではなく、男がいる周辺だけが揺れているような……
 そして、またズンッと地中から先ほどより強い音と揺れ。それらはだんだんと強くなっていき、感覚も短くなっていく。そして……
「なっ!?」
 突如、男のすぐ側で巨大な砂柱がたち、大量の土が上空へと舞い上がった。もうもうと土煙が上がる中、そこに現れたのは巨大な穴と一人の若い男の姿。
 砂埃で汚れてはいたものの、人目をひく鮮やかなスカイブルーの髪に紫水晶のような瞳。
 どこからもなく出現した青年は両手を大きく動かす。まるで、そこに何も触れるものがないことを確かめているように。そして、青年は歓喜の雄たけびをあげた。
「土がない! 明るい! ということはここが外か!!」
 すると、今度は両手を上に上げ、己の髪と同じ色の空を見上げる。。
「と、いうことはあれが空だな。あいつらが言ってたようにめちゃくちゃ広い! そして真っ青だっ」
 まるで宝物を見つけた子供を思わせるような笑顔で、青年はただ上空を眺めていた。そんな青年を男はただ茫然と見やる。あまりにも理解の範疇を超える光景に、男の脳は今差まっている危機を忘れてしまったようだった。
 すると、今度は青年が男の存在に気づいたらしい。さっきの無邪気な笑顔とは打って変って不審の視線を男にぶつけた。
「誰、お前? 別にどうでもいいけど」
「いや、そりゃこっちの台詞だし……」
 状況に思考がついていかず、男はどうしていいのやら途方にくれる。だが、自分の探す者たちの声が耳に入り、ようやく自分の陥っている危機を思い出した。
「って、こんな会話してる場合じゃねえんだよ。おい、そこのガキ! どうやって地中からてめえが現れたかなんてこの際置いとくから、ちったぁ静かにしろ。あいつらに見つかっちまうだろ」
 痛む足を堪え、男が青年に掴みかかる。
「取りあえず、外出ることは出来たから次は……。そうだ。海へ行こう」
しかし、青年は男のことなど気にもしていないようで、ぶつぶつと何やら独り呟ていた。
「おい、こら。訊いてんのかてめえ。静かにしろって言っただろ。ぶん殴るぞ」
「海……でっかい水溜りでよかったっけか。どこ行きゃあるんだ海」
「このっ、くそガキ……」
 一向に成立しない会話に男の苛立ちが積る。暴力沙汰は好きじゃないが、しまいにゃ本気で殴ってやろうかと思ったが、次に耳に入ってきた言葉にその考えが吹き飛んだ。
「おい、あっちで声が聞こえたぞ!」
 すぐ近くで聞こえた奴らの声と足音に男が焦る。
「やべえ! こんな得体の知れない奴と関わってる場合じゃなかった!」
 足を引きずりながら、男が急いでその場を離れようとする。ところが……
「なあ、お前海の場所分かる?」
 空気の読まない青年が、よりにもよってふざけた質問で男を足止めした。
「知るか! それどころじゃねーよ。他当たってろ!」
 苛立ち紛れに男はそう吐き捨てる。一刻も早く逃げなければならないのに、無駄な時間をここで食うわけにはいかない。
 青年を完全に無視し、今度こそ男はその場から立ち去ろうとした。
「あっ、待て。まだ、話は終わってない!」
 男の切羽つまった事情など我関せずな青年は、男を引きとめようと彼の腕を軽く引っ張る。その瞬間、グキッという嫌な音と共に人生最大の痛みが男を襲った。
「――っ!!」
 哀れな男の絶叫が森中に木霊する。激痛にとても立っていられず、男は倒れるようにその場に蹲った。
「肩がっ……肩がぁ〜」
 脱臼した右肩を左手で押さえ、男が呻く。額からは脂汗が滲む。
「海の場所は……」
 ことの元凶は事も無げに同じ質問を繰り返す。
「それどころじゃないって、見て分かんだろ。この大馬鹿ヤロー!!!」
 あまりにも理不尽な仕打ちに今日は何の厄日だと、男は我を忘れて叫ぶ。だが、その愚かな行為がさらなる悲劇を呼んだ。
「いたぞ、あそこだ!」
 銃を構えた追って三人が男と青年の前に姿を現す。
「ギャー! 詰んだー!!」
 三人は銃を男に向け、じりじりと距離を詰めてくる。
 絶対絶命、袋小路の鼠、万事休す。哀れな男にもはや逃げ場などなかった。
「ようやく見つけたぜ。久しぶりだなユーキ」
 追っての一人が下衆な笑みを男に向けた。
「ハハハ、どうも……」
 乾いた笑いを上げながら、男――ユーキはずりずりとしゃがみこんだ体勢のまま、後ろへと下がる。
「お前も随分馬鹿なことをしたようなあ。組織の金に手をつけるなんてよ」
「いやー、そんな取るにたらないはした金じゃないか……」
「はした金だろうがなんだろうが、組織の面子ってもんがあるかなあ」
「おれ、ただのその辺にいる小悪党だから、そんなごたいそうな面子分かんねぇのよ」
 他愛のない会話からも、処刑のカウントダウンが刻刻と進んでいるかのような緊張感が走る。。
 溺れるものは藁をも掴む思いで、無駄とは知りつつもユーキは先ほどから黙って傍観している青年の後ろに隠れた。
 すると、黙っていた青年はユーキを指差し、男たちに向ってこう告げた。
「何かよく分からないけど、おれ、こいつに聞きたいことがあるから少し黙ってろ。それかお前らが海におれを連れて行くんなら、それでもいいけど」
「あぁ?」
 突然、会話に割って入ってきた上、意味不明なことを言う青年に、男達の敵意がユーキから彼に移る。
「誰だ、てめー。そいつの仲間か?」
「んにゃ、違う」
「なら、関係ねぇやつはとっとと失せろ。殺されてぇのか!」
 男達が殺意の篭った刺すような視線を青年に向けた。しかし、青年は臆することなく、逆に男達をにらみつける。
「何でお前らに命令されらなきゃならないんだ。そっちがさっさと失せろ。で、なきゃ、ぶっ飛ばす」
「ぉ、おおい! 勝手に出てきて挑発すんな! 状況分かってるんのか、奴ら銃持ってんだぞ!」
 マズイ事態にユーキが慌てて青年の服を掴み、制止しようとした。どの道、すぐに殺されることになるのだが、出来る限り足掻きたいというのが人間の生命本能だ。が、そんな必死な努力もむなしく。もうすでに手遅れだった。
「ハハっ。どうやら、その坊やはお前と一緒に死にたいようだぜ、ユーキ。なら、お望み通りにしてやるよ!」
 男たちが銃の引き金に指をかける。
(あ、終わったっ)
 この後起こるであろう惨劇を予測し、ユーキは現実逃避するかのように咄嗟に目を閉じる。そして、無情にも銃声が鳴り響いた。


「えっ……?」
 しかし、ユーキの身体には何の変化もない。助かったのか? けれどどうして? 様々な疑問が頭を駆け巡る中、おそるおそる目を開ける。目に飛び込んできた光景は常識をはるかに超えたものだった。
 至近距離で放たれたはずの弾は、ユーキや青年に一発たりとも当たっていなかった。代わりに、二人の周りの木々には何故か無数の穴が空いている。
 男たちはというと、何か信じられないものをみたかのような目で青年を見つめていた。銃を握る手がかすかに震えている。
「な、何だよてめえ。この化け物が!」
 男達の一人が再度青年に向って発砲する。次の瞬間、ユーキは驚きに目を見開き、そして理解した。なぜ、男たちが青年を怯えたような目で見ていたのかを。
 弾丸は青年には届かず、回転しながら空中で止まっていた。
「こんなもん、おれに効くか」
 青年は鼻で笑うと、右手を振る。すると、弾丸は軌道を変え、近くの木にぶつかった。
(な、何モンだよこいつ)
 人間ばなれした、というよりもはや人間じゃない離れ技をしてのけた青年に、自分を追う男達以上の危険さを感じ、無意識にユーキは青年から離れる。いまや、ユーキにとっては眼前の青年のほうがよっぽど怖かった。
 しかし、青年がユーキに向って放った一言により事態は急変した。
「お前、あいつらに命狙われてるんだよな?」
「え? ああ……」
 予期せぬ質問にユーキは呆気に取られ、思わず頷く。
「助けてやってもいいぞ」
「はっ?」
 青年の放った言葉の意味が飲み込めず、ユーキはその場にそぐわない惚けた顔で青年を見上げた。
「おれ、行きたいところがあるんだけど、そのためには海を目指さなきゃならない。でも、おれは海を見たことがないし、どこにあるかも分からない」
「は、はぁ……」
 突拍子のない青年の話はユーキにとっては完全に理解不能で、適当に相槌を打つことしかできない。青年はそんなユーキに構わず、さらに話を続けた。
「だから、おれを海に連れていく下僕がいるわけだ。お前がおれの下僕になるならあいつらやつけてやってもいいぞ」
 青年は男たちを指差す。
「どうする? 嫌ならおれは一人で海探す」
「……」
 青年から突きつけられた選択はあまりに非現実的だ。いつものユーキなら頭の狂ったやつの狂言かとせせら笑い、歯牙にもかけなかったことだろう。
 だが、ユーキは先ほど青年がやったであろう不思議な力を目にしている。そして、この選択には文字通りユーキの命がかかっていた。
 直感が告げる。助けるためにとる道は一つしかないのだと。
 
 こうして、ユーキ・シラサギは青年――アーロンの下僕となることを選んだのだった。





 ユーキが今も生きているのは、アーロンの下僕になったからこそなのだが、今となってはあの時の選択を死ぬほど後悔していた。
 とかく、彼の一応主人であるアーロンは、先ほどまでの言動を見ていれば分かるように、物凄く我がままでお子様だ。世界が常に自分のために回っていると思っていて、自分のために人が動くと考えている。というより、力ずくで動かしている。
 十いくつも年下にいいように使われるさまはまさに下僕そのものだった
 朝から陰鬱な気分になりつつ、目玉焼きでも作ろうとユーキは卵を握る。殻を割ろうとした時だった。
「がっ!」
 後頭部を襲う強い衝撃と痛み。その反動で卵が床に落ちる。耐え切れず、ユーキは頭を押さえ、床へとしゃがみこんだ。目の前を星がちらつく中、ユーキは涙目になりながらアーロンの方を見た。
「目玉焼き作るのにどんだけ掛かってるんだ!」
「だからって、ソースの入ったガラスの容器をおれの頭にぶつけんで下さい!」
 卵割る前におれの頭が割れてしまうわっとユーキの突っ込みが飛ぶ。ただし、例によって声には出さなかった。
 アーロンの一番の問題は気に入らないことがあると暴力に訴え出ることだ。常人ならまだしも、アーロンが持っている人間を超えた力は洒落にならない。
 ユーキの粘り強い交渉の結果、彼が普通に殴ったり蹴ったりすると人の身体は簡単に木っ端微塵になるということを覚えて貰うことには成功した。しかし、アーロン曰く軽く撫でた程度の力でも、ユーキの肋骨にヒビまたは折れるぐらいは悲しいことに日常茶飯事だった。
 これじゃあ組織の奴に消されなくても、こいつにいずれ殺されかねないと怯える日々を過ごしている。
 逃げ出せるものなら逃げ出したいが、なまじアーロンの強さは身近で見てるために後が怖い。
 今日も今日とて主人にこき使われながら、下僕が密かに願うことはただ一つ。

――あーあ。こいつ、早く死なねぇかな――